百獣の王の死
ある事件より12年前
風がすすり泣くように音を立てながら、海を渡っていた。
ライオンは走っていた。追手よりも速く。ライオンは追手よりはるかに強く、敏捷で、凶暴である。単独で狩りをしても、自分より体格の大きい獲物を倒したこともあった。
追手は走っていた。ライオンよりも遅い。追手は獲物よりはるかに弱く、小さく、簡単に死ぬ。だが、ライオンよりも狂暴だった。
ライオンはこれまで、多くの獲物を殺したことがある。自分の縄張りを荒らした動物を八つ裂きにしたこともある。
だが、今回は違う。
ライオンの堂々とした狩り、外見は百獣の王にふさわしかっただろう。
だが、今回は違う。
野生の雌ライオンは、野性的本能で生命の危機を感じていた。
自分を追う者は、自分よりもはるかに弱い。
だが、今回は違う。
その鋭い爪は獲物の体を引き裂くことが出来る。その鋭い牙は獲物の体を噛み砕くことが出来る。その鋭い嗅覚は獲物を逃すことはない。
だが、今回は違う。
今回は追手が狩人であり、自分が獲物だ。
本来なら、敵を自分の生まれつきの武器で殺すことが出来る。
だが、今回は違う。
自分の野生で鍛えられた本能と危機管理力が、敵と戦ってはならないと語っている。
ただ、今回はひたすら逃げろ、体が脳にそう訴えかけた。
脳は逃げることを選択した。
ライオンは走り続けた。追手が追跡を中断するのを待った。
だが、追手は追跡し続けた。
ライオンはこれほど恐怖と屈辱を感じたことがない。
強者が弱者に逃げるなどと―――
ライオンは立ち止まった。
目の前は、深い崖が広がっていた。
引き返そうと振り向いた瞬間、追手はすぐ近くに居た。
追手はうなり声を発した。
ライオンは、死を覚悟した。
追手は人間だった。
そしてライオンは見た。
人間の目は赤かった―――