歯を砕き、縁を繋げ1
月も星も無い空は、闇夜と呼ぶに相応しい濡羽色だった。
街の明かりは少し遠い為に、不安定に点滅しているガス灯の心許無い光だけが頼りとなる港の一端。
そこで、青年が大きな黒い犬と対峙していた。
アッシュグレーのスーツに身を包んだ青年は、緊張を解すように襟を軽く整え、一見ドーベルマンに見える黒犬に対して突拍子も無い事を言う。
「えーっと、日本語、通じるか? 英語のほうがいいかな」
当然犬からの返事など返って来る事は無く、夜にも拘わらず不気味なほど凪いでいる海は、青年の独り言を無かった事にしてくれるような波音をさざめかせてはくれなかった。
代わりに、犬独特のリズムで発する息だけが青年の耳につく。
彼は俯いて溜め息を吐き、再び顔を上げる事で気持ちを改め、今度は少し強めに言い放つ。
「お前が殺しているんだろう?」
またしても青年は、誰かが聞いていたなら首を傾げる様な突飛な発言を犬に向けていた。
けれど先程とは違い、その台詞を受けて獣の息遣いがふっと収まる。
代わりに響く、別の音。
黒い犬はきりきりと不快な音を立てて自らの姿を別物へと変化させていき、最終的に人間の女の形になった。
だがその女は変化に失敗でもしたのか、首と繋がっていない自身の頭を、まるでボールのように手に持って佇立しているではないか。
胴体と頭が離れた状態でありながら平然と立つ化け物を眼鏡越しに捉え、青年は息を飲み、動揺を抑えながらも言葉を紡いだ。
「あとは誰が、死ぬ?」
彼の問いに、先程までは黒い犬だった女の目が見開かれる。
頭と首は繋がっていないが血など垂れるわけでもなく、通常通りの動作は出来るらしい。
大体において明らかに人間ではないのだから、人間の構造と同視する事が間違っているのだろう。
彼女は興味深そうに青年を見定め、胴体と離れた唇を動かし、静かに語った。
「不思議な人間だ。我の事を識った上で見ているのか。その勇気に免じて答えてやりたいところだが、それは出来ない」
「何でだ?」
「我は当分この場を離れる気が無い。つまり」
「答えられない数が死ぬ、って事か」
「その通りだ」
ふむ、と一考した後に青年は、犬女を視界の隅に留めつつ、近くに停泊されている船を見上げる。
とても大きく、仰々しい船だ。
いわゆる豪華客船と呼ばれる物で、先日からこの港で次の船旅の準備が行われている。
しかしその準備の最中、それは起こった。
クルーが次々に死んでいくのだ。
理由はそれぞれ急な病気や事故、疑う余地も無く、不審な点など見当たらない死因。
ただ、死んだ人々がその前日に「黒く大きな犬を見た」と言い残していたこと以外は。
――まるで何かの呪いのようだ。
海に関わる人間は、迷信を信じる者も多い。
半信半疑でありながらも、『報酬完全後払い』な青年のもとに依頼が届く。
そしてどう見ても一般的なサラリーマンといった風貌の青年は、その原因に辿り着き、こうして意思の疎通を図ろうとしているところだった。
「何故この船から離れる気が無いんだ?」
青年の問いは続いた。
犬女は青年に対して害意は無いようで、端が裂けた唇を素直に開く。
「約束を違えられたからだ」
「誰にだよ」
「名など知らん。だが一番最初にこの姿を晒してやった。とっくに何かしらの自然死に遭っているはずだ」
「一番最初の被害者……って事か。分かった」
犬女の言い分から察するに、この化け物は、姿を見せる事で相手に死を与える存在なのだろう。
ならば今現在この犬女と対峙している青年も、後日死ぬのか。
だが青年は、迫る死に怯えたような素振りは見せていない。
その理由ともなる意味を含んだ言葉を、犬女が放つ。
「お前はどうやら自身の意思で我を見ているようだから『死の影響』も無いだろう。今宵の愚問は無かった事にしてやる。去れ」
青年は、犬女に姿を「見せられている」のではなく、自ら「見ている」らしい。
その二つは、同じようで厳密には全く本質が違う。
とは言え、死なずに済んだところで青年は、この奇怪な存在に太刀打ち出来る武器を持っていない。
それは犬女にも見て取れた。
青年自身に、畏怖すべき力は感じ取れない。
故に見逃されているのである。
道端の石ころなど気にも留めないのと同じように。
事情を聞きに来ただけ……そう判断して犬女が会話を切り上げようとしたその瞬間、きゅるるるり、と言う音が小さくも絶対的な主張を以って港に鳴り響く。
