歯を砕き、縁を繋げ2
◇◇◇ ◇◇◇
どんなに振り返ってみても、
見えない。
見えない。
見えない。
なのにそれは着いて来る。
ここには隠れる場所なんて無いのに、濃い湿気を含んだ空気にも似た、不快にまとわりつく視線が自分の背を刺す。
見える事とは、素晴らしい事だ。
見えない事とは、とても恐ろしい事だ。
しかし……普段見えないはずのものが見えてしまう事は、果たしてどちらなのか。
◇◇◇ ◇◇◇
翌日。
穂摘は一般人と変わらぬ生活を送っていた。
寝坊してしまったがどうにか仕事に間に合うくらいには支度を済ませ、自転車で行ける距離にある職場まで向かう。
元々彼は少し不思議な能力を持ちながらも一ヶ月前までは一般人として生活していたのだから、今現在は超常現象の解決請負などをやっていてもそう大きく生活スタイルが変わるわけでは無い。
何しろ彼の能力はあくまで見えるだけ、話せるだけなのだから当然だろう。
――世の中には自称・不思議な人間が沢山居る。
前世が分かります、幽霊が見えます、宇宙と交信出来ます、そんな輩が腐るほど。
特に多いのは幽霊が見えると言う人間だろうか。
他人とは違うモノが見えて、なまじ他のオカルトと比べても現実味があるだけに、そんな発言をしようものならば他人に気味悪がられる事も少なくない。
そういう題材の物語もよくある。
幽霊が見えてしまう事で独り浮いていた主人公は友達を作れずにいたり、そこから仲間や受け入れてくれる友達を作っていく青春アンド友情ストーリー。
だが同じように浮いた存在のはずである穂摘の場合は、そんなほろ苦く、不思議で甘酸っぱい青春にはならなかった。
それには彼の母親の存在があって、その言いつけを守ってきたからに他ならない。
自身が既に見える側だった穂摘ママは言う。
「ああいうのが見えている事を絶対他人に話しちゃ駄目。関わっても駄目。友達に嫌われたくないならそうしなさい、嫌われてもいいなら好きにしなさい」
小さい頃からそう躾けられていた穂摘は、嫌われたくないからその見えているモノの事を他人に話さなかった。
大変聞き分けの良い子供だったらしい。
お陰で彼は二十数年間、普通の人として社会に溶け込む事が出来ている。
混血だから見た目は日本人と少し違うものの、生まれてこのかた日本育ちで、幸いな事にいじめにも遭わず平穏な日々を過ごしてきている。
つまり、特殊な能力を持っていたところで、それを表に出さなければ済む話なのだ。
大体において、彼が見えているモノのことを他人に話してしまえば、その拒絶反応は幽霊の比ではない事が簡単に予想出来た。
頭のお花畑でちょうちょが踊ってイマセンカ? と思われて全力で距離を置かれるのが目に見えている。
何故なら彼が見えているのは前世でも幽霊でも宇宙人でも無い……
妖精さんなのだから――
そう、穂摘新とアリアは、様々な超常現象の中でも妖精専門の請負人なのだ。
妖精と言っても世界中で多数の定義があり、日本や中国で妖精に位置するのはいわゆる妖怪と呼ばれているモノなわけだが、彼らはあくまで西洋の妖精専門である。
穂摘にもアリアにも、日本の妖怪は見えない。
それと、幽霊も見えない。
宇宙人も、見た事は無いらしい。
となると、先日の港での犬女も勿論、妖精だったと言う事になる。
見える事が出来るだけの穂摘は、日本には多くない妖精を最近まで無視して生活してきた為、あまり妖精の生態に詳しくなかった。
代わりにその点に関して詳しいアリアが、事前に依頼主に聞いていた特徴から妖精の仕業であると判断し、請け負ったのが先日の流れ。
さて、一応自動車運転免許証は持っているが、基本インドア派で車自体は持っていない穂摘。
一万円前後で買ったとぼんやり記憶している平凡な形の自転車に跨がって、彼は普段遭遇しない学生を横目に車道を走り抜ける。
寝坊して頭は冴えていなかったはずなのに、外に出てみたなら眠気などどこかに飛んでいってしまうくらい、今朝は良い天気だった。
だが穂摘は、それとは別に眠気が追いやられるものを見かける。
「何やってんだアイツ……」
時間が無いと言うのに、穂摘は思わず自転車から片足を下ろしてその場に立ち止まってしまう。
毎晩見ているあの黒ローブを、今日は朝から目にしてしまったのだ。
いやはや朝から黒いローブなど、目障り、目立つ事この上無い。
けれどかなりの目立つ風貌にも拘わらず、黒いてるてる坊主状態なアリアはその場に馴染んでいた。
外観的には馴染んでいるようには見えないのだが、周囲の人々は彼女に視線をやる暇など無いと言わんばかりに素通りしているので、結果として馴染んでいる。
小学生から高校生までの通学路になっているこの道で、誰もがしっかりとその不審者……もとい、アリアに関わらないように無視。
