フィリピンへ
黒木大輝は物音を聞いた。
窓ガラスをとんとんとんとんと、何かが叩いていた。
はっと顔を上げ、腰を浮かせ――――手元の書物が滑り落ちた。それから――何だ、雨か。
大輝はほっとする。誰かが叩いていたら、それはそれで恐ろしいな。ここは2階だ。書物に戻る前に、電気スタンドに手を伸ばして、灯りをつけた。
スタンドの光が大輝の顔を照らした。大輝は縁なし眼鏡を掛け、書物を読み始めた。
まったく、それは素晴らしい書物だった。時間の経過が、まるで分からなかったのも不思議ではないくらいだ。『クトゥルフ神話』。ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの描いた小説世界をもとに、ラヴクラフトの友人である作家オーガスト・ダーレス等の間で、架空の神々や地名や書物等の固有の名称の貸し借りによって作り上げられた、架空の神話体系のこと。
心理学者の友人が言ったことある。人は生命の危機にあうような恐怖は感じたくないが、絶対安全な恐怖にはあいたがるものだと。
まったくその通りだ!俺もその中の1人だ!。絶対安全な恐怖を味わうため、俺は店の棚から宇宙的恐怖、すなわち『クトゥルフ神話』に手を伸ばした。ラグクラフトは天才だよ!あの発想はどこから来ることやら。
大輝は『クトゥルフ神話』を本棚に戻すと、今度はヴィクトル・W・フォン・ハーゲン著『インカ帝国』に手を伸ばし、お気に入りのページを開いた。そして読んだ。
この踊りに合わせて打ち鳴らされる打楽器演奏には、ふつう、敵の戦士の死体で作った太鼓が用いられる。皮膚が剥がされ、腹部が太鼓の役をするようにぴんと張られると、身体全体が一種のサウンド・ボックスの働きをして律動する音は、その開いた口から流れ出るというわけである。グロテスクではあるが、きわめて効果的である。
大輝は微笑して読み直した。グロテスクだが、効果的、か……まったくだ! 確かに、そうだったに違いない!人間の皮を、それも、恐らく生きたまま剥ぎ取って、太鼓にするなど、古代人の発想力は恐れ入る。そもそもこんな考えを出すなんて、どんな心理だろうか?
大輝は煙草を一服吸った。煙草を吸うと、体がのびのびした。これもニコチンの力か?あるいは、それ以外か……
鹿の頭の剥製が、大輝を覗いていた。
「何だ?何か質問あるか?」
大輝は煙草を銜えたまま、鹿の頭をまじまじと見ていた。この剥製ともお別れだ。彼は吐息をつくと本を閉じた。母さんはあの剥製が嫌いだったが、どこが嫌なのだろう?逞しく、力強いじゃないか?
荷物がまとまった大型のスーツケースを持つと、愛犬のサムを呼んだ。サムは尻尾を振りながら、やって来た。
大輝は待ち合わせ場所に向かった。そこは、自家用ジェット機があった滑走路だ。
「やあ、黒木君」イタリア語が聞こえた。
カルロ・アリギエーリがやって来た。白髪染まりのオールバックの髪形をし、顎を引き締め、黒いコートを着ていた。
それにしても、黒木だとは、何とも、まあ、素晴らしいセンスだ。
「こんにちは」イタリア語で返した。
「久しぶりだな。準備は?」
「出来ています」
自家用機の扉が開いた。
「さあ乗って。素晴らしい旅行の始まりだ」
素晴らしい旅行……古代遺跡が見れるのはいいが、場所がフィリピンなのは不満であった。
自家用機の中は、一般航空機とたいそう変わりないが、少し狭かった。だが、椅子の心地よさはこちらが上だ。大輝は右側の一番前に座った。その隣にカルロが座った。
「他に誰がいらっしゃいますか?」大輝は尋ねた。
「大勢だ。考古学発掘隊は先にフィリピンに居る」
「そんなに発掘隊が居るのですか?」
「実を言うと、大半は傭兵が占めている」
大輝は軽くうなずいたが、心底驚いていた。彼の傭兵のイメージは、屈強な体つきをしている野蛮な連中だ。
「傭兵を雇ったんですか?」
「アジアは信用できないからな」
確かにそうだ。フィリピンでビートルズが暴行を受けたことがあった。原因は、その時の首相がフィリピンでライブをしていたビートルズにパーティーの招待をしたが、これを断られたため、首相夫人が怒ってマスコミに「勝手にすっぽかされた」などと嘘をついたそうだったな。
「どんな傭兵がいらっしゃいますか?」
「ベテランばかりだ。忠誠心は無いがな」
スイス衛兵隊を雇いたいもんだ。バチカンの衛兵で、忠誠心は世界一だ。素晴らしい衛兵だ。
「スイス衛兵隊を雇ってみたいですね」
「なぜだ?」
「傭兵は金さえ払えば働いてくれる肉体派の連中ですからね」
カルロは満足げにうなずいた。「確かに。君とは完全に理解し合えると思うよ、ミスター・ブラックツリー」
大輝はそう思えなかった。理解しあいたいなら、まずはブラックツリーはやめろ。