何の音だ、と犬女が辺りを見渡すがそれらしき音の発生源は見当たらない。
なのに、
「そやつから匂いはせぬ。問い質す事自体が無意味なのだ、アラタ」
突然その声は、彼らの耳に聞こえてきた。
それまで犬女には捉える事の出来なかった存在が、急に目の前に落ちてくる。
声と共に疾して現れたのは、青年よりも少し背が低い、黒いローブの人物。
フードを深く被っておりこの宵闇で顔は見てとれぬものの、さらりとフードの隙間からこぼれている金髪は、長い。
アラタと呼ばれた眼鏡の青年は、この人物を見知っているらしい。
彼は犬女とは違って特に驚いた様子も無く、黒いローブを纏った第三者の声かけに応じた。
「確認しておかないと依頼主に報告出来ないだろ」
「ううむ、そうか。面倒なんだのう色々と」
黒いローブの人物は、異形の者など意に介せぬ素振りで青年の傍まで近寄る。
そして、ローブの裾からすらりと右腕を伸ばした。
その腕には衣服の代わりに銀色のガントレットが装着されており、手には煌びやかな長剣が握られている。
武器。明らかな害意を確認した犬女は頭部だけを黒い犬へと戻し、その犬の頭部は、投げられてもいないのに黒いローブの人物へと勢い良く飛んでいく。
大きく口を開いた犬の生首が黒いローブの人物に襲い掛かろうとするのが見え、青年の表情が引きつった。
「こら、やめるんだ!」
「やめたら私が食われるではないか」
青年の制止の言葉と、黒いローブの人物の拒絶が静かな港に響く。
どうやら青年の制止の言葉は襲い掛かる側である犬ではなく、仲間と見られる黒いローブの人物にあてられていたようだ。
次の瞬間。
犬の鋭い牙は目標である黒いローブの人物に届く事なく、長剣によって一刀両断される。
分断された犬の頭はごとりとその場に落ちて、この場に残っているのは平然と犬頭を斬り捨てた黒いローブの人物と、困ったように額に手を添えて表情を陰らせている青年の二人のみになった。
頭部を失った犬女の体は、さらさらと灰になって崩れていく。
それに続くように、頭部も。
ざざ、と突然潮風が戻ってきて、その灰を海へと還す。
呆気なく散った化け物へは特に同情の言葉などかけられる事も無く、剣によって「事情を知る存在」がぶった斬られてしまった現状に、青年が嘆く。
「あーもう、どうしていっつも逸るんだ……」
「アラタは回りくどいのだ。無関係な者はさっさと斬って、さっさと帰って、さっさと私に食事を寄越すほうが余程時間を有意義に使えているというものだろう」
「それだけじゃ依頼が解決した証明にならないって毎回言ってるよな?」
「目的のモノでは無かったのだから、別に良いではないか」
「食事代はどこから出てると思ってるんだ!」
連続死が止まった事で依頼を遂行したと認めて貰えるのならばいいのだが、報酬が後払いであるが故に踏み倒されることも珍しくは無い。
ならば先払いにすればいい、と思うかも知れないが、彼らのように非科学的な事件を請負う場合は先払いにしてしまうと依頼自体が来ない事のほうが多かった。
余程名の通った請負人ならば別だが、彼らはこの業界ではまだ新人の部類。
致し方ないのだ。
穂摘新。
それが先程から切実な悲鳴をあげている青年の名前である。
平日昼間は至って平凡なサラリーマン。
紳士服専門店のバーゲンで買った無難なスーツが板についている、華奢な眼鏡の似合う若人だ。
しかし彼にはもう一つの顔がある。
と言ってもその顔は一ヶ月ほど前に出来たばかりで、今宵は残業帰りにこの港へ立ち寄ってその裏の顔を見せていたのだった。
……彼らは、超常現象専門の解決請負屋だ。
しかも穂摘自身には大した能力も無く、ただ見て、話す事が出来るだけ。
退治をするのは黒いローブの人物の役目で、穂摘の役目は単に依頼を請け負う事。
真っ当なコミュニケーションが不得意そうな黒いローブの人物のかわりに会話を担当している。
黒い犬の生首女を退治したせいか港の空気の澱みは幾分か晴れており、ガス灯も、先程まで点滅していたのは見間違いだったのかと思うほどに今は煌々と輝いていた。
黒いローブの人物は剣と腕をまたローブの中へと仕舞い、黒いてるてる坊主のような格好で立ったまま、口を開く。
「のう、アラタ」
「ん? どうした、アリア」
アリアと言うらしい黒いローブの人物は、ふいとガス灯を見上げるように顔を上げる。
整っていて、それでいて目鼻立ちのはっきりとした西洋人特有の顔が灯りに照らされていた。
名前も、顔も、女性のもの。
