窮愁に呑まれる、思慕の情6
同情からかも知れないが穂摘に優しく接してくれていた黒崎、そして嫉妬に駆られて敵意を露わにしていた上北と、水菓子まで共に食した後に解散する。
ワイシャツの襟が切れてしまっている為、上北に解かれたネクタイは外し、無造作に胸元を開けて帰路に着く。
下手に締めていたほうが、この布の切れ方は目立つと思ったのである。
アリアの夕食を連絡無しで放置してしまったが、きっと残業だとでも思って耐えているに違いない。
やっと着いたマンションの玄関ドアを開け、この時間から夜食を作る事を正直面倒に思いつつ上り框に足を掛けた。
そこで、玄関土間にアリアの黒いブーツともう一つ、バイカラーのウェッジサンダルが揃えて置いてある事に穂摘は気が付く。
カチャカチャと食器同士の当たる音が聞こえ、きっと夏堀が料理を作っていたのだろうと彼は推測した。
もう良い時間なのだが、帰らなくていいのだろうかあの女子高生は。
いや、普段夜はアルバイトをしているのなら、多少帰宅が遅くなっても問題無いのか。
「ただいま……」
もはや自分だけの部屋と言う感覚が一切無くなっている、名目上だけの自室に入って声だけ掛ける。
部屋の主の姿を目にした夏堀は、自身がこの場に居る事の理由を報告しようとした。
「あっ、お邪魔しています穂摘さん。下着買ってき、ま……」
が、穂摘の姿に驚いて、それ以降喋らなくなった。
ぱくぱくと口を開け閉めし、身振り手振りで何やら伝えようとしてくるが相変わらずのわちゃわちゃっぷりで伝わるはずも無く、代わりにアリアが疑問を呈する。
「どうしたのだアラタ、その大層な怪我は……まあ、臭いがつけられている故に誰と逢瀬していたかくらいは分かるがな」
「逢瀬をしてこの怪我!? 穂摘さんはマゾっ気があるんですか! アリアさんと居る時点でちょっとそんな気はしてましたけどっっ」
「ぽろっととんでもない事を言ってるぞ」
ここまでこの格好で歩いて来たのだが、そんなにも目立つのか……と穂摘は部屋の隅にある姿見で自分の格好を確認した。
ざっくり斬られたワイシャツの襟を誤魔化す為に襟ぐりを大きく開いていたのだが、それによって包帯も何もしていない怪我が丸見えになっていたらしい。
浅いとは言え、槍の刃で首の付け根を斬られたのだ。
ワイシャツにも点々と血の染みが付いており、確かにこれは目立つ。
「な、何があったんですか……?」
恐る恐る夏堀に聞かれ、穂摘は瞼を緩く伏せながら彼女を見つつ答える。
「メイヴカンパニーの上北に斬られた」
「ひゃわー」
怖がっているのか馬鹿にしているのかよく分からない悲鳴を漏らす女子高生。
着替えたいところだが女性二人の前で着替えるのも何なので、そのままの格好で穂摘は椅子に腰掛けた。
そこで、何故かいつもよりも深く帽子を被っているアリアに目が留まる。
穂摘が気に入っている、彼女の綺麗な翠眼が見えなかったからである。
目元が見えず、アリアがどういう表情をしているのかも良く分からない。
夏堀が作った料理を食べている最中だった事もあり、アリアは黙々とそれを口に運び続ける。
何だか気まずい空気になっている事に夏堀も気が付いたようで、彼女は穂摘と共にアリアを心配そうに見つめて、
「アリアさん? 他の女性と逢ってたって知ってスネてるんですか?」
穂摘の動揺を誘う発言をしてくれた。
「君は! いつも! 直球過ぎる!」
主に恋愛事情に関して。
「気持ちは言わなきゃ伝わらないですよ? 黙ってスネてても良い事無いですし」
「本当にアリアがスネてるならそれでいいかも知れないけれど、勝手に決め付けてどうするんだ」
「だってさっきまでアリアさんご機嫌だったんです。どう見てもスネてるようにしか……」
そう言って夏堀はまたアリアを見る。
ご機嫌だったのはこの料理のお陰だろうか。
混ぜご飯かちらし寿司かぱっと見た限りでは穂摘には判別がつかないが、紫蘇と胡麻の香りが涼を感じさせ、彩りも綺麗である。
黙って食事を進めていたアリアは、夏堀の発言を放置し続けるのも癪だと思ったのか、きりの良いところで箸を置いて顔を上げた。
