因なる瞳が、喚んだ禍事1
ああ、力が欲しい。
理をも、覆す力が。
僅かに欠けた月の下で、一つの黒い影が揺れる。
その者が銀に覆われた右腕を天に向かって伸ばすと、黒い影からさらりと零れた金の髪。
過去に力を奪われ、片腕の自由を失い……今ようやくその失われた力の半分が戻って来た。
だが、足りない。
これではまだ腕は自由に使えぬまま。
力を半分取り戻した後、穂摘新と別れたアリァガッドリャフは、いつもの黒いローブを身に纏って木の上で星空を見上げていた。
夏の葉生い茂る木の天辺に、重力など無いかの様に立つその姿は、間違いなく人では有り得ない。
力を少し取り戻した彼女はそれまでよりも一層、妖精としての力を得ている、と言っていいだろう。
妖精ではなくなる為に、まずは完全な妖精に戻らなくてはいけない。
遠回りにも思える道程だが、これが最短のはずだった。
「……そうなのであろう?」
寝て待つように傾いた月が輝く空を見上げたまま、誰にでもなく呟く。
その場に彼女の会話の相手となる者は居ない。
しかし彼女の言葉は、独り言では無く、確かに誰かに問いかける声音であった。
まるで見上げた空の星の一角が、話し相手であるかのように。
返事を返すわけでもないその星は、静かに瞬く。
それを見て彼女は笑い、俯いた。
俯いた事で彼女の顔を隠すように垂れた金髪の隙間から、口元だけが覗く。
笑っていたはずの唇は、既に強く一文字に結ばれていた――
そして翌日、昼の事。
落ち着いた色合いの喫茶店で、眼鏡をかけたサマースーツの青年が昼食をとっていた。
シンプルなホットドッグをほおばりつつ、自宅パソコンから転送されてきた文章を携帯電話で流し読んでいた穂摘の指が止まる。
彼らは現在他の依頼を対応中とは言え、請負を一旦止めているわけでは無い為、相変わらず悪戯だか本物だかよく分からない依頼メールが毎日大量に届いていたのだが……その中の一つに早くも「当たり」が混ざっていたのだ。
「凄い脅迫だな」
そう、漏らさずには居られない。
墓に封印されていたほうの石を狙っていた相手は、どうやら穂摘がインターネット上の一部方面で有名になっている請負屋と同一である事まで早くも調べ辿りついたらしい。
いや、穂摘の家の墓まで調べていたくらいなのだから、もしかすると先に調べ終えてあった事なのかも知れないが。
とにかく、そこから繋がっている連絡先へ、相手は匿名で接触してきた。
けれどこの文面はさすがに……アリアはともかくとして夏堀椿には話せない、と穂摘は思った。
――お前も事故に遭いたいか?
これがその届いたメール。
たった一言、一文。
それだけにも拘わらず、この情報量。
鳥肌が立ってしまったのはエアコンの効いた店内だからでは無い。
どうしたものか、と穂摘が食事を終えたところで、携帯電話が着信して震えた。
表示された名前は、上北優。
「もしもし?」
喫茶店内である為に小声で受けると、
『外、見ろよ』
「ん?」
全面ガラス張りになっている店の壁面を通して外を見ると、そこにはアシンメトリーな銀髪で紅い瞳の女が立っていた。
パンクな衣装によりその瞳と髪の色が天然である事は誤魔化されているとは言え、目立つ風貌に通りすがる人々が二度見して行く。
上北は一方的に電話を切り、穂摘の居る店内に入って来て、おもむろに彼の目の前の席に座った。
そんな彼女に、まず穂摘は率直な疑問を投げ掛ける。
「何でここに?」
「用事がある以外に何があんだよ。お前の職場は知ってるから、そこから臭いを辿っただけだぜ」
「アリアといい、本当に犬みたいだな」
「ユリカの犬と呼んでいいぞ」
「呼んでいいのか……」
既に人間社会にどっぷり浸かっているはずの上北だが、やはりそのあたりは少しズレているようだ。
上北は穂摘の呆れ顔は意に介さず、ポケットからメモ用紙を取り出してそれを読み始める。
「えーっと、預かったブツの解析結果だ」
「物騒な言い方だなぁ」
