玻璃を穢すは、人の闇3
それから夏堀と共にガラスの箱とリボンの現物をメイヴカンパニーに届けた穂摘は、その帰り道に彼女に問われた。
「アリアさんが気付けば居ないんですけれど、どこに行ったんでしょう?」
一緒に電車には乗っていたはずだが、降りた後の駅の構内辺りで既に穂摘はアリアを見失っている。
夏堀も大体それくらいから彼女を見失っているのだろう。
「傷心してそうだから、独りにでもなりたいんじゃないか。行き先は知らないけど夕飯までには戻ってくるだろ」
「あっさりしてますねぇ」
「帰って来たらフォローくらいするさ。でも闇雲に探すにはちょっと無理があると言うか」
「確かに……」
既に空は暗くなっていた。
行ける範囲が限られている子供ならいざ知らず、すばやく動ける上にどれくらい体力があるのか想像もつかない妖精を当ても無く探すのは無理だ。
夏堀は、街灯りで暗闇が薄くやわらいだ空を見上げながら溜め息を吐く。
そして一呼吸おいたところでその顔を僅かに下げ、隣を歩く穂摘に向けた。
「あの、話したい事があるんです」
神妙な顔付きで言う夏堀を、穂摘は少しだけ瞳を細めて凝らし見る。
「大事な話、みたいかな」
「大事かは分からないんですけれど、少し思い出した事がありまして」
「そうか、僕の家……はアリアが戻っているか分からないから、適当な店にでも入ろうか」
「え、それは、手持ちがちょっと」
「あのなぁ、いくらなんでもこの年で女子高生と割り勘だなんて出来ないだろう」
「わーい!」
男一人の部屋に女の子を連れ込むわけにもいかないので、穂摘はそれから最初に目に入ったファミリーレストランに足を踏み入れた。
夏堀がアルバイトをしているレストランとはまた別の、だが似たようなもの。
どの席でも騒がしく談笑しているので、逆にこちらも遠慮無く喋る事が出来る。
席に着いて、割とがっつり夕食を注文する夏堀に対し、穂摘は軽食程度だった。
「それだけしか頼まないんですか? ケチらなくてもいいくらいにはお金持ちそうなイメージなんですけれど」
「後でアリアと鍋をつつくだろうから、そんなに入れられないんだよ」
「この暑い中、飽きないですねぇ」
「エアコンを効かせてるから暑くはないけど、鍋にはとっくに飽きてる」
「やっぱり」
フリードリンクで持ってきた炭酸飲料を合間に飲み、夏堀は穂摘の夕食事情を思い浮かべて半眼になる。
穂摘にはあまり料理のレパートリーが無い中で、アリアの好みに合わせた結果が、鍋。
肉の出汁が出た鍋料理を食べるのだから徹底した菜食主義と言うわけでは無いようなのだが、アリアはメインで肉を食べる事を好まない。
「ご飯作りに行きましょうか? 料理なら時給八百円で構いませんよ」
「女子高生の通い妻はちょっと」
「……通りすがりの人達は気にしてないと思いますけれど、流石にご近所さんの目は厳しいですね」
「だろ」
二人ともそこで軽く苦笑い。
雑談が落ち着いたところで、夏堀が本題を切り出した。
「それで、話したい事なんですが……」
「ああ」
「私、何となくですけれど、アリアさんの石ってあれかなーって言う心当たりが出てきたんです」
夏堀の言葉に、穂摘の両眼が大きく見開く。
だが相槌は打たない。
正しくは、発言の邪魔をしないように黙ってその話の続きを待っているのだ。
それほど、穂摘は夏堀の話を真剣に聞いていた。
そこまで期待されてしまうと勘違いだったら申し訳ないな、と夏堀はやや気後れしたが、唾を飲んで再度口を開く。
「私、両親が居ないって言いましたよね」
「ああ、聞いたね」
「昔バスに乗っていて事故に遭ったんです。その時に両親を亡くして、私も大怪我をしました。でも……私、出血量は多かったにも拘わらず、ピンピンしていたんです」