それを目の当たりにするなり、穂摘と夏堀は思わず呻いてしまう。
「うわ……」
「ううっ」
そこにあったのは、怒っている以外の表現は有り得ない表情だった。
「ツバキ……私は別にスネているわけでは無い。ただ、アラタがちぃっとも事情を語ろうとしない事に怒っているだけなのだ」
「そうなんですか?」
「どうして斬られたのか説明も無い上に、大体においてただ斬られただけでこんな臭いがつくものか!」
どんな臭いがついているのだろう。
夏堀は勿論分からずに首を傾げ、穂摘は穂摘で、舐められた事でどれほどの臭いをつけられているのか複雑な気持ちになる。
だが、言わせて貰うならば、
「僕は別に説明をしないつもりなんて無い。長い話になりそうだから腰を落ち着けて話すつもりだったんだ。と言うかそれはお前に言われたくない。心から」
話が足りないだなんてむしろアリアの十八番なのに、ここまで言われる筋合いは無かった。
「何、私に言われたくないと!」
「そうだろ! 今日の事だってお前が僕にちゃんと話していたらもっと違ったんだ!」
「何をだ!」
「僕の母が、妖精だったって事をだよ!」
犬も食わぬ夫婦喧嘩状態になっている二人に挟まれている夏堀は一歩下がって聞いていたのだが、最後の穂摘の言葉に目を見張る。
穂摘もこの件は流石に夏堀の前で話すかどうか悩んでいた事ではあったのだが、勢いに任せて言ってしまった。
どうせアリアは「言い忘れておったぞ、てへ☆」とでも言うのだと思っていた穂摘。
しかし今回のアリアは真面目な顔を崩さない。
「そうか……知ってしまったのか」
「何できちんと言わなかったんだ」
「それは……きっと、はっきり伝える事を拒んでいたのだ。私が」
穂摘が傷つくからか。
それとも、伝える事でアリア自身が傷つくからか。
ただ、決して心を偽ろうとするわけでは無い妖精に、それ以上責め立てる気にもなれず、
「……今更問い詰めたところで、意味は無いもんな。もういいよ」
「すまぬ」
「別に。今の僕が一番責めたいのは両親だ。本当はアリアのせいじゃない」
首の傷をいじりながら、そっぽを向く。
正面を向いて彼女を許す事は出来ないが、必要以上に彼女を責めたいわけでも無い。
あくまで、売り言葉に買い言葉だけだったのだから。
この場に居る三人は、三様に歪んだ存在だ。
人間なのに、妖精の力に中てられた者。
妖精なのに、人間に焦がれて人の隣に身を置こうとする者。
そして……妖精の因子を持ちながら、自身を人間だと勘違いしていた……一番滑稽な奴。
純粋な存在は一人として居なかった。
自嘲しそうになるところを抑え、穂摘は鞄から書類を取り出す。
黒崎から貰った、事件の資料だ。
食卓テーブルは料理があるのでパソコンデスクにそれを置き、気持ちを切り替えた。
「じゃあ、今日の事を話すよ」
一つ一つ、資料と共に順序良く穂摘が説明していくとそれだけで三十分以上かかってしまった。
その話を聞いてまず最初に反応したのはアリアだった。
「私の石が手に入れば、きちんとアラタを元の身体にする事は可能なはずだ。元々アラタには人間の因子もあるのだから、私を変えるよりもずっと容易に出来るであろう」
「どこまで治せるんだ?」
「妖精が見えてしまう部分は多分どうしようも無いが、妖精封じの呪の対象として掛かって来る部分ならきちんと治せると思う」
「よく分からないな……」
「理を変えるだけの話であり、どんなに妖精の因子の割合が高かろうともアラタの在り方はほぼ人間なのだから、治す部分はあまり無いのだ」
「そうか」
アリアの願いを叶える事は結果として穂摘の身を正常に戻す事にも繋がるようだ。
色々な事があり過ぎて、ナーバスになっていたのかも知れない。
穂摘の身体の事情はそれで一旦保留となり、それまで大人しく聞いていた夏堀が確認をする。
「じゃあ……とにかく当面は以前に受けた依頼を掘り返す事になって。でもってその手掛かりがこの前私達とお話した更科さんにありそうだ、って事ですか?」
