因なる瞳が、喚んだ禍事4
『だから駄目って言ったじゃない』
「ごめん、母さん」
『あれだけ言ったのに、新は何も分かっていなかったのね』
「ごめんなさい」
『考えたなら分かるでしょう?』
「ごめん……」
『他者を貶めて自分だけ平穏と暮らす妖精の息子が、その貶めた他者と関わって良いわけが無いって』
「ッッ!」
夢なのか現実なのか、はっきりしない会話の末に穂摘はがばっと上半身を起こした。
いつの間にか寝ていたらしい。
眠る前の記憶が曖昧だ。
実際、穂摘は寝ようとして寝たわけでは無いので、記憶が曖昧なのも無理は無い。
だが彼の体はベッドの中で、服は寝巻きに着替えている。
寝惚けながらも自分で着直したのだろうかと思いつつ枕元の眼鏡を取って掛けたところで、穂摘は見慣れているけれどベッドの中では決して見慣れない色を目に留めた。
自分の体に掛かっていた大きめのタオルケットの下に、綺麗な金髪が、覗いて、い、る。
「アリア!?!?」
なぜそこにいる。
なぜそこでねている。
おちついてかんがえよう。
自分には、女を押し倒す度胸など無い。
そこまで考えて一気に頭が冷えていく穂摘。
悲しい事この上無いが、事実だった。
自慢にもならないけれど指一本触れる事が出来ない自信がある。
多分彼女は穂摘が寝てしまったのを良い事に、やわらかいベッドを半分占拠したのだろう。
どうもまともな寝床が無いようだし、ベッドはさぞかし寝心地が良かったに違いない。
穂摘がタオルケットを軽く剥ぐと、いつもの帽子とローブは無く、つんと尖った耳が目立っていた。
光が差し込み、ゆっくりと開かれる翠の瞳。
穂摘と目が合って、彼女は血色が良く透明感のある唇を小さく動かした。
「おお、起きたかアラタ」
「何でそんな所で寝てるんだよ!」
「アラタが私をひっ捕まえて母さん母さんと言うものだから、一緒に寝てやったまでだぞ」
「……うわ」
アリアの言葉に心当たりがあるだけに、穂摘の大して無いプライドはごりごりと削られた。
だが、そこは一応言い訳もしておく。
「た、確かにちょっと変な事言ったんだろうって思うけど、それは悪夢みたいなのを見てたんだよ! だから決してその、母親恋しさとかそう言うわけじゃあ」
「母親の夢でありながら、悪夢なのか?」
「……僕の母は妖精に関わるな、ってうるさくてね。その辺りをぐちぐちと説教されてたんだ。夢で」
言葉に出してみるとこれはこれで情けないような気がしてきた青年は、所在なさげに肩を竦めて横を向いた。
が、アリアはそうは受け止めなかったようで、真剣な表情で体を起こした。
それによって下着が透けたぶかぶかのTシャツ姿が現れ、「この女め、人のシャツをパジャマ代わりに借りて寝るとか無神経にも程がある」と穂摘が怒りたいのか嬉しいのかよく分からない憤りを感じているのをよそに、アリアが喋る。
「妖精に関わるな、か。良い教育方針だな」
自嘲にも似た、悲しげな笑み。
穂摘は、ちらちらと目に入る透けたシャツに気を取られながらも、言葉だけは真面目に返した。
「母の言っていた事はきっと正しかったんだろうけれど、僕自身は別に後悔してないからいいんだ」
妖精に関わってろくな事が起きていないのは確かだ。
アリアが言うように母の教育方針は間違っていなかったはずであり、妖精であるアリアを庇おうとしてその点を否定してもむしろ嘘臭くなってしまう。
穂摘のその言葉を聞いて、関わるべきでは無かった妖精がまた乾いた笑みを浮かべた。
「後悔していない、か。それは本音なのか?」
「別に嘘を言っているつもりは無いさ」
「そのような夢を見ておいて、か?」
言葉を紡ぐ度に、彼女の表情から笑みが消えていく。
母親の夢を見た事をからかっているわけでは無く、穂摘に真剣な目を向けて来ている。
「引き際はお主が判断出来ると言った事、改めよう。アラタは判断出来ておらぬ。倒れるまで無理をしていたのが何よりの証拠だ」
「う、それは、その」