「と言う事は、その時にアリアの石で傷を癒されたって事かな」
「いえ、傷自体は残っていたので不自然な点は本当に無くて、でも死ぬほどの出血量だったのに峠も何も無くて、奇跡だってお医者さんには言われました。それであの事故の時、私の手に知らない『何か』が握らされていたのを思い出して」
「生を繋ぎ止めただけ……か。アリアの力はいまいちよく分からないな」
とにかく夏堀はその事故の時に、アリアの石を持っていた可能性がある事になる。
だが、そうすると疑問点が二つ。
その石はどこから来たのか。
そして、どこへ行ったのか。
穂摘は注文したフライドポテトが届いたのを見て、ぼんやりと一本口に入れながら黙って推量した。
「その『何か』の出所もその後も、分からないんだろう?」
「はい、すみません……ただ、どこの高原だったかは覚えていないんですけれど、そのバスでお出かけしていたのは山でした」
「以前、行った事があるって言う、美味しいアイスクリームがある牧場?」
「それです!」
「牧場って大体アイスやソフトクリームを置いてそうなんだよな……ちなみにそれは何年前の事かな」
夏堀の死を止める為にその石が使われていたのなら、その時点ではまだ石で悪事を働こうとしている連中の手には渡っていない段階、と考えていいだろう。
大まかでも時期が知りたくて聞いた穂摘に、夏堀は少し考えてから答える。
「えっと、もう六年前になります」
その瞬間。
フライドポテトに伸びていた穂摘の手が止まった。
「穂摘さん?」
「六年前、バスの事故、それで夏堀さんの両親は死んでいる……でいいだろうか」
「はい、そうです。私の誕生日だったので日にちもはっきり覚えています。七月、」
「十五日……」
夏堀が答える前に、穂摘がその先を言う。
夏堀は穂摘のところで雇われてはいるが、正式な手続きをしている雇用では無い為、履歴書など渡してもいない。
教えているのは電話番号とメールアドレス、大体の住所だけで、誕生日だなんて知ってるはずが無い。
なのにどうしてその日にちが彼の口から出てきたのかさっぱり想像がつかない夏堀が、答えを求めて彼の眼を見る。
琥珀の瞳は心無しか動揺に揺れているようで、夏堀と視線は合わなかった。
「まさか……いや、むしろそう考えるのが自然だったんだ。僕が持っていないのなら……」
「ど、どうしたんですか?」
「ああああぁぁぁ、もううううぅぅぅ……」
呻きながら顔を手で覆い、テーブルに突っ伏してしまった穂摘。
話していたのは夏堀のはずなのに、これではまるで穂摘にも心当たりがあるようでは無いか。
しばらくそうしているうちに夏堀の注文した料理も届いて、遠慮しながらも夏堀が食事をし始め、数分経った頃。
ようやく穂摘の心境は落ち着いたようで、彼はゆっくりと顔を上げた。
だがその顔は一気に疲れ果てたような、そんな顔。
「取り乱して済まなかった。その、ありがとう。それは多分凄く大きな情報だよ」
「そ、それなら良かったんですけれど」
大きな情報が入って進展したと思われるのに、穂摘の表情は全く良いものでは無かった。
夏堀が上目遣いに彼の目を見ると、穂摘は肩を落として話し始めた、その態度の理由を。
「その事故、死者も何人か出て結構被害が大きかったから全国ニュースになっていただろう?」
「私は入院していたので分かりませんが、普通に考えたらそうでしょうね」
「……僕の父も、乗っていたんだよ」
「え、えっ、ええええええ!?!?」
それは確かに穂摘が動揺するのも無理は無い話だった。
聞いた夏堀も、その共通点に唖然とするしか無い。
届いた料理を口にするのも忘れ、夏堀は穂摘の話の続きに耳を傾ける。