「ああ……彼女はきっと死を運ぶ犬が呪い殺すはずだった対象者の生き残りだと思うんだ。そしてそのまま彼女は、そこで手に入れた妖精を使って邪魔な者達を殺した。全部状況証拠でしか無いけれど、揃い過ぎだからね」
更科の事情に不用意に踏み込むつもりなど無かったが、彼女が限りなく加害者としてクロならば話は別だろう。
その先にある問題の解決は、更科もきっと望んでいる事だ。
時効と言うわけでは無いが、処理されてしまった事件で今更彼女を真犯人として挙げる事も出来ない。
口を割った所で今の更科は痛くも痒くも無いのだから、きちんと話してくれるかも知れない。
その可能性に賭けるしか、無い。
時間が時間である為、そこで夏堀は帰って行った。
が、アリアは居残っており、夏堀を送って行かなかったところを見るとまだ何か話したい事でもあるのだろうと思える。
でも、
「どうしたんだ。用が無いなら帰れよ」
それを自分から切り出すような心境では無い穂摘は、彼女の退室を促した。
意地悪だと、分かった上で。
食事が終えられた食器を片付けながら無言の時間が続く。
しばらくしてからアリアはすっと席を立ち、何も無い所からぶわっと黒いローブを取り出した。
今の彼女はきちんと下着も洋服も着ているが、やはり外を歩くならローブ姿のほうが落ち着くのだろう。
静かにそれを羽織り、フードを深く被って玄関土間まで歩いて行ってから、彼女はゆっくりと振り返る。
「アラタ」
しおらしくしているのかと思いきや、そうでは無さそうな強い声音だった。
「何だ?」
冷静に返すと、黒尽くめの妖精は真っ直ぐと穂摘に顔を向けて言う。
「私はいい。だが、あまり親を責めてやるな。知らぬほうがお主の為、と黙っていたのは瞭然だ」
他に言う事もあるだろうに、敢えてこのタイミングでその言葉を選んだ、アリアの真意が分からない。
「前も思ったけど、自分の力を奪った相手をどうして憎まないんだ?」
「憎んでどうする」
「どうもしないけど、憎んでしまうものじゃないか普通は」
「アラタなら憎むのか?」
「多分ね」
全容が見えているわけでは無いが、アリアの口ぶりからすると彼女は妖精の王の一人であったと思われる。
そのような立場から無理に引き摺り下ろされたのなら、穂摘は憎むと思う。
アリアは人間になりたいと思っているわけで既にその王位への執着は無いかも知れないが、人間になりたいと思ったきっかけが引き摺り下ろされた後に続く苦悩の半生だったのなら恨んで然るべきだ。
溜め息混じりにアリアは、彼の疑問への回答を述べた。
「……非生産的なのだ。憎むよりも力を取り戻した後の事を考えたほうが楽しいであろう。それに、アラタは母親への文句を他人の口から聞きたいのか?」
「自分で言うのはいいけど、人に言われるのは嫌かも知れないな」
「そういう事だ。私は、単にアラタに嫌われたくないから憎んでいないふりをしているのかも知れないぞ」
最後に不敵な笑みを浮かべ、彼女は自身の唇にそっと銀の指をあてて、去っていく。
最終的にはどうとでも取るがいい、と言う事なのだろう。
どうやらアリアは、穂摘の怒りの向けどころになってくれる気は無いらしい。
とは言え、やり場に困っていた苛立ちも気付けば霧散し、一人になった青年は大人しくメールを作成する事にした。
宛先は、更科翔。
遠回りしている気しかしないが、目立った手掛かりが無い以上、彼らはこうして一つずつ心当たりを潰して行くしか無いのであった。
携帯電話を片手に持ちながら、エアコンによって少し冷え過ぎた体をベランダに出す事で解す。
澄んだ冬よりもずっと濃く深い藍で彩られる夏の空。
心地よさなどほとんど無い、日本の夏風は妙に質量を感じさせる重さがあった。
自分達の小さな探し物も、どこかで夏の夜風に纏わりつかれているのだろうか。
無意味だと分かっていつつも、穂摘は空に携帯電話を掲げて送信ボタンを押してみた。
青年の戯れに付き合うように、風が少しだけ強く吹いた。
【第六話 窮愁に呑まれる、思慕の情 完】
 




