踏み躙られた蹄に、女が嗤う5
そして穂摘は、次の日に有休を取って更科の住む県へと、アリアと共に電車で出向いていた。
平日である為、夏堀は居ないが、アリアは人間の服をきちんと着て穂摘の前に座っている。
普通の人間にも今の彼女は視認出来るようになっているのだろう。
鈍行の電車はゆったりと彼らの視界に緑を映して行くが、それも次第に減り始め、目的地が近づいている事を示していた。
アリアは包帯をいびつに巻いた右腕を隠すように胸の前で組みながら、穂摘に問う。
「今日はシゴトは無いのか?」
アリアが言っているのは、穂摘の表の仕事だ。
「僕の仕事は僕が休んでも、僕以外に大した迷惑が掛かるものじゃないからな。人が死んでいて、依頼主が容疑者になっている以上、優先順位はコッチのほうが高い」
「ふむ」
耳当て帽子の下で、緑の瞳がゆるく伏せられる。
金髪は露出している為、電車の中で通りすがる人々の視線はアリアに向く。
耳が隠れているとは言え、万が一帽子が取れた時は何と言い訳をすれば良いのやら。
普通の服を着てくれるようになった事は有り難いが、こうやって姿を隠さなくなったらなったで、穂摘には常に心配が付き纏うのであった。
上北のようにうまく耳を隠せる髪飾りでも買うべきか……などと、穂摘がまるでお洒落に興味の無い恋人に考えるような事を考えていると、電車のスピードが落ちてきて景色からほぼ自然の色が消えていた。
目的地に着いたらしい。
先日一人で穂摘が来た時はすぐにタクシーに乗ったが、今日は先にする事がある。
「アリア、どうだ?」
「しばし待て」
そう言って、アリアは静かに目を閉じた。
翠玉のような美しい色は隠れてしまったが、代わりに瞼を閉じて澄ます彼女の表情は神々しささえ感じられ、同じように駅から出てきた者達がアリアを見ては振り返る。
彼女は、薄く開かれた淡い色の唇から息を吐く。
「確かに臭う。だがここからはまだ遠い」
「例の公園に行ってみるか」
二人はタクシーをつかまえて、例の公園に向かった。
見た目は外国人のアリアはその道中で運転手に興味深げに話しかけられていたが、どうにかぼろを出す事無く目的地に着く。
タクシーを降りて公園に足を踏み入れたアリアの第一声は、普段よりも低い声色で紡がれる。
「臭いは残っておるが、ここが住処では無いな。この近くに森は無いのか」
「森か。電車で通り過ぎて来た所くらいだと思うんだが」
「この臭いは覚えた。行ってみよう」
そう言って踵を返す、人間の服を着た妖精。
カジュアルな彼女の隣に合うように、穂摘もカジュアルな服で来ている。
戻る際は先程とは別のタクシーになってしまったがそこで二人は恋人に間違えられ、訂正すらせずに運転手と雑談をかわすアリアを、穂摘は複雑な心境で傍観していた。
更科の住むマンションの最寄の駅より五つほど駅を戻ると、そこはもう山だった。
タクシーを見つけるのは難しそうで、穂摘がバスの停留所の時刻表を眺めていると、アリアはまた目を閉じて空気を肺に入れ始める。
意識してそれを行う事で、この地の空気に残るものを色々感じ取っているのだろう。
しばらくそれをしていたアリアの瞳が、今度はゆっくりではなく突如見開かれた事に、穂摘が驚いた。
「どうした? 何か分かったのか?」
「まだ確信は持てぬが……今回は当たりかも知れぬ」
「え!?」
アリアが言う、当たりの意味。
それは、彼女が探している物が見つかるかも知れない、と言う事。
「吸血妖精とは言え、この日本で人にこれだけの害を与えているのならば、もしやとは思っていたが……」
「アリアの石に影響されている、って事か」
「ああ。ほんの、ほんの微かなのだがな……私の匂いがこの森から漂っておる!」
それだけ言って、アリアはその右腕の包帯を解いた。
山中の駅と言う事もあり周囲に人影は見えなかったが、銀の籠手が白日の下に晒されて穂摘が慌てる。