「引かぬアラタに甘えて、それを切り出さなかった私も悪い。やはり……私が単独で取引に向かったほうが良さそうだ。正直に事情を話せばツバキは解放してくれるやも知れぬ」
「相手は妖精も人間も容赦なく殺すような奴なんだぞ。夏堀さんが解放されたとしてもお前がどういう扱いを受けるか……」
相手の持つ力は、妖精の動きを止めるリボンだけでは無い。
妖精に石の力を使う事で誓約を課して、意のままに操る事も可能にしているのだ。
いくらアリアでも、人質をとられている状態でそんな相手に勝てる要素は無いと言っていい。
だがアリアはそこで首を横に振る。
ふわりと、彼女の肩に金の髪が撓る。
「きっと手荒な事はされぬよ」
「何でそんな事言い切れるんだ」
「簡単な事だ。私の石の力で強制的に動かされていたと思われる妖精は何が居た?」
「えーっと、まず最初に吸血妖精、次にこの間墓参りで会った鷲の妖精……あとは、そう言えば妖精の騎士もか?」
「少なくともそれらの妖精の背後に居るのは同じ存在であろう。そこで、妖精の騎士の言葉を思い出せ」
「間接的に聞いただけだからいまいち頭に入って来てないんだけど……あっ」
妖精の騎士の背後に居る存在の行動の全ては「アリアの為」なのだと聞いた事を穂摘はようやく思い出した。
もし本当に妖精の騎士の言っていた言葉が真実なら、
――ガラスの箱に数多の妖精を封じ、箱の中身の妖精達と、箱を手にした人間達との両方を陥れる事。
――ほぼ無差別的に、人間を殺す事。
――穂摘家の墓からアリアの石を手に入れようと画策していた事。
これらが全てアリァガッドリャフの為に行われている事になる。
そうなると……確かにアリアに必要以上の害が及ぶとは考え難い。
「例え私に何か害が及んだとしても、それは当然の報いなのだ。全ては私が力を奪われなければ起こるはずの無かった事であり、更に今起こっている妖精関連の事件の大半は私の為に行われているようなのだからな……」
「それは違うだろ」
穂摘は、アリアの肩を掴んで自分の方にしっかり正面を向けさせた。
もう、どうしても我慢が出来なくなったのだ。
初めて会った時からずっと、他人の罪を自分の罪だと勘違いして勝手に傷ついている馬鹿な妖精が。
その馬鹿な妖精の考えを、彼は否定する。
強く。
「まず、どう考えても僕の母が悪い! 妖精がどういう価値観持ってるのか知らないけど、人間になるつもりなら覚えておけ、盗んだほうが悪い!」
「おぉ……それはラウファーダにも言われたのう」
「次に、お前が望んでもいないのに裏で勝手に事件を起こされてる、これで間違いないな?」
「そうだのう、全く身に覚えの無い事だ。私は人間に害を為す気など無い」
「じゃあそういうのは、相手側のお節介って言うんだ、これも覚えておけ!」
現在様々な事件の裏にあるその根本を、お節介の一言で片付けた穂摘。
言いたい事を言い切った後に、何を熱く叫んでいるのかと自己嫌悪して、彼女の肩を掴んでいた手を放す。
少しずれた眼鏡を中指で軽く持ち上げ直し、複雑な心境が情けなく歪ませた顔を、それでも隣の妖精に向けた。
「……何か反論、あるか?」
「オセッカイとは、アラタのような者の事だと思っておったぞ」
「僕の世話焼きがお前にとって迷惑なら、僕もお節介だろうよ」
「迷惑だなんてそんな事は無い!」
「じゃあ僕はお節介じゃない、そんな連中と一緒にしないでくれ」
「うむ、わかったぞ!」
急迫した状況自体が変わったわけでは無いが、からっとした笑顔が青年の目の前に晴れ渡る。
ようやく戻って来た彼女の調子に、穂摘は少しだけ疲れを取って貰えた気分になっていた。
様々な災難続きで磨り減らされた心身を、互いに支え合う事でどうにか建て直す。
これから難事に立ち向かう為に。
「最悪、僕達はどうなったとしても、巻き込まれているだけの夏堀さんの身だけは絶対に確保しなきゃいけない。だからお前の提案は却下だ。石がもう無いと正直に言う事で、彼女の身の保障がされなくなるかも知れないからな」
