窮愁に呑まれる、思慕の情1
◇◇◇ ◇◇◇
世界は広い。
一つの船で世界一周をうたうクルーズ旅行をしようとすれば、短くても三から四ヶ月はかかる。
長い期間同じ船で暮らせばそこに居る誰かと親しくなる事はよくある事で、とある女の場合はその相手が添乗員だった。
調理スタッフで、彼女の好きな料理を目の前で作ってくれる、気さくな中年男性。
どうしようも無い現実から逃げ出したくて非日常へと踏み出した彼女は、この場限りで仲良くなった彼に、非日常だからこそ話せる悩みをいっぱい話した。
身近な友達には話せないけれど、ここ以外で縁など無い他人には話しやすいものだ。
いや……身近には、友達だなんて本当は居なかったのかも知れない。
そんな彼女の悩みを聞いた添乗員は、彼女にプレゼントを持ってきた。
「この枝にお祈りしてごらん。そうすれば君の願いはきっと叶うよ」
男は「お祈り」の仕方を彼女に説明した後、その枝の逸話を話す。
女性を護る、不思議な枝。
悪い虫が寄り付かなくなる、お守り。
変哲の無い木の枝だったけれど綺麗なガラスの箱に仕舞われつつ、まじないの様な文字が描かれた細めの白いリボンで飾られていた。
その文字は妙に不快感を訴えてくる形をしていたがそれはむしろ木の枝に信憑性を与えるもので、祈れば本当に願いを叶え、悩みを払ってくれるかも知れない、と女には思えた。
この一時だけの関わりでしか無い自分に贈り物をしてくれた、その事が嬉しくて……彼女はそのお守りを大事に旅から持ち帰る。
そして悩みが解決する事を祈りながら、ウォールシェルフにその品を飾った。
けれど、そんな事で悩みが解決するはずも無く。
船の上ではあんなに自然に居られたのに、陸ではそうもいかずに想いが彼女の心と行動をきつく縛る。
どうしたらいいのか分からずに、ただずるずると続く不毛な日々。
毟り取られているのは目に見える物だけでは無い。
折角、海と人に癒して貰えたのに、陸と人によってまた少しずつ病んでいく。
尽くしても報われない辛さと、それなのに離れる事も出来ない執着と。
悪いところしか目につかない。
けれどそれでも、話しかけられると全てを受け入れ、赦してしまう。
本当に悪いのは、相手か、自分か、果たしてどちらなのか。
そんな憔悴する彼女の目にふと映ったのは、優しい人から貰ったお守りの枝。
教えて貰った「お祈り」の手順の中に、その枝を手放さなくてはいけない流れがあった為に「お祈り」は行わずただ飾っていたけれど……
藁にも縋る想いで、お守りの入ったガラスの箱を手にした。
人里から少し離れた山奥に向かい、その箱を包むリボンをゆっくりと解く。
そこから取り出された枝は、やはり変哲の無い、細い枝。
それを両手で強く握り締める事で、枝を屑へと変えた。
折れた先端の一つで軽く指を切ってしまったが、痛みはさほど無かった。
気に留めずに、その手で屑にした木の枝をそっと土へ還し、山を後にする。
木の枝の屑と共に、全ての悩みを、想いを、全部、全部、埋めてきたようなつもりで。
ガラスの箱の中にはもう、何も無い。
――彼女は「お祈り」を完了させたのだった。
カコン、カコン。
偲び寄る、幸福。
幸せとは程遠い不気味な足音で、彼女の幸福は訪れた。
自身も巻き込まれそうにはなったが無事に全てが解決し、彼女は形の無い闇から解放される。
求めていたものは手に入る事無く、相手が消えてしまっただけなのに、嘘みたいに清々しい。
いや、違うのだ。
相手が居るから求めてしまうだけの事。
居ない相手には望みようが無いから、こうやって気持ちを切り替えられるのである。
嬉しくなった彼女は、心の支えとなってくれた客船の調理スタッフに連絡を取ろうと思い立った。
連絡先は知らないけれど、職と名前は知っている。
連絡先まで聞くつもりは無かったが、せめて取りついで貰えたなら一言お礼を伝えられる。
問い合わせてみると、彼女の耳に衝撃の事実が届いた。
あの日の夜、悲鳴と共に奇怪な蹄の音を聞いた時と同じ携帯電話の受話部から、心を抉るような話を聞かされたのだ。
「亡くなった……いつですか?」
自分が船から降りた、二日後の事だったらしい。
そんな。
どうして。
心臓麻痺?