「お、おい、それは隠しておくんだ」
「大丈夫だ、今からは人間に視認などさせぬ!」
そしてアリアは帽子までも脱いでしまう。
はらりと落ちた包帯と帽子を拾ったところで穂摘が顔を上げると、既にアリアの姿は無くなっていた。
穂摘にはいつでもアリアが見える為、彼に見えないと言う事は走り去ってしまったのだと思われる。
置き去りにされているのは彼女の残り香だけ。
穂摘に妖精の匂いまでは分からないが、確かにふわりと香る普段から嗅ぎ慣れた彼女の香りは、日差しに焼けた木々の匂いに混じりつつも穂摘の中で主張を続けている。
当人は居ないと言うのに随分自己主張が強いものだ、と彼は思った。
しかしそれどころでは無い。
今回はメイヴカンパニーの協力を得る事で、実際の犯人が妖精だと判断出来た場合は、それをうまく処理して貰える事になっている。
だが穂摘がきちんと『妖精が犯人であった証拠』を撮らなくては、流石の上北も処理出来ない。
その事はきちんとアリアに伝えていたのだが、自分の目的に関する手掛かりを目の前にして急がずには居られなかったのだろう。
今更遅いかも知れないが、それでも、と穂摘はワンショルダーリュックから骨董品のようなデザインの大きいカメラを取り出して首に掛けた。
メイヴカンパニー特製の、妖精を映す事の出来るカメラらしいが、穂摘には仕組みはよく分からない。
「どっちに行ったんだアイツは」
独り言を呟くと、首に掛けていたカメラから小さく声が聞こえてきた。
「あの御方なら、あっちに跳んで行っちゃいましたよ。軌跡があります」
「……?」
声の方向を見下げてみると、人差し指程度の大きさの半透明で人型の存在が、カメラの中からひょっこりと顔を出している。
ああなるほど、このカメラは多分妖精が妖精を描き出す、全手動な写真機なのだ。
穂摘にはその妖精が見えているが、妖精が見えない人間にとってはカメラ自体がポラロイド写真を出しているように思えるのかも知れない。
「小さな人、ありがとう。そのまま案内して貰えるか?」
「勿論です。でなければ私がラウファーダ様に怒られてしまいますから」
穂摘はその妖精の案内のままに歩みを進め始めた。
穂摘が置いてけぼりを食らってから少し経った頃。
アリアは県境に近い森の中で、また息を吸っていた。
しかし今度の呼吸は自身の匂いを嗅ぎ取る為のものでは無かった。
「出て来い!!!!」
大声を出す為のものだったらしく、彼女を中心に、人では耐え切れぬような音量の声が響き渡る。
次にアリアは自分の胸に右手を当てた。
するとそこから輝く剣が生えて来るように出現し、彼女の手にその柄が納まった。
人間の服を着て、いつもの黒いローブは纏っていないが、露わになっている長い耳が彼女を一目で人間では無いと判断させてくれる。
体内から取り出した長剣を木々の隙間から見える空にかざし、アリアの口上は続く。
「私から逃げられると思うか? 思わぬだろう! 私はこの山を焼き払ってでもお前達を引き摺り出すぞ!」
彼女は、人間の声帯では出し得ぬ声量を発生させていた。
どこまでその言葉が伝わっているのか。
もしかして山に居る、彼女の声が聞こえる者全てに伝わるのではないかと思うほどのボリューム。
その声だけで人間相手ならば凶器にもなってしまう程だったが、妖精相手ではそうでも無いらしい。
アリアの周囲の空気が、変わる。
ばさりばさり、と鳥類の羽ばたく音がいくつも聞こえ始めた。
アリアの周囲に集まってきているのは、黒い鳥達だった。
一見すると鴉のよう。
「……ああ、日中では人の形を取れぬのだったな」
アリアが普通の声量で呟くと、枝に留まっている黒い鳥の一匹がカァと鳴く。
「まあいい。聞きたい事がある。お前達、その力はどこで手に入れた? 本来のお前達は日中では鳥の形を取るのも難しかろうに」