確かに早朝の出勤・通学ラッシュの時間帯では誰もが他人に構っている暇など無いが、あの異分子に対して一人も振り向かないのは少し異様に思えるだろう。
ただ、穂摘はその理由を知っている為、その点に関しては特に気にする事も無い。
それよりも昼間からアリアを見た事のほうが彼にとっては気を惹いた。
実のところ穂摘は、夜の彼女しか知らないからだ。
道路を挟んで反対側の公園付近に居るアリアは、遠まきに眺めている穂摘に気付いていないようで、そのまま歩みを止める事無く道なりに進んで行ってしまった。
目的があるかのように、真っ直ぐと。
しかしここまで見ていたものの穂摘自身も彼女に構っている余裕など無いので、その後はすぐに自転車に乗り直し、他の人同様にアリアを放って走り抜けた。
朝は、忙しいのだ。
しかし折角急いで出勤したのにあまり仕事が無かった穂摘は、久々に残業分を僅かながらも返上して早めに帰る事になる。
朝の寝坊に続いてまた彼のタイムテーブルがずれ、それによって彼は再度陽の下でアリアの姿を見たのであった。
「朝も夕方も同じ場所で会うとか、相手が相手なら運命かもって思うんだけどなぁ……」
そう、独りぼやく。
だが相手は既に知人であり、裏稼業の相方であるアリア。
運命も何も無い。
相変わらずの黒尽くめの格好で、また今朝と同じ場所をすたすたと歩いて行く。
そして彼女はそのまま公園の中に入る。
既に仕事帰りという事もあり、穂摘は今朝のように通り過ぎずに一応声をかけてみる事にした。
公園の駐輪場に自転車を留め、鞄だけを手に持つ。
本来ならあまり関わりたくない相手とも言えるが、夜になればまた食事を食べにやってくる相手に、接点を持たないようにする意味などあまり無い。
「何をしているんだ?」
気になる事は聞いておこう。
距離は少し離れていたが、ごく自然に『知人である彼女に対して』声を掛けたつもりだった。
けれど、彼の問いに対しては別人が返答をする。
「何って……何でもいいじゃん、関係なくない?」
たまたま近くにいた女子高生の二人組、その片方が振り向いて穂摘としっかり視線を合わせてきた。
気付けばアリアは彼の視界から消えており、これでは女子高生達が聞き間違えたと言うよりは、穂摘が声を掛け間違えた側だ。
何しろ、その場には女子高生達と穂摘しか居ないのだから。
あ、やばい、知らない女の子に声を掛けてしまった。
穂摘は周囲を見渡した後、視覚から取り入れた情報を元にして適当に話をでっち上げる。
「……この辺りは危ないから早く帰ったほうがいいよ」
「えっ、この辺もしかして変質者とかよく出たりすんの!?」
苦し紛れにも程がある内容だと思うが、女子高生は思いのほか食いついてきた。
「ああそうだよ、知らなかったのかな?」
さらっと話を合わせたが、勿論穂摘もそんな事実は知らない。
「うっわ、ありがとおじさん! 一瞬おじさんがストーカーかと思ったけどー!」
「ちょ、ちょっと……!」
穂摘の嘘に対して元気で大袈裟、かつ、少し意味が分からない返事が返ってきた。
元気に叫んだ女子高生の隣では、もう一人の女子高生が目を丸くして慌てている。
多分おじさんだとかストーカーだとか、失礼な単語を発した友人に対しての反応だろう。
その辺りは大して気にしていない穂摘としては、むしろ「女子高生達に声を掛けてしまった事」を誤魔化せた事のほうが重要だ。
とにかく、おじさんは早く逃げたい。
少女達から視線を外し、彼は表面上は自然にその場を立ち去る。
内心は冷や汗ものなのだが、それを偽るくらいの余裕はまだあった。
アリアを見失ったのだからこの公園に居続ける意味も無い。
幸い穂摘は女子高生達に不審がられる事もなく、無事に駐輪場まで戻ってくる事が出来、自転車の鍵に手を伸ばす。
すると、俯いていた彼の頭上から、先程欲しかったはずの声が聞こえてきた。
「この公園は変質者が出るのか、知らなかったぞ」
「お前……どこに居たんだよ」
顔を上げると、見慣れた黒いフードの下に白い肌が覗いている。
厭味な笑顔が憎いくらい眩しい。
アリアが、そこに居た。
彼女は彼の問いに対し、さらっと言ってのける。
「木の上だ」
「……いや、確かにこの公園じゃあそれくらいしか隠れる場所は無いと思うけど、何で声掛けたところで隠れるんだ。わざとだろ? 嫌がらせか、嫌がらせなのか」
先程女子高生に間違って話しかけてしまった恨みをこんこんとぶつけ始める穂摘。
が、男の愚痴などに耳も貸さぬアリアは駐輪場を囲う塀に腰掛けて、黒ローブの下から本を取って読みだした。
ちなみに手にしているのはどこかから拾ってきたと思われるぼろぼろの漫画雑誌。
彼女の日本語の教科書はコミックなのかも知れない。
スルーされた穂摘は、仕方なく今朝の事を話し始める。
「今朝もこの近くでお前を見かけたんだ。道路の方でだけど」