「アリアの石は僕の母がアリアから奪った物だ。それを僕の父が持っていたのならそれは不自然ではないし、事故現場に居た父が夏堀さんを救う為に使ってもやはり何の不思議も無い。つまり、夏堀さんの手にした石の出所は多分僕の父で間違いないだろう……ただ、その後どこに行ったのかは分からないな、これだと」
「じゃあ私の命の恩人は、穂摘さんのお父さんって事になるんですか?」
「あくまで想像で、事実かどうかは謎だけど、まあ」
「う、運命ですねー!」
「夏堀さんが今僕達に関わっているのは君に自分の痕跡をアリアが見つけたからだから、運命って言うよりは必然な気も」
そう、必然だ。
偶然なのは、夏堀の命が助かった事くらいだろう。
その場にアリアの石が無ければ、きっと死んでいたはずなのだから。
乾いた喉を潤してから、穂摘はソファに軽くもたれた。
驚いた事による筋肉の緊張が彼の身体を疲労させたのである。
ぼうっと店内の照明を見つめ、疲れた身体を休ませる事数分。
完全に冷めてしまう前にさっさと食事を平らげた夏堀を見て、穂摘もようやく再起動する事にした。
「とにかく夏堀さんの、アリアの石との接点はきっとそこで間違いないだろう。随分前の事だから今もそこにあるとは思えないけれど、メイヴカンパニーに問い合わせてその頃の妖精に関する事件をあらっていけば浮かんでくるかも知れない」
「そ、そうですね……で、あのぅ……思い出した私はまだアルバイトを続けても大丈夫でしょうか?」
夏堀は、アリアの石との接点を思い出すまでの間、折角なのでアルバイトでもして共に動けばいい、と言う真意で穂摘達に雇われている。
心当たりが浮かび、それが限りなく真実に近いと思える今、夏堀は穂摘達の下に居ても大して役にも立たないわけで、雇って貰える理由は無くなった。
けれど、
「そうだな、危ない事になる可能性もあるから以後のアルバイトの無理強いはしない。でも居てくれると助かる」
今は、そこまで役に立たないわけでも無い事情がある。
「それは、あのリボンを穂摘さんが持てないからですか?」
「……その通り」
「もしガラスの箱をばら撒いた犯人があのリボンでアリアさんや穂摘さんを捕まえようとした時は、私の出番って事ですね?」
「う、うん。そういう危ない時に君を居させるのも心苦しいから本当に無理はしなくていいんだけど」
「私、頑張ります! 時給五千円ですしね!」
「何だかいざと言う時に君の力を借りなきゃいけないのが不安になってきたよ」
穂摘は現金な少女から目を逸らし、冷えたフライドポテトをもそもそと口に押し入れた。
ちょっとした会話と食事も済み、一応夜なので彼女を家に送り届ける。
そして自宅マンションに着いたところで穂摘の目には、黒い塊が映り込んできた。
黒いローブのフードを深く被った、人影。
言うまでも無くアリアだが、その光景を見て彼は彼女と出会った時の事を思い出す。
あの時は春の終わりの雨の日だったが、今夜はそうでは無い。
蒸し暑いだけの、夏の夜。
些細な違いだが、それらが示す時の流れ。
それと共に動いてゆく、二人の形。
気付けば合鍵を渡しているなどと言う間柄になっているわけで、普段なら勝手に部屋に上がっているアリアだが、それを出来ない心境が今の彼女の胸にあるのだろう。
「何突っ立ってるんだよ、さっさと上がるぞ」
他人には独り言に見えてしまう事など構わずに、相棒に声をかけ、促す。
「食事の臭いがしておる、アラタはもう食べたのであろう。上がったところで夕餉は期待出来ぬではないか」
「臭いでは流石に量までは分からないみたいだな。僕の腹は三分目と言った具合で、これから改めて夕食を食べるつもりだよ」
「む……」
「スネるなよ。夏堀さんが、そんな事してても良い事無いって言ってただろ」