あんなに元気そうだったのに。
頭の中で巡る、疑問。
しかしそれらはどれも言葉にはならず、静かに電話を切った。
もう中身の無くなったガラスの箱にそっと触れて、数ヶ月という長いようで短い間に見てきた笑顔を思い浮かべる。
あの笑顔は、もう、どこにも無い。
悲しみに暮れた彼女は、現実を直視する事が出来なかった。
あの男性が死ぬだなんて、おかしい。
あんなに優しい人が死ぬだなんて、おかしい。
死ぬのはあの連中だけでいいだろう。
そんな歪んだ彼女の瞳は、歪んだからこそ結果として一般人には見えない真実が見えてしまう。
男性の死は、本 当 に お か し か っ た の だ 。
豪華客船の準備停泊中に起こった怪事件。
彼を皮切りとして、何人ものスタッフが連日死んでいったらしい。
貰ったお守りの効力を実感している彼女は、その連続死にも何か見えざるものの介入があると睨んだ。
一連の連続死を無事に止めたのは、噂によると例の請負人。
運命だ。
運命だ。
運命だ。
メールを一本入れてみよう。
あの人を殺した、きっと人間では無い何かを……原因を……理由を……
彼女は知らなくては気が済まなかった。
お金ならある。
電波は、彼女の疑問をその請負人へと運ぶ。
◇◇◇ ◇◇◇
メイヴカンパニーからまわされた依頼を解決して、三日が経った。
アリアの仕事は対象を斬ってしまえばそこで終わるが、穂摘新はその後も対応が続く。
個人で請け負っている場合は依頼主に簡単な書類と口頭で報告するだけだが、今回は直接依頼を受けたわけでは無いのでそれは無い。
かわりに彼は、メイヴカンパニーへ報告書を提出させられていた。
これがまた無駄に項目が多いのだ。
以前に手を借りた際はあくまで警察に「妖精の存在がそこにある」証拠として写真を提出しただけだったが、今回はメイヴカンパニーを通した依頼であるが為に根本的に体系が違う。
以前同様に写真を撮るだけでは……済まなかったのであった。
それらの作業は、表の仕事の職場から帰社した後、アリアに夕飯を食べさせてからになる。
「……で、妖精の騎士はお前の匂いをつけてたけど、右腕の事をからかわれたから斬っちゃった、と」
「うむ、その通りだ」
「本気で石を探す気あるのか?」
「あるに決まっておろう!」
「いや無いだろ!」
基本すっとぼけた調子のアリアから戦闘の詳細を引き出すのはかなり骨が折れ、聞いてみたらみたで頭痛がしてくる穂摘。
「そもそもあやつは私の事が気に食わないようだったのでな、きっと私が聞いたところで核心となる部分など言わぬよ」
「初対面だって言うのに、何で嫌われてるんだ?」
「妖精の間では、肉体の欠損は忌み嫌われるのだ」
「あー、なるほど……」
納得しつつ、聞いた話を一通り書類にまとめ終えた。
疲れたので休憩するべく席を立とうとした穂摘の手をそこで、くいと引くのは妖精の騎士に嫌われる要因となった、義手の役割を果たす銀の籠手。
アリアにしては神妙な面持ちだったので、穂摘も真面目な顔で問う。
「どうしたんだ?」
「……ここからは、報告書には載せないで欲しい」
「分かった。で?」
「妖精の騎士の奴めが、不可解な事を言っておったのだ」
そしてアリアは穂摘に包み隠さず話した。
先日の事件はアリアの為に行われたものだった、と言う事を。
確かにこれは報告書には載せられないな、と穂摘は溜め息を吐き、眼鏡を外して眉間を軽く揉む。
人間を殺す事が、アリアの為になる――
それだけ聞いたならば、やはりアリアは人間にとっては危険な妖精なのかも知れない。
けれど当のアリアはそんなつもりなど微塵も無いのは、この話をきちんと打ち明けてくれた事から明白だ。
ならば何故、どこの誰がそんな事を「アリアの為に」と妖精の騎士に命令していたのか。
「あのさ、心当たりは無いのか? お前の為って言うくらいだから、お前に普段から好意を寄せてたりとか」