「ほっとけ。で、何だっけ、そうそう。まずリボンの呪だが……オガム文字を自己流に崩して創ってるみたいで、完全な解読は無理だった。故に、対処方法はゼロ。相当のドルイドの仕業としか思えない仕上がりで、穴が見当たらねえ。実物のリボン相手じゃあカンパニー内で耐えられる妖精は居なかった」
「ドルイド……確か、ゲームで言うと魔法使いみたいなものだったっけ」
「いや。知識階級ってやつで特別な力は無いが卓越した知識や言論が武器みたいな連中だな。同じような立場の詩人や預言者よりもドルイドのほうが性質は上で、当てはめるとすればユリカもドルイドだ」
「へえ」
杖を持っているよぼよぼのおじいさん、と言ったイメージの強い単語であったが、和服麗人な黒崎優理佳がドルイドなのであれば、そのイメージは完全な間違いだろう。
結婚適齢期の女性でも当てはまるのだから。
「……ドルイドは妖精を見て、知り、そしてその隣に立ち、並び、時に一歩下がる事もあれば、前に出て率いる事もある。いわゆる俺達妖精の『隣人』の一種だな。ちなみに、妖精と交わる事が多いのもこの連中だぜ」
「そうか。じゃあ、黒崎さんがそのリボンを作った奴と同じドルイドに属するのなら、彼女もリボンは普通に持てたのかな?」
「ああ、妖精の影響を受けているはずのユリカや人間社員は大丈夫だったぜ」
となると、万が一そのリボンを作った者と対峙する事になった場合、「そのリボンに影響されない程度の人間」の協力は必要不可欠になるだろう。
本来ならば自分がその役割をこなせたら良いものの、それが出来ない穂摘は静かに歯噛みする。
鋭くなった穂摘の視線が、上北のそれと合う。
彼の思いを知ってか知らずしてか、それでも彼女はその点に触れる事無く続けた。
「次にガラスの箱だな。むしろこっちのほうが情報量としては多かった」
「と、言うと?」
「誓約が重複して掛かっていた。多分中身だったはずの妖精にではなく箱自体に掛ける事で、そこに封じた妖精全てに誓約を強制的に課す仕組みだったんだろうぜ。悪どいったらありゃしねえ」
アリアの言う、妖精達が不本意な状況に陥る原因が、まさにその箱だったようだ。
「具体的にどういうものが掛かっていたんだろうか」
「妖精に対して、封印を解いた者の命令を聞くようなものと、あともう一つ……こっちは箱を持った者に掛かっちまう類だ」
「妖精でも無い人間に対して誓約を課す事が出来るものなのか?」
「いんや、掛かるのは誓約自体じゃねえ。誓約によって動く妖精の的だ」
「……それは、死を運ぶ犬のターゲットになるって事でいいのかな」
ゆっくりと穂摘がその事実を確認すると、銀髪の妖精がにやりと笑う。
「ご名答。この箱が妖精入りの箱だと理解して手にする事で発動するんだぜコレ。渡す時に話したならそれでもう持ち主相手の呪いも完了、えげつねえなぁ」
えげつねえ、と言う割には楽しそうに言う上北。
少しも楽しくない穂摘は上北のように笑いはせず、自身の持っていた情報との相違点を指摘した。
「その時点で死のターゲットになる、だと死を運ぶ犬の言葉と少し合わないような気がするような」
と言うのも、死を運ぶ犬自身が、以前穂摘に「約束を違えられたから」殺したと言っていたからである。
今の話では、約束などどこにも無いではないか。
しかし、そんな事何でも無い様に上北は穂摘の言い分を跳ね除けた。
「別にすぐに死のターゲットになるたぁ言ってねーだろ」
「違うのか?」
「正しくは箱の事を他人に洩らしたりした時点で、改めて標的となる……死の、な」
つまりこの箱に掛かっていた呪いは、箱に封じられた妖精を人間が良いように使う為、そして人間が不用意に喋ってこの非道徳な箱の情報が漏えいするのを防ぐ為、の二つの意図があったのだ。
きっとこの箱の最初の被害者は、箱の事を話して更科翔に譲ってしまった事で死の標的になってしまったのであろう。
だがそこで気になるのは、もしそんな呪いがあるのだと事前に知っていたなら譲ったりはしないのではないか、と言う事。
知っていてなお、自分の死も恐れずに少女を助けようと思ったのか。
それとも、知らなかった、のか?
