窮愁に呑まれる、思慕の情5
それまでに運ばれていた向付の刺身や鉢肴などを一先ず食し、元々情報を渡すつもりで来ていたと思われる黒崎は、上北に合図をして、丁寧にファイリングされた分厚い書類をテーブルの脇から穂摘に差し出させた。
「まず、そちらは大型客船での連続死の被害者、『全員』の情報です」
「全員、だって……?」
「はいそうです。全員を調べ上げております」
穂摘達が最初の被害者に固執していた理由は、黒い犬女……死を運ぶ犬が「約束を違えられた」「最初に姿を晒した相手に」と言っていたからである。
それを黒崎達が知らないのは当然で、だからこそ彼女達は自然と先入観無く全てを調べるに至ったのだろう。
穂摘は、その書類を軽く読む。
それぞれの被害者の、死ぬまでの行動を調べあげられる限り、調べ尽くされていた。
遡る事、乗船前からずっと。
「正直、死を運ぶ犬を消滅させてしまったのは頂けませんね。話を聞き出せたならここまでの労力を使う必要は無かったでしょう」
「あれは僕も止めたんだが、アリアが面倒臭がるんだよ……あいつ、すぐ手が出るんだ」
「そういう事ですか……うちの優もブレーキを掛けるのが大変ですからね、お察し致します。その書類の量を全て確認するのは大変でしょうから要点を挙げましょう」
黒崎の細い指が、穂摘に渡した物と同じと思われる手持ちの書類をするりとめくる。
その横で苦い顔をしているのは、愛する主人にさらっとケチをつけられた上北。
普段は近寄りがたい雰囲気のある鋭く赤い瞳が、今は情けなく細められていた。
「最初の被害者を除いてですが、連続死の被害者達の持ち物には、一つ、共通点があったのです。と言っても彼らの死は表向きはどれも理由がばらばらの自然死である為に、警察は関連性を見出せずに処理してしまったようですがね」
一緒になって穂摘もそのあたりを読み比べると、確かに遺留品には必ず一つ、『ガラスの箱』と言う記述と共に写真が添えられている。
中に入っている物はそれぞれ違うが、そのガラスの箱は全て、気持ちの悪い文字の入ったリボンで包まれているのが特徴だ。
「これはもしかして、妖精に関する物だったりするのか」
「そのガラスの箱を包むリボンの模造品がこれです」
黒崎が荷物の一つからすっと取り出すと、上北が彼女から一歩退いた。
上北の疎むような視線の先にある、遺留品のリボンの模造品。
穂摘が自分を見ている事に気がついた上北は、咳払いをしてから詳細を告げる。
「ソレな、妖精封じの呪が掛かってんだよ。形だけの模造品でこれだ、現物は相当精度の高い品だと思うぞ」
「穂摘様にお一つ、差し上げましょう。優も嫌がるくらいなので力の弱い妖精でしたら効き目は抜群ですからお守り代わりに」
「ど、どうも」
机に軽く身を乗り出して、そのリボンを受け取ろうとする。
だがそれを黒崎から受け取った途端に、穂摘の身体には急激な倦怠感が襲い掛かってきて、そのままずるりと机に凭れてしまった。
辛うじて、机の上の料理を零す事は無かったが、そこから穂摘は上手く動けなくなる。
「あ、れ……?」
「おいおいおいおいおい」
机に突っ伏した穂摘を確認して、上北が思わず立ち上がり彼を見下ろす。
反応からして異常の理由を察しているような上北に、黒崎が問う。
「優? これは……」
「コイツ、もうほとんど妖精に昇華しちまってんじゃねーのか」
耳に入った言葉の衝撃に、ぶわ、と汗が吹き出した感覚が穂摘を襲う。
覚悟を決めたはずなのにこうして体感してしまうと、身体の震えが止められない程にそれは怖い事だった。
アリアはこんな事をしようとしているのか。
根本から自分を変える、と言うのはとても怖い事なのに、それでも彼女は人間になりたいのか。
どれだけの、強い想いなのだろうか……
人間が妖精に寄ったその末の副作用を目の当たりにした黒崎も、それは他人事では無いようで流石に動揺を隠せずに居る。
手で口元を抑え、自分を見るように穂摘を見ていたが、はっと気付いてリボンを彼の手から取った。
そこでようやく穂摘の身体は軽くなり、額を手の甲で拭いながら起き上がる。
「こんな布切れに触れただけで動きを止められるだなんて、妖精って大変なんだな」
自嘲にも似た台詞を発すると、立ったままだった上北が不可解なものを見るような目をして言った。
「早すぎる、有り得ない」
「そう言えば前も早いって言ってたけど、実際こうなってるんだから……」
上北は、穂摘の言葉など聞かずに次の行動に移る。
