第七話 すれ違いの行方
※本話には、痛みを伴う身体変化の描写があります。
雨が降っていた。
夜になっても、ルナたちは帰ってこなかった。
どうやら、苦戦しているらしい。
兵士が入れ替わり立ち替わり、城に戻ってくる。
戻ってきた兵士たちは、ひどい怪我を負っていたり、
中には、そのまま動かなくなった者もいた。
俺は、漂ってくる戦いの血の匂いに、
どうしても震えが止まらなかった。
話したことのある兵士も、たくさんいた。
気さくに話しかけてくれて、
食堂で顔を合わせれば、くだらない冗談を言って笑っていた。
ついさっきまで、
普通に、生きていたはずのやつらだ。
魔族だとか、人間だとか、
そんなの関係なく――
俺にとっては、もう“城の仲間”だった。
それなのに、俺はここで、
ただ震えて、立っていることしかできない。
俺は、本当に役に立たない……
スラ様が言っていた言葉が、頭から離れない。
――俺が、出来ること。
考えて、考えて。
今の俺に出来ることは、それしかなかった。
料理だ。
戦って帰ってくるみんなに、
せめて温かいものを食べさせたい。
俺は料理長に頼み、
自分の指示で大量の夜食を作ることにした。
怪我人も多い。
胃に優しいもの……軽めの雑炊がいい。
米に、鳥のダシ。
溶いた卵を回し入れて、最後にネギを散らす。
魔法のかかった保温容器に雑炊を詰め、
城の玄関ホールへと運び込んだ。
水と、薬。
それから、即席の担架も用意する。
――やれることは、やった。
それでも、胸のざわつきは消えない。
ルナちゃんは、大丈夫だろうか。
リリスは……。
……ヴァルガは、外出中だって言ってたから。
大丈夫、だよな。
もし戦闘に参加していたとしても、
あいつは魔王だ。
俺があの化け物に襲われた時だって、
一撃で倒していた。
きっと、大丈夫……。
――バン!
扉が勢いよく開いた。
そこにいたリリスと、
兵士に担がれて運ばれてきたのは――
「……ヴァル、ガ……」
黒い粘液に汚れた体。
固く閉じられた瞳。
雨に濡れて、顔色は青白く、
生気が感じられない。
リリスの肩に乗ったスラ様が、兵士に命じた。
「早く、お部屋へ……」
兵士たちはそのまま、
ヴァルガを担いで足早に走り去っていく。
「ど、どうして……!
ヴァルガは、外出中だったんじゃ……」
「あー……途中で帰ってきまして……
参戦してましたの」
リリスはこめかみを揉みながら答えた。
「リリス!
ヴァルガは、大丈夫なのか!?」
胸ぐらを掴む勢いで詰め寄ると、
彼女は困ったように笑う。
「大丈夫ですわ。
化け物にやられた傷なんて、大したことありません」
「それよりも……うーん、
どう言えばいいのかしら……」
一人でぶつぶつと考え込み、
「あ、そうだわ!
持病! 持病で倒れたんですわ!」
「持病……!?
ヴァルガ、病気なのか……!?」
スラ様が、リリスの頬を軽く小突いた。
「馬鹿者。
番様が、余計な心配をするだろう……」
「だ、だって……
もう、めんどくさいんですよ……」
二人が小声で何か話しているが、
内容は耳に入らない。
それよりも、
頭の中はヴァルガのことでいっぱいだった。
「俺……ヴァルガのところに行ってくる……」
「番様」
スラ様が、こほんと咳払いをして、俺を見る。
「魔王様は大丈夫です。
今は、まだ」
「“くれぐれも使用を控えるように”
そう、お伝えください」
――使用?