「ふむ、それは一理ある」
アリアが納得してくれた事で、穂摘はようやく一息吐く。
今朝は飛び起きてからこれまで、気の抜けるタイミングが無かったからだ。
「……ところで、今何時だ?」
今日は平日。
会社の事を思い出し、穂摘が言葉で訊ねながらもその解を時計盤に求める。
盤の針は、十時を指していた。
嫌な汗が滲み出て、慌てて携帯電話を確認すると、会社からの着信が入っているではないか。
声にならない声が喉の奥から絞り出され、
「……ちっ、ちち、」
「遅刻だのう」
「分かってたなら起こせよ!!」
「もう辞めたらどうだ。一日一食は寂しい」
「何なんだその理由! 僕はいつまでお前の飯炊きやるんだ!」
「いつまでも?」
「逆プロポーズ!?」
「プロポーズはしておらぬ」
「なお悪い!!」
着替えながら会社に電話をかけ、正直に謝ってから急いで出勤する穂摘。
背中の傷は癒えたが、確かにあの予言の頃から不幸しか降って来ていないような気がする。
滅多にしない遅刻の原因を同僚に「女か」とからかわれつつ、あながち間違ってもいないのに何一つとして喜べない現状に一人嘆いた。
だが、嘆いていられるうちはまだマシなのかも知れない。
一人になってしまうとまた現実が襲ってきて、嘆く事すら出来ない精神状況に陥る。
そんな弱さを振り切るべく、彼はがむしゃらに働いた。
頑張って仕事を定時に終わらせた穂摘はレンタカーを借りて帰宅すると、マンション内の来客用の駐車場に停めて自分の部屋へ急ぐ。
「アリアはまだ居ない、か……」
鍵を渡してからは先に帰っている事が多かった彼女だが、普段ならば穂摘の「残業後」の帰宅の時間を見計らって夕食を厄介になりに来る。
彼女が既に居たら、と思ったが居ないのならば仕方無い。
先にやる事を済ませよう、と穂摘が部屋に入ってまず開けたのはクローゼット。
手早くスーツから私服に着替え、次に荷造りを始めた。
ただし、その荷はかなり物騒なものだった。
何しろ明日に相まみえるのは、妖精も連れているかも知れないが……人間だ。
黒崎のように妖精を扱う事の出来る人間、ドルイドである。
傷つける為ではなく自衛の為に、アウトドア用の鞘つきのナイフを取り出す。
妖精相手には無駄かも知れないが、人間相手ならば十分な凶器だ。
用意した物をすぐに出せるように荷の配置に気を遣いながら仕舞っていて、ナニを物騒な事やっているんダロウと我に返る事、数回。
カチャリとドアが開く音が聞こえ、静かに入って来たのはアリアだった。
黒いローブ姿ではなく、きちんと人間の衣服での来訪。
「……ふむ」
穂摘が何をしているのか、見て察したアリアが満足げに頷く。
アリアの後ろには上北が居て、彼女を連れ添う為にきちんと姿を可視化させていたのだろう。
アリアは室内に入り、他からの目が行き届かなくなった事を確認して、自分の胸からぐにゃりと武器を抜き出した。
槍だった。
しかも穂摘の見覚えのある、五つに穂先が分かれた奇妙な形の槍――
「それ、確か上北のじゃないのか」
そう、穂摘は先日その槍に首筋を切られたばかりだ。
傷も完全には治っておらず、その刃を見ると何だか首が痛くなってくる。
穂摘の気など知らないアリアは、のほほんと言ってのけた。
「この槍は、昔に私がこやつに授けた物なのでな。勝手は分かっておるので少し借りる事にしたのだ」
が、それでは上北の武器が無くなってしまうのではないか。
穂摘が心配そうな視線を上北に向けると、アリアは背後に立っている長身の女に振り返って目配せする。
それを受けて上北が面倒臭そうにしながらも答えた。
「……俺は自分の身を守るくらいなら石ころ一つでも余裕だ。他にも武器は持ってるし、一本くらい貸したってどうって事はねーんだよ」
「この通りラウファーダは敵を舐めきっておる。足元を掬われるのが楽しみだのう!」
「あのよ、俺はあくまでお前らのフォローだからな? 俺が足元掬われてる時点でお前ら全滅してるようなもんだぞ」