前者ならまだいい。
だが、穂摘にはどうもこの件は後者な気がしてならなかった。
何の裏付けも無い、ただの印象だけれど……この箱を作った者からは、妖精、人間、どちらに対しても害意しか見えて来なくて。
浮かび上がる事実に不快さを感じ、胸の辺りが圧されるような感覚が青年を襲う。
無意識に自身の胸元をぐっと押さえながら、穂摘は重い口を開いた。
「僕が箱を預かって来た人物は、あの客船の連続死で最初に死んだ人物から箱を貰ったらしいんだ」
「こんなおぞましい箱を作った奴が自分の仕向けた妖精で死ぬわけ無え。って事は、ソイツは犯人じゃない」
上北はそこまで話したところでようやく紅茶だけを注文し、椅子に深く寄りかかった。
そして、両腕を肘掛において、軽く天井を見上げながらぽつりと。
「ついでに、これは俺とユリカだけで留めておいてあるが、箱からアリァガッドリャフの力の痕跡も見つかったぞ? アリァガッドリャフの力によって、箱と箱が繋がっているんだろう。もう一つ物が無いと断定は出来ねえが、箱同士を繋ぐ事で個々の箱の誓約を増幅させてんだな多分。先輩がこの件とどう関わってるとか、お前は知ってるのか?」
言い終えた上北は、改めて穂摘に視線を向ける。
先程までのふざけたような笑顔では無い、至って真剣な眼で。
紅い双眸に凄みをきかされたが、勢いでアリアの事情を勝手に言うわけにもいかず、穂摘は黙って耐えた。
話す気が無い事をその態度で悟った上北が、
「なめてんのか。これは表沙汰にしてないだけで、妖精にとっても人間にとっても本来なら大事件なんだぜ。こっちが協力してやってんのにお前だけ知ってる事言わねーってのはおかしいだろうがよ」
ガンッ、とテーブルに腕を叩きつけ、更に責め立てる。
確かにこのガラスの箱に関する件は、放っておいていい問題では無い。
だが上北の言い分が正しいのは承知の上。
「アリアが居ない場で僕から言うべき事じゃないだけなんだ。知りたいならアリアから聞いて欲しい。彼女の身の上の事だから」
「……先輩は言い方が回りくどいから面倒なんだっつの」
「そう、か?」
確かに少しずれた事を言う、と言う認識は穂摘にもあるが。
「先輩はな……いつだってちゃんと分かってんだ。その上ではぐらかしたり、抽象的だったり、知らん振りしたり……ああ思い出しただけで胃が痛い!」
「確か、アリアの後任みたいな時期があったんだっけ」
「すぐ後、ってわけじゃねーけどな。先輩とその側近に槍を渡され、興味も無い全権を握る事になった俺の気持ちが分かるか!?」
半分涙目で、彼女は当時の心境を訴える。
ただ、穂摘としてはそこにある一つの単語のほうが気に掛かった。
勿論……今までにも何度か似たような事は聞いており、もしかして、とぼんやり心に留めていた事だけれども。
「全権、か」
上位の妖精であり王だった頃があるとは聞いていたが、とてつもないほどに高位なのではないか。
「あんな事が無ければ、アリァガッドリャフがアリァガッドリャフになる事なんて無かった。いい迷惑だったぜ」
「アリアが、アリアになる事、ってどういう事なんだ?」
「そのまんまだ。先輩がアリァガッドリャフと呼ばれるようになったのは、落ちぶれた後の話だぜ? まさか知らずに短くして呼んでたのか?」
ゆっくりと頷いた穂摘に、上北は口端を下げて疲れた顔を見せた。
馬鹿にしていると言うよりも、同情をしているように瞼を細めて。
紅茶を持って来たウエイトレスに軽く手をあげて礼を伝えてから、上北の唇が動き出す。
「そこまで何も知らない女の事を、どうしてそんなに尊重出来るんだか。愛だなぁ」
「そ、そんなんじゃない。見た目が母親に似てて親近感があるだけで」
「何だ、お前マザコンなのかよ」
「うっ、いや、少なくとも母より美人を見た事が無くて、だからその」
愛だの何だのを否定しようとして出した言い訳によって、自ら首を絞める事になっている穂摘。
アリアと出会うまで、母親の言いつけを律儀に守り続けていたくらいなのだから、確かにややマザーコンプレックスの気はあるのかも知れない。
