想いは茂みで、魔と戯れる4
その頃、夏堀を突然見失ってしまった穂摘とアリアは、黒いローブを脱ぎ、二人でその場に立ち尽くしていた。
一瞬の出来事だった。
何の不自然さも無く歩みを進めていた最中に、彼女の姿がぬるりと何かに呑まれる様に掻き消えてしまったのだ。
夏堀が消えた場所を穂摘が軽く調べてみるが、そこには何も無い。
「どういう事なんだ、アリア」
「多分、異空間に引き込まれたのだと思う」
「妖精の騎士の仕業か。その異空間に向かう方法は?」
穂摘が問うとアリアは自分の胸に拳をあて、自分が鞘であるかの様な動作で、剣を「自分の胸」から取り出した。
これが口から出て来たら曲芸だなと思いつつ、穂摘もメイヴカンパニーへ提示する「証拠」を撮る為のカメラを荷物から取り出し、手にしておく。
カメラの中の妖精はようやく出して貰えた事に喜んでか、レンズの辺りからすり抜ける様に顔を出し、森の空気を吸っている。
アリアは小さな妖精を横目に見ながら、手にした長剣をぶんと振り回し、その柄をしっかりと握り直して何も無い目の前の宙に向けた。
彼女の周囲の空気が、変わる。
その表情も、普段の飄々としたものではなく真剣だ。
張り詰めた空気を感じて、のんきな顔をしていた小さな妖精も慌ててカメラの中に引っ込む。
「奴の作ったであろう空間をこじ開ける。妖精の騎士と接触しても金の指輪があれば見逃して貰えるはずなのだが、それでツバキが戻ってきたとしても奴を退治する事は出来ぬからな。こちらから出向く必要があろう」
「なるほどな。指輪は魔除けじゃなくて、身代わりのような物なのか」
「うむ……上手くいくかは分からぬが、ちと離れておれ」
アリアに指示されるがまま、穂摘は少しその場を退く。
気付けば暗くなっていた空に、風が彼女を中心として立ち上り、舞い始めた。
風が下から煽り、金の髪が不自然な方向に揺蕩う。
力を溜めたからなのか、アリアの剣はこの薄闇で灰白色に輝いており、アリアはそれを夏堀が消えた場所に向かって一閃させた。
ぎち、と厭な音がまず響く。
次にぎちぎちぎち、とその何も無い宙で、銀刃に抗うように音が連なっていく。
不快音に顔を顰めた穂摘が瞬きした後、ようやく妖精の騎士が居るであろう空間への入り口がぶわっと開かれた。
だがその切れ目の先に見えたのは禍々しさなど微塵も無い、風光明媚な光景。
青く茂る原に花は咲き乱れ、月がそれらを照らしている。
何となく敵の本拠地と言うイメージで捉えていた穂摘は、その真逆とも言うべき景観の異空間に気を取られたが、そこに怯む事無く足を踏み入れて行くアリアを確認し、慌ててその後を追った。
異空間には、足を触れた途端に一気に全身が転移させられたようである。
入る、と言うよりも触れる、と言う動作でそこへ強制的に転移させられるのかも知れない。
この様な罠を森に仕掛け、敵は悠々と獲物を待ち受けていたのか。
だがしかし、穂摘とアリアが異空間で目にしたのは悠々とは程遠いものだった。
美しく咲く花々を蹴散らして逃げ惑う夏堀と、それを追う鎧の男。
襲われているには違いないが、まだ夏堀は無事らしい。
ただ、どうして追われる事になっているのか謎だ。
指輪が一切役に立っていない状況で、先に口を開いたのはアリア。
「アラタ、きちんと撮るのだぞ! 私は奴を追う!」
「あぁ……」
指示をされた事で気を取り直し、例の特殊なポラロイドカメラを構え、何故か猛ダッシュしている夏堀の後方にピントを合わせた。
レンズの先で繰り広げられている夏堀と妖精の騎士らしき男との攻防は、穂摘達の事前の計画を全力で無視している。
何を思ったか、夏堀は妖精の騎士から身を挺して指輪を護っていた。
そしてどうやら妖精の騎士は、夏堀の未成熟な体よりも指輪のほうがお気に召したのか、そちらを奪おうと必死になっている。
「ヤクザに屈したらダメなんです、恐れないんです、三ない運動なんですぅぅぅ!」
意味の分からない喚き声と共に小さくなっていく夏堀の姿が見えなくなりそうなところで、一応シャッターを一度押しておく穂摘。
以前の様にカメラから光が漏れ出たかと思うと、
「こんな絵を描く事になるとは思いませんでした」
手元からエシルの小さな呟きが聞こえ、
「僕もこんなものを撮る事になるとは思っていなかったよ」
穂摘も思わず同意していた。