「うぬぅぅ、心当たりなど多すぎて答えられぬ。力を奪われるまでは皆に好かれておったのでな」
「自分で言うかソレ」
アリアの匂いをつけた妖精の騎士が、アリアの為に人を殺していた。
とても大きい情報のようにも思えるが、この情報に下手に触れると、逆に見たいものを見えなくしてしまう恐れがある。
何故なら、妖精の騎士の受けていた命令と、妖精の騎士のつけていたアリアの匂いは、決して繋がっている情報では無いからだ。
その二つが全く関係の無い、別の問題かも知れない以上、考えすぎると視野を狭めてしまう。
穂摘達の目的はあくまで、石。
命令云々とか言う側の情報を貰ったところで、現時点では何の役にも立たない。
そっちじゃない。
匂いをどこでつけたかを教えろ。
って言うかばっさばっさと斬っていないで、きちんと聞いて来い。
交渉下手な相棒の顔を見るべく、眼鏡を掛け直す。
そこにはもう思考を放棄した情けない表情の金髪妖精が居た。
当の妖精が放棄しているのだ、自分も放棄してもバチは当たるまい。
穂摘は心中でそんな言い訳をし、
「結局のところ今回も収穫無しって事だな」
改めて立ち上がり、のそのそとキッチンに歩いて行くと飲み物の用意をし始めた。
二人分の珈琲をドリップして戻って来た彼は、椅子に座ると完全に休憩モードに入ってカップを唇に寄せる。
口に含んだ途端に広がる柔らかな苦味に緩まされた身体は、次の一口を求めるのではなく休息を求めた。
香りが抜け切るまでは目を閉じていよう。
穂摘は、珈琲の味と香りが促した脱力感にそのまま身を委ねる。
きし、と椅子を鳴らして凭れると、もう動く気力が一切出ない。
だが、そこで面白くないのはアリアだった。
話が終わって珈琲を淹れたかと思えば、同じ部屋に居る自分を放って目を閉じてしまう男の態度が、面白いわけが無い。
不満げに眉を顰め、もう一つ淹れられている珈琲をちびりと一口。
「珈琲は嫌いではないが、たまには紅茶が飲みたいぞ」
平日昼間は表の仕事、平日夜と休日は裏の仕事とアリアの付き合い。
この二ヶ月ほどまともに休んでいない穂摘が疲れてしまっているのも無理は無い事なのだが、人間の生活リズムや体力をそこまで把握していないであろう妖精は、休んでいる彼に容赦なく話を振った。
聞こえてはいるが口を動かす気力も出ず、穂摘がそれをスルーしていると今度は実力行使に出るアリア。
彼の座っている椅子をがたがたと揺らして、問答無用で起こしにかかる。
「アラタが昼間いつも居ないせいで私はティータイムすらとれぬのだ! ポットと茶葉さえあれば自分で淹れるから今度用意しておいてくれぬか」
目を閉じている穂摘の口端が、げんなりと下がっていった。
つっこみたい事が山ほどあり過ぎて、彼は何をどうアリアに伝えようか数秒悩んだが、取り敢えず一番重要な点を最初に告げる。
「あのな……まさか僕の居ない昼間にもこの部屋に出入りするつもりなのか?」
ご尤もな話である。
アリアを放置する事を諦めて体を起こした穂摘は、もう一口珈琲を飲んでから、きょとんとした顔をしている金髪翠眼の女を見つめた。
下に服はきちんと着ているようだが、元々の姿が落ち着くのか、相変わらず黒いローブを羽織って帽子を被っている変な奴。
穂摘にとってはごく自然にそこに居る存在。
けれど、夏堀椿以外の一般人がこの部屋に入って来ても、そこには居ない事になっている存在。
今は、可視化させているのか、いないのか。
それすら分からないほど、穂摘にははっきり見えるのに。
アリアは穂摘の視線を受けて、肩を竦ませつつも答える。
「そのつもりであったが、少し図々しかったか。嫌だと言うのなら勿論無理にはせぬよ」
強気に「入って当然」と言わないあたりが、らしいような、らしくないような。
相変わらず距離感の掴めない半居候に脱力させられ、穂摘はいつも通りのやり取りを開始した。