意味は分からない。
それでも、じっとしていられなくて、
俺は廊下を駆け出した。
***
ヴァルガの部屋、初めて来たな……。
ドアの前で、俺は一瞬だけ立ち止まる。
ノブに手をかけるまでに、妙に時間がかかった。
ガチャリ。
扉の向こうは、想像していたよりもずっと静かだった。
部屋の中は、広さにそぐわないほど簡素で、飾り気がない。
俺に用意された部屋のほうが、よほど豪華な気がして、少し拍子抜けした。
中央に置かれた大きなベッド。
その上に、ヴァルガは横たわっていた。
汚れていた衣服はすでに取り替えられていて、
銀色の髪だけが、枕に広がっている。
そっと近づき、顔を覗き込む。
長いまつ毛に縁取られた瞳は、固く閉じられていた。
形の良い唇から、浅く、規則正しい呼吸が漏れている。
久々に、ヴァルガの顔、ちゃんと見たな……
指先で、そっと息の流れを確かめて——
胸の奥に溜まっていたものが、ようやく吐き出せた。
……生きてる。
「驚かすなよ……もう……」
思わず、声が零れる。
言えた義理かよ。
心の中で、すぐに自分に突っ込んだ。
俺も、この前、
同じようにヴァルガを心配させていたくせに。
起こさないように、手を握った。
少し、冷たい。
思わず両手で包んだ。
病気だなんて、知らなかった。
それを思うと胸が苦しくなった。
どんな病気なんだろう。
気を失うって、相当やばいんじゃないのか……
熱を、分けてやりたい。
そう思って、手をさする。
そのうち、ぎゅっとヴァルガの指が俺の指に絡みついた。
感触を確かめるように、何度も指を這わせてくる。
「え……?」
顔をあげると、ヴァルガが驚いた瞳でこちらを見ていた。
「晴斗……何を……」
「あ……」
自分から拒否してたくせに、
今さらこんなふうに触れるなんて――
自分の中の想いが、急に恥ずかしくなった。
思わず、振り払うように手を引っ込めた。
パン、と部屋に乾いた音が響く。
「あっ……ごめん……俺……」
ヴァルガの方を向くと、赤い瞳から、ぽたりと一粒、涙がこぼれ落ちた。
「えっ……ヴァル──」
「……そんなに、俺に触れられたくないか……」
「ちがっ……俺から……!」
言葉が、うまく続かなかった。
ヴァルガは目を閉じ、苦しそうに息を吐く。
そして、ゆっくりと目を開いた。
その口元には、どこか納得したような、諦めにも似た笑みが浮かんでいた。
「……分かっている」
低く、静かな声。
「俺のままじゃ……だめなんだろう」
胸元に、そっと手をやる。
そこには、ルナと同じ赤い石の首飾りがあった。
「……あの姿なら、
触ってもいいだろう?」
「え……それ……」
次の瞬間――
その手の中の赤い石が鈍く光る。
何かが、体の奥で砕けるような音がした。
ゴキ、メキ。
耳に直接響く、不快な音。
それは一度きりじゃなく、何度も、何度も繰り返される。
ヴァルガの体が、内側から波打つように震える。
筋肉が引き攣り、皮膚の下で何かが無理やり形を変えているのが、はっきりと分かった。
「ぐっ……あ……」
喉を潰すように押し殺された声。
歯を食いしばり、息を殺して、痛みに耐えている。
「ヴァルガ!!」
胸が締めつけられる。
これが、持病……?
考えるより先に、体が動いた。
とにかく人を呼ばなければ――
踵を返した、その瞬間。
腕を、逃がさないと言わんばかりに強く掴まれた。
「……ここで」
掠れきった声。
「……見てろ……」
骨が、また軋む。
今度は、はっきりと形が変わる音だった。
ヴァルガの体は、その音に合わせて、少しずつ縮んでいく。
肩幅が狭まり、腕が細くなり、
服の中で体が余るようにずれていく。
苦しむ姿を見たくなくて、思わず目を逸らしそうになる。
そのたびに、掴まれた腕に力がこもり、
逃げ場を塞ぐように、さらに強く引き寄せられた。
やがて、収縮が止まる。
荒い呼吸だけが、部屋に残った。
ヴァルガが、ゆっくりと顔を上げる。
その視線は、少し低い位置から、俺を見上げていた。
「……ルナ、ちゃん……?」
そこにいたのは、
さっきまでのヴァルガとは、違う姿だった。
思考が追いつかない。
ありえないはずの光景を、さっきまでこの目で見ていた。
これは――
この子は、間違いなくヴァルガだ。
「ほら……」
ルナ――ヴァルガは、震える指先で俺の手を取った。
逃げる間も与えず、そのまま自分の胸元へと導く。
「……っ」
衣服越しに伝わってきたのは、
信じられないほど、やわらかな感触だった。
温かくて、指が沈む。
形が、歪に変わる。
ヴァルガがルナの声で、囁く。
「……女の、体だ……」
「ヴァルガ……お前……」
ヴァルガは小さく息を吐き、
それでも俺の手を離そうとしない。
「これで……もう……」
赤い瞳が、まっすぐにこちらを見る。
「触れても、いいだろう?」
そう言って、俺の顎を掴み、噛みつくようにキスをする。
小さな口。小さな舌。
この前と、何もかもが違う。
女の体になっても、掴む力だけは異様に強かった。
振り解こうとしても、必死に縋りつく腕が離れない。
――俺が、男は無理だって言ったから?
だから、変身したのか?
こんなの、おかしい。
そっくりな顔で、体だけが違う。
こんなこと、俺は望んでない――
……じゃあ。
俺は、
何を望んでる──?