メイヴカンパニーに提出する証拠が、ふざけている様にしか見えない鬼ごっこ写真でいいのかどうか。
この異空間の大きさがどの程度のものかは分からないが、ある程度のところでぐるりと回っているらしく、しばらくしてまた夏堀が戻ってきた。
その背後に鬼ごっこの鬼であった妖精の騎士は居ない。
息を切らした夏堀は穂摘の姿を見止め、よろよろと近寄ってくる。
そんな彼女に対して穂摘の唇から漏れたのは、
「何をしているんだ、君は……」
心からの言葉であった。
「妖精に、ヤクザが居るだなんて……聞いてません……」
「僕も聞いた事が無い」
カメラを首にかけて、疲れきっている夏堀の腕を取り、軽く支える。
「指輪を渡せば害は無かったんじゃないかと思うんだが、駄目だったのかな」
「え?」
当然ながら穂摘はその点を指摘し、夏堀はそんな事考えもしなかったと言わんばかりに顔を上げた。
何を思って、万が一の為に使うはずだった指輪を渡そうとしなかったのか。
様々な想像を張り巡らせる穂摘に、一呼吸置いてから夏堀が答える。
「金目の物を寄越せって言われたんです……」
「うん、それで?」
「何かこう……カツアゲされている気分になっちゃって、逃げなきゃって思って」
どうやらこの少女は、もし不良や暴力団にカツアゲされそうになったら、大人しく物を渡すのではなく必死に抵抗するらしい。
危険だ。
予定と違う行動を取ってしまった事は落ち着いた今なら自覚出来ているようで覇気が無くなっている夏堀に、嘆息しつつもそれ以上咎める事はしないでおく。
アリアの姿が見えなくなったが、きっと離れた場所で妖精の騎士とやり合っているのだろう。
アリアの剣は斬ると相手を灰の様に崩してしまうので、撮る事が出来るのは「倒した証拠」ではなく吸血妖精の時と同じく「遭遇した証拠」までである。
黒崎も上北もその点は既に知り得ているのか、それとも遭遇したからにはアリアは取りこぼさない、と彼女の腕を信用しているのかそれ以上の証拠写真は求めて来ない。
穂摘自身も、見つけさえすれば何の苦も無く彼女が勝つだろう、と既に気を抜いていた。
だからか、その後に聞こえてきた轟音に瞬時に反応する事が出来なかった。
ドン……ッと短く、それでいて腹に響く大きな音が、野原の少し先の林から聞こえてくる。
アリアが対象を倒した音か、と思ったのだが、そこまで考えてから彼は改めて熟考した。
普段アリアが敵を斬る時は、むしろ静かだ。
音を聞いた夏堀が不安げにその音の発信先を見る。
「途中でアリアさんがイケメンヤクザの相手をしてくれたんで、逃げ出してきたんです」
「その辺りは大体分かってる」
「今の音、大丈夫なんでしょうか……?」
「向こうの様子が気にはなるけど、下手に行っても逆に足手まといになる。近づくのは危険だよ」
「そうですね、この前穂摘さん足手まといになったばかりですし」
痛いところを突かれて苦渋の表情を浮かべる穂摘。
妖精同士の争いに、少なくとも穂摘や夏堀が入り込む余地は無い。
だから攻撃的な妖精の場合、様子を見に行かない事こそが最善なのである。
先日追いかけて失敗した以上、再度同じ轍を踏む選択肢は彼には無かった。
しかし先程の音。
「もしかすると」と言う感情が生まれてしまった穂摘はどうにも落ち着かず、首に下げたカメラを無意識の内に強く握っていた。
抵抗する様にカメラが勝手に揺れるが、中の小さな人に配慮する余裕が穂摘には無くて。
足手まといになると分かっているし行くべきでは無いと言う判断が出来ているのに、目や手足はそわそわとしてしまう。
そんな穂摘を見て、夏堀は曇っていた表情を少しだけ和らげて呟く。
彼が、彼女を、心から気にかけているのが分かるから。
「心配、ですよね」
「ああ」
心中の代弁をして貰えた穂摘は、静かに同意して林の先を見つめ続けた。
その先では、アリアと鎧の男がじっと睨み合っていた。
間隔のあいた木々の間から仰ぐ虚空の下で、互いに剣を構え、臨戦態勢を崩さない。
先程の轟音は、鎧の男によるもの。
一撃で相手を塵に還してしまうアリアの剣戟。
それが触れるのを防ぐ為に、地を穿つ事で爆風を生み出し、まず距離を取ったのだ。
妖精の騎士は、アリアよりも下位であるとは言え、騎士である。
今まで斬ってきた妖精達とは違い、戦いに身を置く者であり、そう簡単に斬らせてはくれないようだった。