アリアは翠の瞳の焦点を合わせずに薄く開いたまま、唇だけを動かす。
「あやつは最初に本懐を遂げていたのだろう? ならその後も人に姿を見せて殺し続ける必要は無かったような気がするぞ。いまいちやりたい事が分からない変な奴だったと思わぬか?」
「あのな……僕もそれは引っ掛かっていたし、だからそこまでをどうにか聞き出したかったんだよ!」
「何と! そうであったか!」
「取りあえず斬っとくかみたいなノリ、ほんとやめろよな!」
「すまぬ、アラタの残業のせいで私の腹は常に恥ずかしい音を立てているものでな」
「知らん、そんな事!」
謝罪が一切謝罪に聞こえない言い訳が繰り出され、そこで思い出したようにアリアの腹部からきゅるきゅると音が鳴り始めた。
「何はともあれ今夜のところは早急に夕餉の準備をお願いしたい」
「勝手に雑草でも食べてろよ……」
穂摘のぼやきが真意では無い事が分かっているアリアは、冗談として受け止めてケラケラと笑った。
「雑草ならば夕方に堪え切れなくなって僅かだが食したところだぞ」
「……そんなに腹が減るなら何か非常食でも持たせておこうか?」
「何を真面目に提案しておるのだ。嘘に決まっておろう」
「お前なら有り得そうなんだよ!」
事件は加害者と思われる化け物を抹消することで終わりを告げたが、終わっただけであって決してその裏に何があったのか、動機が明瞭になってはいない。
だが、彼らの相手取る存在は人間の思考の範疇を超え、人間の価値観で納得出来る結論が出ない事も珍しくは無い。
一先ず、今はこれで落ち着いたのだ。
仲の良いやり取りをかわす二人が、まず依頼完遂の報告をしなくてはいけない事を思い出すのは、この数分後の話だったらしい。
犬女を退治してから二日後、ピタリと死人が出なくなった事を受けて彼らの元には報酬が入金された。
業界内では安いほうに分類されるが一般的な職業の報酬とは比べ物にならない程の高額。
預金通帳を眺めながら穂摘が頬を緩ませ、それを静かに閉じて仕舞う。
「良い依頼者で助かったよ」
「有機栽培はこだわり過ぎないこだわりこそが、素晴らしい!」
全く成立していない会話を繰り広げているのは超常現象専門・解決請負人の二人。
市内でも賃貸料が高めに設定されていると思われる立地条件のマンションの五階、その一室で彼らは向かい合って鍋をつつき合っていた。
穂摘側には肉、アリア側には野菜。
鍋の中身は綺麗に分割されており、互いの領地を侵す事無く食べ進めている。
たまに、間にある豆腐の上で二人の箸が触れ合いそうになるくらいか。
特に別途よそうための箸は用意されていないことから、彼らの仲はそれなりに良好であることが伺えた。
そもそも、仲が悪い者同士で鍋をつつく事自体、あまりあるものでは無いのだが。
「見てみろアラタ、このリーキなどこんなに茹っても未だしっかり存在を主張しておる!」
「高いネギ買ったからな」
「そうかそうか、質の良い物は愛でて然るべきぞ」
和風のつゆが染み込んだネギを、何やら聞き慣れぬ名前で呼んでいるのはアリア。
口紅などつけていない、シェルピンクの綺麗な唇が流暢な日本語を紡ぎ出している。
彼女は先日と同様に黒いローブを纏っていて、箸を持つ右手には銀の籠手が装着されたままだったが、先日と違いフードだけは脱いでいた。
室内に似つかわしくない耳当て付きの帽子を被って、胸元まである長さの金髪を輪郭に沿った横髪だけ軽く編み、他の髪はそのまま真っ直ぐ下ろしている。
やはりどう見ても日本人のそれでは無い顔立ち。
日本人よりずっと薄い色素で形成されている彼女の肌は、首から上という狭い範囲から見えるものだけでも透明感があり、とても美しい。
対する穂摘も、日本人に見えなくは無いが、西洋人と言われても受け入れられる程度に、全体的に色素が薄い。
瞳もほんのりと琥珀のように見えるし、髪の毛は染めているのかも知れないが、こちらもやはり黒ではなくアンバーに近かった。
元々大きな鍋では無かったこともあり、二人は綺麗に中身を平らげる。
後片付けをしているのは穂摘で、アリアはと言うと、物の無くなったテーブルに頬を張り付けてテレビを観ていた。
室内は1LDKで、ベッドはシングルが一つのみ。
共に暮らしているわけでは無いようだが、まるで自分の部屋のようにくつろいでいる彼女を見たならば、恋人同士かも知れない、と周囲は思う……
「食べたならさっさと帰れよ」