そう言ってアリアの手を引っ張った。
その際に見えたフードの下の表情は、先日スネていた時とは違い、怒っているのではなく元気の無いものだった。
金色の睫毛が彼女の物憂げに伏せられた瞼を飾り、フードの隙間から差し込んだマンションの灯りに輝いている。
同じスネているでも、今のアリアは更科の件で自分の責を感じている為に、他人への怒りに感情が向けられないのだ。
他人のせいにしない心がけは良い事だが、必要以上に背負ってしまうのも問題である。
普段元気なアリアがしおらしくなっていると、接する側である穂摘も普段通りに出来ずにうまく言葉が出てくれない。
黙って彼女の手を引く自分の姿は、防犯カメラにはさぞや滑稽に映っている事だろう。
引いた彼女の手は、右手。
温もりも何も無い、金属の感触。
全て終わったらこの右手にも、他の箇所と同様に白い肌が見えるようになるのか。
どういった風に彼女の体が治り、変わるのかは分からないが……そうなったら良いな、と穂摘は素直に思った。
五階の自分の部屋に着いたところで繋いだ二人の手は自然と離れる。
穂摘は黙って食事の準備をしながら、夕食の材料と共に買い置きしてあった果物もスライスしてポットに入れ、硬水で淹れた紅茶を注いでおいた。
だが、紅茶は蓋をして置いて、まず夕食を食卓に運ぶ。
それを見てようやくアリアは黒いフードを外し、置かれた料理を上からまじまじと覗き込んだ。
「む? 今夜は鍋では無いのだな」
やはりご機嫌斜めな女には、食べ物が一番だ。
あっという間に表情が明るくなっている。
「夏堀さんから有り物で作れる簡単な料理を聞いてきたんだ」
「ほう。ツバキは良い妻になれそうだの」
「僕もちょっとそれは思ったよ」
普段鍋料理で使っているポン酢をベースに味付けした、冷製パスタ。
具は鍋の為の野菜の一部に、一応常備されているツナの缶詰めと調味料をあえただけで、軽く口頭で聞いた穂摘にも簡単に調理が出来た。
手間はかけなかったはずだが、ツナが全部どうにかしてくれているのだろう。
シンプルなのに美味しくて、二人は黙々と食べきっていた。
終わって食器を片付けながら穂摘が言う。
「何も考えずに作ったけど、そういえば魚は食べるんだな」
「うむ。牛肉や豚肉が苦手なだけで、鶏肉も食べられるぞ」
「それを早く言え!」
長いようで短い、二人の共有した時間。
まだまだ知らない事は沢山ありそうだ。
だが、少しずつ知っていくからこそ楽しいものでもある。
今後の料理に使える食材が増えたところで、穂摘は丁度いい具合に蒸らされた紅茶を食後に出した。
網目の綺麗な淡い緑色の果実が覗くポットから緋色の液体をゆっくり注ぐと、とろんと甘い香りがカップから立ち上る。
旬の果物は香り高く、別にそれが好きでも嫌いでも無い穂摘が美味しいと思うだけあって、元々紅茶が好きらしいアリアは飲む前から香りだけで表情を穏やかにしていた。
香りを堪能し終えて彼女がカップに唇をつけたところで、一杯目を飲み終えた穂摘がゆっくりと話し出す。
「例のリボンと箱の調査をメイヴカンパニーに依頼してきた」
「そうか」
「調査にどれくらい日数がかかるのかは分からないけど、それまでしばらく休むといいさ」
「そうだのう……」
相槌自体は短いものだったが、アリアの表情はもう暗くない。
ティーカップの縁に微笑を添えて、彼女は頷いた。
大した言葉は掛けなかったけれど、むしろ下手に言葉を掛けるほうが傷を掘り返す事になりかねないだろう。
これでいい。
話したそうな顔をした時にでも、問いかけてやればいい。
二杯目を注ぎ、黙って彼らは芳醇な甘みを堪能する。
言葉では表現出来ない互いの想いが、紅茶の温度に溶けてふわりと間に立ち込めた。