それにこの妖精が根本的に今までの妖精達と違うのは……
「趣味の悪い遊びをするものだな。それとも、誰かの命令なのか?」
アリアが問うと、妖精の騎士の表情が変わる。
そう、女を襲うのはあくまで遊び。
この妖精はそれ自体が目的や生きる理由などでは無い。
誰かに仕え、命令のままに剣を振るう事こそが存在理由で、故に彼は大人しく斬られる事を望んだりはしないのである。
アリアに貶された男は、絹糸の様な髪を気障りに掻き上げて言い返す。
「腕を義手の籠手で覆う者に、趣味をとやかく言われたくは無いな」
ふふん、と笑い、吐き捨てられた言葉にアリアの顔色が変わった。
力を奪われ、片腕が使えなくなったアリアにとって、その腕を支える銀の籠手は大事な物であると同時にコンプレックスの原因だ。
一瞬憎悪の感情が沸き立ったアリアの双眸が険しく歪むが、それを彼女はすぐに抑え、息を吐き出し終えたところで告げる。
「人の容姿に難癖つけるとは、やはり顔だけの男のようだな。その命惜しいとも思えぬ。だが……」
アリアは改めて匂いを確認した。
空間で遮断されていた為にここに来るまでは分からなかったが、妖精の騎士からは比較的濃く、自分の匂いがする。
と言う事はこの男をただ斬り伏せてしまっては、先日の魚尾の川馬の二の舞だと言う事。
構えを解く事無く、アリアは言葉を続ける。
「先程の破壊力、明らかに貴様の本来の格では持ち得ぬものよ。更に私の匂いまでつけて……この腕の真実を知っているのなら、先の発言はむしろ私の力を借りている自身を貶めている事にもなるのだ、と。そんな事も分からぬのか?」
「ああ、分からないな。奪われた者が馬鹿なだけなのだから……いや、こう言ってしまってはお叱りを受けそうだ」
「お叱り……?」
この男を叱るとすれば、その主しか居ないだろう。
この男の主は、奪われた者を見下す事に対して不快感を示すのか。
それとも何か別の要因があっての事か。
うまく判別出来ずにアリアの視点がやや揺れた。
自身の言葉が格上妖精の動揺を誘った事で気分が良かったのか、妖精の騎士はほんの少しだけ真実を漏らす。
「命令だ」
きっと、最初のアリアの問いへの答え。
しかし真の意図までは伝わって来ずにアリアの表情が怪訝なものになる。
女を襲う事が「命令」によるものだと肯定されても、その先が見えない。
すると、妖精の騎士は先程開けた穴を指し示す。
示されるがままにアリアが視線を移すと、そこにはいくつもの人骨が顔を出していた。
埋まっていたものが、出てきてしまったのだろう。
「……今までの被害者はただ襲われていただけでは無かったのか」
「気分次第では、たまに見逃していたがね」
金を出すか体を差し出すかの選択を迫りながらも、その後にこの妖精は結局殺していたらしい。
人間を。
前者が妖精の騎士の遊びだとすれば、後者こそが真の命令なのかも知れない。
なら、夏堀が指輪を渡さずにひたすら逃げていたのはむしろ正しい選択だったと言えよう。
これは……アリアの読み違いだ。
ずっとアリアから距離をとっていた妖精の騎士は、一歩前に出て白々しく乞う。
「私を見逃してはくれないか、アリァガッドリャフ」
「……世迷言を言うでない」
「全てはアリァガッドリャフの為だとしても、か?」
それを聞いてアリアの唇が僅かに動く。
言葉は発さず、ただ驚いての事。
全てはアリアの為だと、騎士は言う。
人間を殺していたのはアリアの為だと、そう言っている。
だが、当のアリアの中では何一つとして繋がらなくて、考える事を拒否する脳が、剣を握る手の力を強くする。
妖精の騎士はアリアを疎ましげに見ながら一つ付け加えた。
「私もこんな命令は不服なんだ」
「だが命令がある以上は従う、と」
「そうさ。でなければ……こんな弱った片腕の女の為に動くものか!」
男の碧眼が、醜いものを見るように酷く歪められる。
またしてもアリアの傷を抉る妖精の騎士。
「ならば、その命令、二度と聞けぬようにしてくれる!!」
アリアのブーツのつま先が、地を蹴る。
当てさえすれば、その障害など何の苦も無く斬り伏せる不敗の剣。
ごう、と轟く風の音を発しながら、一度もその軌跡を緩める事無く、横に振り切られる。
防ぎようの無いアリアの剣の一閃に為す術も無く両断された鎧の男は、