当人も自覚があるのか、その辺りは否定しようとしない青年。
「マザコン野郎は結婚出来ないぜ」
「妖精が見えるだなんて言う事情からして、最初から諦めているからいいさ……」
「結婚したいくらいの相手が現れてから同じ事言ってみやがれ。その壁を乗り越える価値を他人に見出せないような、薄っぺらい関係しか構築出来ていないから『諦める』だなんて簡単に言えるだけの話だろ、それは」
自分の事情を受け入れて貰う事を諦めているから、他人との一歩を踏み出せないのか。
他人との一歩を踏み出そうとしていないから、受け入れて貰いたいと思えるほど相手の事をきちんと見る事が出来ていないのか。
どちらにしても、穂摘が自ら壁を作っている事に変わりは無い。
「耳が痛いな……」
「ある程度の年になってくるとそうだろうなぁ。ユリカもよく嘆いてる」
あの堂々とした女性が同じような悩みを抱えていると知り、少し意外だ、と穂摘は思う。
だがすぐに思い直す。
あの高潔さは、彼女の壁なのだ。
他人と自分との間に、出会い頭から線を引く為の。
深い傷を負わない為に、浅い傷で済ませる為の。
「俺にとっちゃ、ユリカが誰かのものになっても困るからいいんだけどな!」
言っている事は百合まっしぐらな上北であったが、それまでの厭味な笑い方では無く温かな笑顔であった為、穂摘は変に拾い上げる事も無く聞き留めた。
黒崎と上北の間にどういう事があって今の関係になっているのかは知らないが、そんな風に笑えるのなら多分この妖精は黒崎に恋人が出来たとしても何だかんだと受け止めそうな気がして。
……自分は、受け止められるのだろうか。
上北を見ながら、穂摘は自分とアリアの関係を振り返る。
「……いやだなぁ」
受け止めるのが嫌なのではなく、こんな事ばかりを考えてしまう自分が嫌で。
表情を崩し、声を漏らしてしまった穂摘に、上北が怪訝そうに眉を寄せた。
「お前もユリカが誰かのものになるのが嫌なのか?」
「そんなわけが無い」
冷たく返した後、気を取り直して穂摘は先程触れた話題を再開させる。
「で、黒崎さんの嫁入り事情は置いて。アリアのあの名前は……僕の母が力を奪った後に付けられたものだった、と?」
だとすれば、その名前を穂摘に名乗ったのは、皮肉を混じらせていたのだろうか。
いや、平然と上北がその名前で呼んでいる事からして、退位後のアリアの呼び名は既にそれに定着していただけの事とも考えられる。
悪いほうにとってしまいそうだった思考を何とか冷静な視点に戻し、真剣な眼差しで上北を見つめた。
ちなみに見つめられた側である上北は、ティーカップを口に当てたまま、盛大に紅茶を垂れ流している。
だばだばと。
辛うじて服には掛かっていないが、テーブルの上は惨事だ。
穂摘は、机に零された紅茶にナプキンを手早く染ませ、零したくせに拭こうともせず今もなお絶賛垂れ流し中の上北を訝しげに見て言った。
「何をやってるんだ?」
「ごふっ、ぶ、」
「いいからティーカップ置いて、自分で拭くとかしてくれないか」
上北がいつまでも拭こうとしないので、彼女の手元で、せかせかと穂摘が拭いてあげている状態である。
拭きながら、先程の言葉に何かそこまで驚かせるような事でもあったか、と思ったが思い返しても特段大した事柄は無い。
単にむせただけなのか。
心無しか指が震えている上北は、口元などを荒く拭き終えた後に身支度を整え、急に席を立ってしまう。
「俺、帰る」
「へ? 何言って、と言うかまだ話は途中で」
「用事が出来た。じゃあな」
よそよそしい素振りで、上北はそのまま穂摘を振り返る事なく店内から出て行った。
気付けばお釣りが少し出る程度の紅茶代がテーブルの上に置かれてあり、飲み逃げ、と言うわけでは無いのだが、気分の良いものでは無いだろう。
「勝手に来ておいて、何なんだよもう……」
とは言え、穂摘も今日は表の仕事中。
そろそろ休憩は切り上げて、仕事に戻らなくてはいけない。
青年は疲れた顔で、テーブルに乱雑に置かれた小銭と二人分の伝票を拾い上げた。