「嫌とは言ってない、今更だ。今度全部用意して鍵も作っておくから、珈琲飲んだら帰れ」
夕飯を食べ、依頼メールの処理をした後はさっさと帰る事。
これは当初からの暗黙の了解のようなもの。
ここ三日は妖精の騎士対処の件で聞き取りがあったから残って貰っていたが、本来はテレビなど観ずにさっさと帰って貰うスタンスである。
穂摘とアリアは、あくまでただの協力関係なのだから。
その関係の通り、言われればアリアはほんの少しだけ名残惜しそうにしながらも部屋を立ち去った。
睡眠の邪魔を妨げる者は居なくなり、穂摘は残りの珈琲を一気に飲み干してからまた目を閉じる。
だが、頭だけは妙に冴えていて余計な事を考えてしまう。
そう、アリアはどこに寝泊りしているのかもよく分からないのだ。
当然のように毎晩追い出していたが、公園が寝床かも知れない相手を容赦なく追い出すのは酷いのでは無いだろうか。
妖精とは言え、仮にも女性なのだから。
いや、逆だ。
女性と言っても、妖精なのだから別に家が無くとも関係無い。
無い……のか?
本当に?
凄く冷たい仕打ちをして来たかも知れない、と思い始めた穂摘は結局休めなくなって瞼を開き、その瞳の奥を動揺の色で染めていた。
対処方法を考える。
アリアに賃貸で良いから部屋を与える事が脳内候補に真っ先に挙がった。
普段彼女は不可視の状態で生活している為に人間の通貨を渡す事は無かったが、服をきちんと着るようになった今なら基本は可視させる事を前提として通貨を渡し、人間の様に暮らさせるのもありだ。
だが、そこで問題点として浮上するのは彼女の耳。
普段から一般人に可視させて動く場合、耳をもっとうまく隠す必要があるだろう。
あと、籠手も。
籠手は、冬ならまだしも夏は少し難しい。
今の所は衣類をかけて誤魔化しているが、特定の住居に住むようになった際にいつも腕を隠しているのは怪しいと思われる。
アリアの籠手はガントレットの為、腕は勿論の事、指先まで隠さなくてはいけないのだから尚更。
部屋を借り与えるだけでも問題が山積みで、穂摘は今日の所はそれ以上考えるのをやめた。
まとめた書類を大きめの茶封筒に入れ、封をする。
これで今日のやる事はお仕舞いだ。
風呂に入って寝よう。
クローゼットから下着を取り出して風呂に向かおうとしたその時。
穂摘の携帯電話がぶるぶると震えだした。
すぐに止まったので、きっとメールでも着信したのだろう。
手にとって見ると、パソコン宛てのメールの転送だった。
――つまり、裏の仕事の依頼。
大半は悪戯なので一先ずおいて風呂に入り、上がった後で本文をチェックしてみるとその転送情報には見覚えのある名前が書かれていた。
更科翔。
「何、だ……?」
あの後味の悪い依頼を思い出して、穂摘の胸がざわつく。
あれは決して、更科の仕業と断定は出来ない。
あの妖精を故意に仕向けたのが彼女とは限らない。
けれど、彼女かも知れないと言う疑いが消えなくて、霧がかったままの結末。
その更科が今になって一体何の用なのか。
穂摘はほんのりと湿った指で画面を読み進めていく。
しかし残念な事に、そこには大した詳細は書かれていなかった。
『頼みたい事がある。弔いがてらにそちらまで出て行くから会う時間を作って欲しい。金は出す』
大体、そのような内容。
相変わらず彼女は直接話す主義らしい。
「凄く、会いたくない……」
低くぼやく、穂摘。
だが、彼女の話を聞かないわけにもいかない。
更科から以前請け負った依頼は、アリアの石に若干ではあるが関わるものだったのだから。
濡れた茶髪をタオルで軽く拭きながら、返信作業をこなす。
ついでに穂摘はそのまま、使い道の少ない女子高生にもメールを送信した。
※第六話はまたしても少し長く、全部で六ページとなります。
ゆっくりとお付き合いしてやってくだされば幸いです。
 