「……いっそ全てを奪われていたなら、良かった、もの、を」
声は途切れ、肉は灰となり、空に還っていった。
奪われた力を取り戻そうとするアリアに、妖精の騎士の今際の言葉は辛辣に響く。
だが彼女にはそれよりももっと動揺に値する事があった。
怒りから我に返ったアリアが、呻く。
「……ああああぁぁぁぁ」
カッとなって、また斬ってしまった。
魚尾の川馬の時は穂摘のせいにも出来たが、もはやこれは言い訳のしようが無いアリアの欠点だ。
アリアに好意を持っているとは思えなかった為に口を割りそうには無かったが、それでももう少し粘って良かったはずだろう。
ちなみに本来、その役目は穂摘が担当している。
彼女の、口と同時に手が出るのは今に始まった事では無い。
だから黒い犬女の時のように事情を聞く必要がある場合は、まず穂摘が妖精と会話をするのである。
アリアは荒く削られて窪んでしまった地面からは目を背け、ぼそりと一言。
「アラタが来ないから悪いのだ……」
そういう結論に達したらしい。
剣を納めたアリアはその理不尽な言葉を宙に置いて、穂摘達を置いてきた方角へと歩き出す。
少ししてから見えてくる、最初に降り立った野原。
そこには穂摘と夏堀が何をするでも無く立ち尽くしていた。
夏堀はさておき、穂摘は要らない時には着いて来るくせに、どうして居て欲しかった時に来ないでいつまでもそんな所で待っているのか。
先日アリアが叱ったせいなのだが、それをまるっと無かった事にしてアリアが叫ぶ。
「アラタ! 何故そんな所で突っ立っておる! アラタがいつまでも来ないからまた手掛かりを斬ってしまったでは無いか!」
アリアの姿に気がついた穂摘は、安堵の表情で胸を撫で下ろした。
だがすぐにその言葉の意味に気が付き、疲れているのか嬉しいのか判別し難い苦笑した表情を見せる。
「僕が居ても居なくても結局斬っちゃうのか!」
「流石はアリアさんですね……」
夏堀も呆れつつ、アリアに駆け寄って、
「何はともあれ、大きな音がして心配だったんですよ。大丈夫だったんですね、良かったです!」
「勿論だ。先程は見失ってしまってすまぬな」
「いえ、私こそ折角貰った指輪をうまく使えなくてすみません!」
そんな風に再会を喜ぶ二人に、穂摘が横槍を入れる。
「ところでこの空間からはどうやって出るんだ?」
「ああ」
確かに横槍を入れるに足る話であった。
入って来た時にアリアが作った切れ目は入った瞬間に閉じてしまっており、目に見える範囲で出口は無い。
アリアはやや不安げな穂摘に対し、笑顔で言い放つ。
「先程妖精の騎士を斬り捨てた故、そのうちこの空間は崩壊する。その前に、来た時の様に再度空間を斬って出口を作ればいいだけの話だ」
「……って、事、は」
彼らの耳に、ごごご、と地響きのような音が聞こえ始めた。
空はまるでくしゃりと潰された紙屑みたいに折れ曲がり、収縮を開始している。
これからこの空間を消失させてしまうかのように。
のんびりと剣を抜き構えたアリアを急かすのは夏堀。
「は、早くしてくださいーーーーー!」
「大丈夫だ、すぐに終わる。ここをちょこっと斬ってやればいいだけなのでな」
「そんな事言ってないで早く! ほら! 何か地面が海みたいに波打ってますから!」
夏堀が指を指す先は、既に草と花と土の境界も分からなくなっていた。
形と色彩がぐにゃりと混ざっており、この空間を作った存在の消失によって物質として保てなくなっているのだろう。
「……夏堀さん。アリアのこれは多分、わざとだ」
「何で穂摘さんは『もう慣れた』みたいな顔してるんですかーーーーー!」
穂摘と夏堀の会話に、アリアは小気味よさを感じていた。
けれど、すぐにそれは別の感情に変わる。
アリアがつい先程滅した妖精の騎士……それは、元々は人間だった存在。
そこまで気に病んでいる様子は無い穂摘と夏堀だが、事情も状態も違うとは言えこの二人もまた、妖精の騎士に近い存在だ。
斬ったばかりの者と重なって見えてしまう事でアリアは二人に哀憐の念を抱いていた。
一人憂うアリアが出口を作り出した頃には、ほぼ壊滅状態になる異空間。
不本意ながらもアリアの為に人間を殺していた、人間だった騎士の創った明媚な世界が、消えてしまう。
跡形も無く。
【第五話 想いは茂みで、魔と戯れる 完】