まるでいつものアリアの様に、彼女はその胸から乱暴に何かを抜き出した。
それは、穂先が細かく五本に分かれた奇妙な形の長槍だ。
その切っ先を穂摘の首に向け、そのまま斬ろうとしている。
「優、どうしましたか」
黒崎が眉を顰めて彼女の行動理由を尋ねると、上北は自分の主に目もくれずに穂摘に言う。
「ちょっと斬るだけだ、動くんじゃねーぞ」
言われずとも、既に穂摘は怯えて動けなくなっていた。
しゅっ、と乾いた音がしたかと思うと、穂摘のワイシャツの襟が綺麗に斬れる。
きちんと斬れた事を確認してから上北が槍をまた自分の胸に埋めた後、ようやく穂摘の首に痛覚が感じられてきて、
「ッッッい、っっったぁぁ!!!!」
深くは無い、浅い。
だが首筋を薄く斬られたらしく、その部分がじんじんする。
正確にはきっと、どくどくしている。
上北は畳の上で転げまわる穂摘をとっ捕まえ、強引に首周りだけひん剥き、溢れ始めている赤い滴を一舐めして、喉で味わうようにゆっくりと嚥下した。
首筋を舐められた穂摘は、一瞬痛みを忘れて彼女を涙目で見上げる。
その先には、口元を押さえている上北。
「ユリカ」
「何でしょう」
「ユリカとこの男を比べる事自体が間違っていたんだ」
何の事か、と穂摘が自分の首を押さえて上半身だけ起き上がった。
黒崎はそんな穂摘を鋭い目で見つめたまま、黙っている。
「こいつ、妖精の因子の混ざり方がおかしい。この味は濃い、のか? 何にしても普通じゃねえ」
唇を拭い、仁王立ちしたままで上北は、障子の向こうを見透かすように遠い目で言った。
「これは昇華と言うより本来あったものが目覚め始めてるに過ぎねー感じだ。ただ寄るにしちゃあスピードがおかしいわけだ」
「戸籍を洗い直してみましょう」
「改ざん跡が出て来るだろうな、こりゃ」
痛みが遠くなるほど、その事実が穂摘の頭の中で巡る。
以前アリアに似たような事は言われた。
妖精が見えている事はつまり、人間では無い、と。
勿論、夏堀や黒崎のように後天的なケースもあるが、最初から見えている穂摘の場合は先天的に妖精の因子が含まれているのだ。
けれどその混ざり方がおかしい、と上北は言う。
どうおかしいのかはよく分からないようだが、何にしてもただ単純に先祖に妖精が居ただけでは無いのだろう、穂摘の体に宿る妖精の因子の濃さは。
穂摘の脳裏にふっと過ぎる想像。
――穂摘の近しい血縁関係において、誰かが妖精だったのではないか?
考えたくはないが、考えなくても簡単に分かる事だった。
そうか。
その事実を認めてしまえば、全てが、腑に落ちる。
身体の力が抜けて、どっと畳に背中から倒れ込む穂摘。
怪我をしている事もあって、黒崎がやや過剰に反応して駆け寄ってきた。
上品そうなハンカチを取り出して穂摘の首筋に当て、髪を結っていた飾り紐を解き、それでハンカチを固定し始める。
「別に傷は大丈夫だよ、ありがとう……」
「申し訳ございません、真実の突きつけ方が配慮の無いものでしたね」
「俺が悪いってか!」
「そうです」
きっぱりと言われた上北は、黒崎の隣で寝転がっている穂摘に向き直り、何を言うかと思えば……
「そうか、悪かったな! キスしてやるから許してくれ」
あまりに素直過ぎて謝る気が本当にあるのか疑問が浮かぶ、爆弾のような謝罪を放ってきた。
アリアもズレているが、上北は上北でなかなかのズレっぷり。
スタイルの良い上北だが彼女はどう贔屓目に見ても男顔の為、キスをされても穂摘は全く嬉しくない。
大体、首筋に似たような事は既にされている。
「しなくていい……」
「しなくても許してくれんのか? お前案外いい奴なんだな」
「穂摘様、大変申し訳ございません。優の話は適当に聞き流してやってくださると助かります」
アリア同様に、上北も相手にすればするほど疲れるタイプのようだ。
黒崎の指示に従い、穂摘はそれ以上言葉を返すのは止める事にする。
きょとんとした顔の銀髪妖精を見て、少しだけだが先程までの動揺は落ち着いてきていた。
何だかんだで気を紛らわせて貰えたらしい。
穂摘の強張りが解け、黒崎もそれを見て目元を緩ませる。
黒崎は人間だから、人間のつもりで生きていた穂摘の気持ちが汲み取れるのだろう。
物静かながらも威圧感だけは常に携えて他人に臨んでいた彼女が、今はそれらを取り払って素の優しさを出しているようだった。
黒崎は自身の膝の上に穂摘の頭を乗せて高さを作り、念の為安静にさせると、労わる様に言葉を置いた。