その状況を想像して、穂摘だけが身震いする。
メッセージを受け取ったのが穂摘である以上、穂摘が矢面に立った状態で話は進む。
上北がやられる時はつまり、少なくとも既に穂摘は敵に何かしらしてやられていると言う事なのだから。
穂摘に見せる為だけに出したと思われる槍をアリアが再び胸に埋めるように仕舞い、改めて妖精二人が穂摘の部屋の玄関で待機した。
アリアは、ブラジャー着用によって黄金比に整えられている胸を持ち上げるように前で腕を組んで、仁王立ち。
「取引は明日だったと思うが……もう行くのであろう?」
穂摘の荷造りを見て彼女が推察したのはそういう事。
「上北を連れて来たんだ、お前もそのつもりだったんだろ」
「指定時間に行っては、罠を張られている恐れがあるからのう。ローブを使って潜むなら早めのほうが良い」
「だよな」
そう言って穂摘も荷造りをして屈んでいたその身を起こし、彼女たちへ近づく。
「アリアが作ってくれた偽の石は服の内ポケットに仕舞ってあるんだけど、存在だけは感じられるのかな」
「ああ、問題ないぜ」
「それなら良かった」
ビー玉サイズの石をポケットに入れているせいで違和感のする胸元に、青年は手を当てる。
アリアの力の石を持った時のような作用は穂摘には感じられないが、分かる者には分かるのだろう。
だが、半妖精である穂摘に分からないものを、ドルイドとは言えども人間である敵方が分かるのか。
その点が少し引っ掛かった穂摘であったが、それらを把握しているアリアがこの案を出し、上北が問題無いと言っているのならば大丈夫だとそれ以上気に留めはしなかった。
レンタカーの鍵を人差し指に引っ掛けながら持って、二人にちらりと見せてやる。
すると上北はそれで把握したものの、アリアは何の鍵か分からなかったようで小首を傾げた。
「どうしたのだその鍵は」
「車の鍵だよ。指定された場所は、車通りの少ない山中の道路だ。バスで行こうにも近くに停留所があるとも思えないから自分で車を運転して行く」
「おおお、アラタは車の運転ができたのか!」
「普段は社用車くらいしか乗らないけどな」
そしてその頻度も低いが。
しかしその話を聞いて渋い顔をしたのは上北。
長耳を隠しているバレッタと鎖を掻くようにいじりながら、口端を下げて言う。
「それってほとんどペーパーなんじゃねーの? 俺が運転したほうが安全そうだぜ」
この銀髪妖精は、どうやら車の運転まで出来るらしい。
アリアと違って妖精である事を捨てる気は無いまま人間社会に馴染み過ぎている上北に、穂摘は開いた口が塞がらなかった。
だが上北の言う通り、穂摘の運転は決して慣れたものではなく、自然と彼の手は上北の手元へと動いていく。
そして、手渡される車の鍵。
「オーケー」
鍵を預かり不敵に細められた、紅い瞳。
一瞬その奥に狂気の色が見えた気がした穂摘であったが、それは気のせいでは無かったのだ、とこの後彼女の運転する車の助手席で体感させられる。
目的地に向かう道中、上北の運転は彼女のイメージ通りの酷い荒さであった。
ああ、大丈夫だ。
これに最後まで耐えられたのなら、これからどのような危険に臨んだとしても臆す事は無いだろう。
走馬灯の代わりに、穂摘の脳裏には一人の女子高生の顔が浮かんでいた。
「僕は、父さんみたいには、ならないぞ……うぷ」
車に酔い、吐きそうになりながら、穂摘はうわ言のように呟く。
夏堀を救ったのではなく、単に巻き込んだだけの父。
母の行いはもう変えようの無い事だが、その上で更に父がしてしまったみたいに、自分までもが夏堀を巻き込んで取り返しのつかない事態にはしたくない、と青年は心底思う。
ぐったりしている穂摘に、一呼吸置いて運転席側から返事が返される。
「……おう、ならないように頑張れよ」
今は不要な感情を置き去りにするように、ぐん、とまたスピードが上がった。
【第八話 因なる瞳が、喚んだ禍事 完】