「そうか。朝から良いものを見たな」
「……あぁ、うん……」
自信たっぷりの相棒に、呆れ顔で返すしか無い。
確かにアリアの外見は良いものに違いないのだが、その良いものがほとんど黒いローブで覆われている状態で見たところで、何も良くないような気がする。
朝も、今も、見てはいるけれど目の保養になどなりはしない。
視界を暑苦しい黒で占領されるだけなのだから。
と、そこで彼にふとした疑問が湧いた。
この辺りで二度見かけたわけだが、そう言えばコイツはどこに住んでいるのだ、と。
毎晩夕食を食べに来る女ではあるが、彼女が普段どこで何をしているかまでは把握していない程度の間柄。
この裏稼業の相方とは、まだ付き合いは浅い。
「そう言えばお前、どこで暮らしてるんだ? この近くだったりするのか」
別に必要以上に追求するつもりは無い、世間話に近い問いのはずだった。
だがその問いの答えは、彼の世間話を、世間話ではないものに変えた。
「ここで寝泊まりしているぞ」
ちなみにここは公園である。
なるほど、ここで寝泊まりしているのなら、朝も今もここで見かけるわけだ。
数秒の現実逃避思考の後、穂摘は一番自分の中で納得がいく結論を出した。
「嘘だろ?」
一応見た目は若い女のアリアが、公園で寝泊まりと言う事実は素直に受け入れられない。
なのにそんな青年の心中などお構い無しに、酷い抉り方をするのはアリア。
「嘘だったとして、だからどうなのだ。女の正確な寝床を聞いてどうする、いやらしい奴め」
「…………」
彼は相棒に「家はどこなの?」なんて言う質問すらも、させて貰えないらしい。
そういう意味で聞いたわけでは無いのに、いやらしい奴扱いされて穂摘は口を噤んでしまう。
反論したいのに出来ないのは、視線のやり場がどうしてもローブからチラりと見えている露出部分に流れてしまう事が多いからだった。
この女、体勢によっては素肌が際どい位置まで見えるのだ。
穂摘が素直に黙ってしまったところで、アリアは塀の上でわざとらしく足を組み替え、ローブの裾から生足太股を見せてくる。
明らかに穂摘の視線の先がバレており、いやらしい奴だと言っているのは寝床云々ではなくその視線のせいもあるのだろう。
見られるのが嫌なら長いスカートでも履いてくれたらいいのに、と彼が正論を考えていると、彼女は更に斜め上の発言をぶっ放してくる。
「そういう顔をするな、アラタ。私は別にいやらしい男が嫌いとは言っていないだろう」
彼の思いは顔に出ていたらしい。
「……ど、どういう意味で捉えたらいいんだソレ」
じっくり見てもいいのか悪いのか、むしろそこは見て欲しいと言う意味なのか。
だからそんなに肌を見せているのか。
冷静を装えていない青年は、恐る恐るその意図を聞いた。
対して、アリアはしたり顔で言ってのける。
「そのままだ。ただし、好きとも言っていないがな」
「わざわざ上げてから下げて来るなよ!」
遊ばれているのが分かるので、本を読む手を止めて愉快そうに塀の上から見下ろしてくる女からは軽く視線を外す事にした穂摘。
彼女をこれ以上見てはいけない。
「とにかく、姿を見かけたから寄ってみただけなんだ」
「構わぬ。知り合ってから一月、毎晩訪ねてくる女がどこで何をしているか、気になるのは至って当然の事であろうからな」
「あぁあぁ、そうだよ、気になったんだよ。結局、ただの暇人だったみたいだけどな」
「何、暇に見えたのかこの私が!」
「違うのか?」
「昼間は昼間で忙しいのだぞ私は。一応言っておくが、全てをアラタに任せっきりになどしていないのだ。見当はついているがなかなか確証が持てずに困っているところで……」
そこで、何故かもじもじするアリア。
恥らう事は何も無い流れのはずなのに、胸元で両手の指を絡ませ、照れ臭そうにしている。
それだけ見たなら可愛らしい仕草なのだが、黒いローブに銀の籠手と言う服装では何も可愛くない。
「へぇ、そうなのか。てっきり僕任せだと思っていたよ。で、見当って?」
「ううむ、まだ自信が無いのでな。それは追々と話そう」
「そうか」
アリアは結論は話さないまま唇を閉じてしまい、穂摘も特に問い質すような事はしない。
用件が済んだ彼らはまたそれぞれ、穂摘は自転車に乗って帰宅し、アリアは公園に残った。
住処が「ここ」らしい彼女の見つめる先は、先程穂摘が間違って話しかけてしまった女子高生達。
女子高生達はまだ公園の中心部で何やらしているようだが、アリアは深くフードを被りなおすとサッと跳んで園内の木の上に隠れ、その黒い姿は見えなくなる。
木々の間に日差しが作る濃い影に潜んだのは、姿形か、それとも思惑か。
「出て来ーい! ストーカー!!」
「わー! 何で大声でそういう事ばっかり言うのー!」
女子高生達の賑やかな声が、公園に響く。