「大丈夫です。優も、似たような存在ですので」
「俺の場合は存在そのものを疎まれてジジイに殺されそうになったからな、ぬくぬく生きてたお前より酷いんだぜ!」
「優も色々大変だったそうですよ」
くすり、と笑ったその顔は、きっとそれが彼女の本当の笑顔。
似たような存在、と言う事は上北は純粋な妖精ではなく、人間の血でも交じっているのだろうか。
自分だけでは無い、と思えただけで少し軽くなった気がして、穂摘も黒崎と一緒に微笑んだ。
血も止まり、メインの食事を済ませ、穂摘の心情も落ち着いたところで話は再開される。
「戸籍を探る必要は無い。きっと僕の母が妖精なんだ。それは多分……アリアも知ってるんじゃないかと思う」
「そうなのですか?」
「アリアは僕の母親と接触した事があるからね……」
アリアは穂摘の母に力を奪われたのだ。
つまり間違いなく母が生きていた頃に接触していたわけで、その母が妖精である事を彼女が気付かないはずが無い。
穂摘の父はそれを知った上で母と共に居たのだろうか。
それともずっと騙されていたのか。
本人に聞かなければ分からないが、居ないのだから聞けるわけもなく。
「戸籍に関しては、こちらとしてはどうやって改ざんしたのかも気になるところですので別途調べさせて頂きます」
「……分かった」
「では話を戻しましょう。ガラスの箱には妖精封じが掛かっており、その中身は多様。けれど全て、妖精が封じられていると見て間違いないでしょう」
「確認はしていないのか?」
「この件は穂摘様方が解決してしまった関係で、私どもは資料は得る事は出来ても実物は確認出来ておりません」
メイヴカンパニーとしては穂摘達が安く仕事を請け負ってしまった事で大層動き難かったのだろう。
言うなれば、穂摘達は業界の掟など完全無視して相場を破壊し、やりたい放題荒らしてくれた問題児だ。
また元の張り付いた笑顔になってしまっている黒崎を、穂摘は頬を掻きつつ上目遣いに見上げた。
穂摘の首の傷に髪の飾り紐を使った為に、彼女の長い黒髪は全て下ろされている。
「死んだ者達が、死を運ぶ犬に殺される事になった理由までは判明しておりませんが、このガラスの箱こそが死を運ぶ犬に狙われる理由になった事は間違いないでしょう。そして最初の被害者だけがガラスの箱を持っていなかった事は、どちらかと言えば事情ありきの事だと思っております。例えばそう、最初の被害者が他の者達にガラスの箱をばら撒いた張本人、とか」
「一人を救う為に、自分を含めた何人もを殺そうとするのか……?」
「どういう事でしょう?」
そこで穂摘は、自身が死を運ぶ犬と対峙した時に直接聞いた事を黒崎達に教えた。
最初に姿を晒した相手……つまり、最初の被害者に約束を違えられた、と言っていた事。
次に、あれだけの被害を出しておきながら、まだこの場を離れる気が無いと言っていた事。
そして、最初の被害者が「少女を救った」と電話で発言をしていたのを遺族が聞いていた事。
「そのお話が確かであれば、死を運ぶ犬を消滅させた後に、殺されるはずだったにも拘わらず生き残っている者が居る、と言う事になりますね」
「その人達を探せば、どういう経路でガラスの箱を手に入れたのか分かるんじゃないか」
「ですが関係者各位はとっくに調べてあります。あの船の乗組員で生存者がガラスの箱を持っているような情報は一つも」
「ガラスの箱を手に入れる際に条件があったのかも知れないな? 他言すれば死ぬ、とか」
「それで死の制裁があると仮定するなら、最初の被害者が『違えた』と言うのは、不用意に喋ってしまった事で、ガラスの箱との契約が同時に反故となり、死を運ぶ犬によって始末された、とも考えられますね」
「駄目かな」
「いえ、全てが合っているとは思いませんが、ざっくりならば悪くない仮定でしょう」
髪を下ろした和服美人に微笑みかけられ、穂摘は反射的に視線を外す。
互いの情報を合わせる事で話が進む、大型客船の連続死事件。
しかし進む事によって、逆に、とても恐ろしいものが見えてきているのもまた事実だった。
次に上北が発した言葉で、穂摘はその事を思い起こされる。
「何にしてもこの全員と繋がってる奴が、このガラスの箱をばら撒いた犯人って事になるよなぁ」
そう、誰かが配らなければ、そのガラスの箱は存在しないのだ。
妖精を封印した箱。
それを扱っているのはきっと人間だろう。
人間が妖精を使い、人間を殺したのだ。
そしてその殺された人間達も、その箱に封印された妖精で完全犯罪でもしようとしていたのか。