そこでまた、鳥が鳴く。
アリアには分かるのだろう、その鳴き声を聞いて金髪の妖精の表情が曇った。
「故意に得た記憶は無い、なら近くにあって影響されただけ……?」
となると、目的の石の在り処を絞るのはまだ難しそうだ。
だが、
「お前達はいつ頃からここに居る。そして、いつ頃から力が強くなったのだ」
黒い鳥達は顔を見合わせながら、小さく鳴き合う。
まるで歌うような彼女達の会話を聞きながら、アリアは深く考え込む仕草を見せている。
常人には聞き取れぬその答えに、僅かでも推量の余地があったのかも知れない。
そして彼女は掲げていた剣を下ろし、敵意を沈静させた。
先程までの台詞を繋ぎ合わせるならば、少なくともアリアの探している石を吸血妖精達が持っているわけでは無いので、すぐに斬って奪うと言う流れにはならないのだろう。
アリアは困ったように眉を寄せて、周囲の木々に留まっている鳥達に微笑みかける。
「手に余る力を与えてしまってすまないな。私があれを奪われさえしなければ……この地でお前達が生き延びる事も無かったであろうに」
それは……どういう意味なのか。
ようやくアリアに追いついた穂摘は、理解出来ない感覚をまたしても彼女に感じていた。
不本意な場所で生き続ける事は、妖精達にとって望まぬ事で、死はむしろ解放である。
そうとも取れるアリアの言葉に、声を掛ける事が出来ない。
アリアは穂摘が追いついた事に気がついたようで、彼へ振り返り、言う。
「早く撮れ。あの鳥達が吸血妖精だ。この近辺を探せば遺体も出てくるであろう」
「あ、ああ」
どうやらアリアは穂摘を待っていたらしい。
言われるがままに胸元に下がっているカメラを手に取り、シャッターを押す。
すると、カメラからふわりと光が放たれ、機器の中で微かに音が聞こえてくる。
きっと先程の妖精が光景を描き映しているのだろう。
その様を確認したアリアは、穂摘から鳥達へとまた視線を戻し、改めて剣を自身の眼前に掲げた。
相手を尊重した上で、それでも臨む前に行う、騎士の祈り。
アリアの足が、一歩、前へと出される。
鳥達は逃げようともしていない。
いつもの事と言えばいつもの事。
斬られて逝く妖精達は、アリアにほぼ抵抗をしようとしないのである。
死もまた、一縷の望みであったかのように。
アリアの剣が風をも斬るような劈く音を立て、彼女の腕の動きのまま横に薙ぐ。
すると彼女が放った剣圧は、そこにあった木々を鳥ごと斬り倒した。
轟音が響き、ゆっくりと倒れていく太い幹。
斬られた鳥は灰となり、その幹が起こした砂煙に混じって区別がつかなくなってしまう。
「片腕を失ったとは思えぬ力ですねぇ」
そう言ったのはカメラ。
正確には、カメラの中の小さな妖精。
「おぬしも斬られてみるか?」
アリアの言葉に、カメラが首を振るように小さく揺れる。
「私は、人間社会の理でもうまく生きて行けます」
「そのようだな」
うまく生きて行けなければ、共存出来なければ……まるで死なせて貰うのも良し、と言わんばかりだ。
彼女達の『生きる』とは、どういう事なのか。
考えても穂摘には分からなかった。
その後、穂摘は上北に連絡をとり、数時間後には彼女の息の掛かった人間達が周辺捜索にあたり始める。
もしかすると半分くらいは上北同様に人間では無いのかも知れないが、彼らは穂摘の持っていたカメラの事情を知り得ているようで、それを受け取る事で全てを理解していた。
遺体は三体。
血を抜かれた男達の遺体を見てしまった穂摘は、その場から足が動かなくなってしまう。
一ヶ月半ほど害ある妖精を相手にして来ていたが、人の死には間接的にしか立ち会っていない。
だが、これがその裏にあった揺ぎ無い現実なのだ。
遺体から、元は街ですれ違いそうな普通の男達だった事が見て取れる。
それが妖精の手によって、この様な無残な姿へと変えられた。