ほど二人の雰囲気は甘いものでは無かった。
「そう急かすな。今良いところなのだ」
「んなこと知らん」
正解はコマーシャルの後で、と表示された直後に、テレビモニタは暗転する。
容赦なく電源を切られてしまったアリアは、それでもしつこく引き下がることはせず、渋々ながらも席を立つ。
ただ、帰路につく前にその表情を真面目なものに変えて。
「先の件だが」
「ん?」
「まだ調べておるのか?」
自然に揃えられた金色の前髪の下で、マラカイトグリーンの瞳が柔らかく瞬きする。
彼女の視線の先は、部屋に一つきりのデスクの上。
そこにはノートパソコンが置かれており、メーラーが起動していた。
最上部のウインドウには何やら英文がびっしりと詰まった受信メール。
「よく分からないままは気分が悪いから一応、だ」
「ふむ、原因と思われた人間の家族とのやり取りか」
「奥さんだよ。詳しい事が分かったらちゃんと相談する」
「正しい判断だな。アラタだけでは分かるまい」
「いちいちうるさいな」
去り際の挨拶など無い。
二人の会話はそこで終了し、アリアと言う名で呼ばれる黒いローブの人物は、フードを深く被り直して立ち去った。
一人になった穂摘の部屋は、しん、と静まりかえる。
少し経って耳が静寂に慣れてきた頃、立ち上がったままだったノートパソコンの機械音が彼にも聞こえるようになってきた。
自然と意識はそちらへ向く。
――例の犬女の化け物に最初に殺されたと思われる人物は日本人では無かった。
客船の調理スタッフで外国籍、家族も外国在住。
故にメールでのやり取りで穂摘は情報を掻き集めていた。
その中で被害者は少し気になる事を、遠く離れた地に暮らす妻に電話で洩らしている。
「夫は、とある少女を救ったと武勇伝を語っていた、か……」
黒犬の化け物の話では、一番最初に死んだ人物が黒犬との約束を「違えた」はずで、一連の事件の原因であると推察された。
そこに家族からの情報を加えると、とある少女を助ける事と引き換えに黒犬と約束をしたが、その約束が何らかの事情により「違えた」事になってしまった……と言った所だろうか。
一番最初の被害者となってしまった以上、自分の行いがその後どのように周囲に及んだかなどその男が知る由も無い。
少女を救う為のその末路は、自身も含めた何人もの突然死という天秤が全力で傾くようなもの……
穂摘には、その男がどこか哀れでならなかった。
穂摘は入浴後にその受信メールに謝辞の返信をし、今夜のところは休む事にした。
一応解決した依頼にあまり時間を使っているわけにもいかない。
縁の細い眼鏡を枕元に置いて、穂摘の意識は沈むように落ちる。
一方、先刻に穂摘の家を去ったアリアは、寝床に帰ることなく周囲を徘徊していた。
その体を例の黒いローブで頭まで覆い、黒いてるてる坊主のような、警察が通りかかれば即・職務質問されそうな外見で、だ。
それどころか、すれ違う人々が通報してしまいそうな勢いで怪しかった。
だが彼女とすれ違って振り向く者など居ない。
彼女に視線を合わせる者も居ない。
目的も無く夜の街を闊歩しているように見えるアリアだったが、しばらく進んだところでふと足を止める。
フードの下で、薄暗い中でも確かに美しさを示す唇が一文字に強く結ばれた。
何か思う事があるように、ファミリーレストランの中をガラス越しに覗いている。
まさかもう小腹が空いたのか、それは定かではないがとにかくその場に彼女は立ち尽くす。
そのレストランの中では数名の客が談笑し、ウエイトレスが忙しなく働いていた。
客は窓の外の不審者なアリアには目を向けようとしなかったが、ふと一人のウエイトレスだけが彼女を見留めたような仕草を見せる。
覗いていたアリアは慌ててその場から立ち去り、ファミリーレストランが見えなくなるくらいまで離れたところでようやく足を出す速さを通常に戻した。
そのまま彼女は賑やかな街並みから離れ、その途中で、
「頼んだぞ」
誰も居ないのに誰かと会話でもしているかのような独り言を宙に向かって呟き、途端に彼女の周囲に風が吹き荒れる。
返事をする者は見当たらないが、もし誰かがその様を見ていたのなら、ざわざわと街路樹が葉を掻き鳴らして彼女に応えているようだった。
この物語は現代日本が舞台ですが、三種のケルト神話を統合&改変して物語に組み込んでおります。
本来のケルト神話との相違点などが少々ありますが、それらは全て作品上の仕様となります。ご了承ください。