一般人には視認されない存在の手を借りれば、それは不可能では無いのだから。
そこで、穂摘の脳裏に一つの依頼が過ぎる。
あれはとても後味の悪い依頼だった。
「あ……」
ガラスの箱に関して黙っていたとしても、使えばその痕跡は現れる。
と言うか、穂摘は多分現物を見ている。
もしあの依頼がこれに関わっているのだとしたら……追跡は可能かも知れない。
『彼女』は、真実を知りたがっていたのだから。
「穂摘様?」
声をあげたっきりフリーズしていた穂摘の名を呼ぶ、黒崎。
「いや、すまない。ちょっと考え事を。取り敢えず一つ心当たりが浮かんだから僕はそっちを当たってみようと思う」
「この件を引き受けてくださる、と思ってよろしいのでしょうか?」
「今のところはそこまで危なくもないと思うからね。むしろ何故そこまで黒崎さんはこの件を重く見ているんだ?」
「それに関してはもう一つ、絡んでいるお話があるのですよ」
「もう一つ!?」
驚いた穂摘は思わず大声で叫んでしまっていた。
「以前少しお話しした事があるかと思いますが……ここ数年、日本において妖精の関わっている事件は急増しております」
「言ってたような気がするな」
「私どもは……その事件が誰かの手によって故意に作られたものと疑っているのです」
「そ、それは飛躍し過ぎじゃないか?」
「日本に西洋妖精はほぼ来ません。勿論偶然日本に来てしまうケースもありますがそれは稀であり、本当に急増なのですよ。自然な増加のグラフでは無いのです。そして……害のある妖精を取り扱って金儲けをしようと思う者がそんなに沢山居るとも思えませんし、妖精を上手く扱える人間が簡単に転がって居るのでしたら我が社は人手不足に陥っておりません。今回の事件は特に、その故意である可能性が高いので警戒しているのです」
大型客船の乗組員に回ったガラスの箱は特殊なリボンが使われている事から、故意に妖精が連れて来られたのは明白であり、最低でもその様なとんでもない事をする人間が一人は居る事になる。
人間、が……
「あ、もしかして……裏に居る存在が妖精じゃなくて人間だから、ここまで危険視しているのか?」
「そうです。妖精を封じる術を会得している人間ですから、どんなに並外れた力を優やアリア様が持っていたとしても、単独では危険でしょう」
直接的に危険視している理由がこれでようやく理解出来た。
ただ妖精がその理において行動した末のトラブルとはワケが違うのだ。
本当に恐ろしいのは未知の力を持つ妖精などではなく、大した力など無いはずの人間なのかも知れない。
人の欲は、腹の中で蠢いて底の見えぬ穴を穿つ……容赦なく他者を引き摺り込む、泥濘の様な虚穴を。
穂摘は首に軽く巻かれていた飾り紐を解き、ハンカチを外した。
血に汚れてしまっており、洗ったとしても返せそうに無いような気がする。
「アリアと一応話し合ってみるけど、どうも僕達の目的とも関わりがありそうな気がするからきっと受けると思う」
仮とは言え、承諾を貰えて黒崎がほっとしたように微笑んだ。
続けて穂摘は、ハンカチについた自分の血をぼんやりと眺めながら礼を述べる。
「ハンカチと飾り紐は、今度同じような物を探して買っておくよ。ありがとう」
「殿方にそのような物を頂くだなんてとんでもございません。そちらは差し上げます、良い返事を頂ければそれで結構です」
黒崎の反応は潔癖で、それでいてとても品格の高い反応と言えよう。
異性を意識した上で、その相手との自分の関係性を考慮し、受け取るか否か判断する。
それを誤ると、やりようによっては思わせぶりな反応になってしまうものだ。
異性から物を受け取る、と言う事は安易に行うものでは無い。
特にその物が、身を飾る物ならば尚の事。
黒崎ほど気にしろとは言わないが、夏堀は気にしなさ過ぎである。
そんなしっかり者の黒崎を見て少しだけ穂摘の口端が緩むが、面白くなさそうな顔をしている上北を視界の端に捉えてからその表情は固まった。
「ユリカのハンカチと飾り紐だと……? 俺だって欲しいっつーのコノヤロウ……」
ぎり、と奥歯を噛む上北の形相が、とんでもない事になっている。
この妖精の、主人への執着は計り知れない。
「元はと言えば、優が怪我をさせるから悪いのですよ」
「仕方ねーだろ! 俺は吸血なんてする類の妖精じゃないから牙なんて持ってねーんだ!」
「それで得物を出したのか……」
血は止まったが、思い出したように傷がまた痛んだ。