ようやく真の意味で「現実」を受け止め始めた穂摘の反応に、アリアが問う。
「どうした、アラタ」
「……いや、流石にこういう死体を見るのは初めてだったから」
「怖いか?」
翠の瞳が、面白おかしそうに、歪んでいた。
心配している風では無く、穂摘の動揺を楽しんでいるように見える。
「本来吸血妖精は森から出ない。森に迷い込んだ人間が森に害為す前に、森に還す。そういう妖精なのだ」
「そうなのか?」
「ああ。だがな、今の世ではもうこやつらは不要であろう。いや、正確にはこやつらでは今の世の理を抱え切れない、と言ったほうが正しいか」
「よく……分からないな」
いや、本当は分かっているのだが、分かりたくないのかも知れない。
妖精に限った事では無く、人間は明らかに自然そのものと共存出来ていない。
妖精が人間と共存出来なくなったと言うよりも、人間だけがその理から外れているようにも取れるだろう。
けれどアリアは決してそうは言わない。
いつも、妖精でありながら人間寄りの言葉を投げ掛けて斬る節が彼女にはあった。
こんなにも力がある妖精なのに、どうしてなのだろうか。
穂摘の瞳に、疑問の色が揺らぐ。
そして、整える前の言葉が、不意に出てしまう。
「何でお前は、人間の味方をしているんだ?」
人間の世界を尊重しているような、上級妖精。
そう言えば、その点に関しては上北も同じだ。
低、中級の妖精達は溶け込めずにこうして排除される側となってしまうが、彼女達のような上級妖精は共存をしようとして、むしろそれが正しい選択かのように振舞っている。
人間に対して、妖精と自然の理を押し通そうとしていないのだ。
彼女達には彼女達の価値観があるが、それでも確かに人間への歩み寄りが見えた。
穂摘の疑問に、アリアが一瞬だけ不思議そうな顔を見せたが、すぐにそれは呆れたような笑いに変わる。
「人間の味方? アラタにはそう見えるのか」
「そうじゃないのか? 不本意にしろ結局やっている事は人間を助ける事だし、実際にそんな物言いで妖精を斬るじゃないか」
「表面上はそうかも知れぬ。だがそうでは無いぞ」
アリアは自分のTシャツの胸元の布を摘みながら、軽く伸ばした。
「服、すぐ着てやれなくてすまなかったな。素材が気になりはするが、デザインは嫌いではない」
「え? あ、ああ。別にいいけど。それ、お前が稼いだ金で買ったような物だし、裸じゃなければ僕は別にどうでも」
「アラタ、私はな、人間の味方をしようとしているわけでは無い」
きっとそこは訂正しておきたいのだろう。
彼女の視線は、真っ直ぐに穂摘を射抜いている。
穂摘も、彼女から視線を外せなくなってしまう。
今のアリアは一般人には視認出来ない状態の為、周囲で作業をしていた人間達が、動かなくなってしまった穂摘を不思議そうに見つめている。
とは言え、彼らは事情を知っているのだから、不思議には思ってもそこに妖精が居る事くらいは想像がついているのかも知れないが。
一息おいて、アリアは優しいのにどこか違和感を感じさせる笑顔をつくって見せた。
「今の私の心情が、たまたま人間に寄っているに過ぎぬのよ」
「そう、なのか」
確かに、心はうつろうもの。
特に経験次第で、考え方は変わって行く。
なら、この妖精が再び妖精側につき、人間に害を為す時が来るのか。
この、剣一振りで木々を薙ぎ倒すような桁違いの力を持った妖精が。
穂摘の不安を表情から見て取ったアリアは、そこで彼の肩を銀の手で叩いた。
「安心するがいい。私は、アラタを大事に思っておるぞ」
「……ああ、うん」
それは、事実なのだろう。
だが、いつ変わるか分からない気持ちなど……何の気休めにもならないのであった。
匂いと臭いは書き分けております。
アリアのものは匂い、アリア以外の妖精のものは臭いです。
どうでもいいかも知れませんが、一応補足しておきます。