いつの間にか、ベッドに押し倒されていた。
シャツの中に小さな手が滑り込み、胸元をなぞる。
優しく撫でられただけなのに、反射的に体が跳ねた。
いつの間にか、顔が近い。
耳元で、囁く声。
「ああ、やはり……」
「これだったら……吐かない……」
見下ろしてくる赤い瞳が、どこか悲しそうに笑っていた。
「ヴァルガ……こんなの、違う……」
「違くていい」
掠れた声。
「女でいいから……
お前と、触れ合いたい……」
そう言って、ヴァルガは自分の腰に、俺の手を当てさせた。
「お前も……この体を……」
「好きにしていいから……」
「違うんだってば!!」
気づけば、叫んでいた。
「はる、と……」
驚いたように名前を呼ばれる。
「俺、多分……
お前のこと……」
「好き、なんだと思う……」
一瞬の沈黙。
「……は……?」
ヴァルガの喉が、かすかに鳴る。
「同情したのか……?」
「違う」
即座に、否定した。
「ただ、今、気づいて……」
「まだ、頭が追いついてない」
「男だとか、女だとか……正直、ぐちゃぐちゃだ」
「でも……お前が、お前じゃなくなるのは……嫌だ」
「それだけは、はっきりしてる」
やがて、ヴァルガの手が俺の頬を包んだ。
その指先は、はっきりと震えている。
「……晴斗……」
「じゃあ、俺は……」
「お前を、諦めなくていいのか……?」
掠れた声で、縋るように続ける。
「体だけでも……繋ぎ止めたくて……」
「こんな、ことまで……してしまったのに……」
「ごめん……」
「気づくのが、遅くて……」
言葉を絞り出すより早く、
ヴァルガの瞳から、ぽたりぽたりと涙が零れ落ちた。
「晴斗……好きだ……」
次の瞬間、
糸の切れた人形みたいに、ヴァルガの体が俺の上に崩れ落ちる。
「ヴァルガ!?」
抱き留めた体は、燃えるように熱かった。
浅く、苦しそうな呼吸を繰り返している。
「だ……」
喉が張りついて、声がうまく出ない。
「誰か──」
ヴァルガの生気のない顔を見た瞬間、
頭の中が真っ白になった。
考えるより先に、
俺は無我夢中で叫んでいた。
***
「まったく、無理をなさる」
リリスの肩に乗ったスラ様が、小さく体を揺らして首を振った。
「だから、あれほど釘を刺しましたのに……」
ヴァルガは今、あの赤い石の首飾りを取り上げられ、本来の姿に戻ったまま、深く眠っていた。
城の玄関ホールで、スラ様が言っていた言葉。
――
「“くれぐれも使用を控えるように”
そう、お伝えください」
あれは、この首飾りのことだったんだ。
ヴァルガは、短い間に何度も変身を繰り返したせいで、体に無理がきてしまったらしい。
「……どのくらいで治るか、わからないんですか」
俺の問いに、スラ様は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……なんとも言えませんな」
「しかし番様、魔王様はお強い。きっと、すぐに元気なお顔を見せてくれましょう」
そう言いながら、スラ様は赤い石へと視線を落とす。
「……それは、一体、なんなんですか?」
あんなふうに、体そのものを捻じ曲げてしまうものが、どうしても不気味に思えた。
「これは、遥か昔の代の魔王がお作りになった魔道具です」
「性別を……無理やり、変えてしまうなんて……」
俺の言葉に、スラ様はわずかに沈黙した。
「……貴方にも、これが――」
「え?」
思わず聞き返すと、スラ様はすぐに首を振った。
「いえ。なんでもありません」
「やはりこれは、スラが預かっておきましょう」
赤い石は、静かにスラ様の手の中へと消えた。
「──それにしても」
「お強い魔王様だからこそ、何度も変化できたのです。この程度で済んで、本当によかった」
俺は、眠るヴァルガのほうを見た。
「……もう、そんなの……使わせません」
「俺が、絶対に」
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
リリスはその様子を見て、ふっと息を吐くように笑った。
「やっと、ご自分の想いが見えたのね。よかった」
そう言って、リリスとスラ様は部屋を後にした。
残されたのは、俺とヴァルガだけ。
あんなふうに苦しんでまで、女になって、俺に会いに来た。
その気持ちが、胸の奥に、重く、確かに残っている。
俺はそっと、ヴァルガの髪を一房すくい上げた。
指先に触れるその感触が、あまりにも静かで。
そのまま、唇を落とす。
――もう、傷つけたくない。
心の底から、そう思った。
***
森の手前で、足を止めた。
黒々と生い茂る木々は、奥へ進むほど光を飲み込み、
ただそこに立っているだけで、じわりと肌を圧迫してくる。
ここから先は、人間の踏み込む場所ではない。
レオンは一歩前に出て、奏を制するように静かに言った。
「俺はここまでです。奏様。普通の人間は森には入れませんので」
足元の土を見つめながら、奏は小さく息を吐く。
「本当に、晴斗は魔王城にいるのかな……」
声には、迷いと不安が滲んでいた。
それでも、引き返そうという意思は感じられない。
レオンは視線を逸らさず、淡々と答える。
「奏様、あの占い師の言ったことを信じるしかありませんよ」
占い師。
顔も名前も思い出せない、曖昧な存在。
けれど今は、その言葉に縋るしかなかった。
「魔王に、酷い目に遭わされてたら……」
奏の拳が、無意識に握りしめられる。
胸の奥に、焦りと怒りが混じった感情が渦巻いていた。
レオンは、そんな奏の肩にそっと手を乗せた。
「早く助けに行ってやりましょう。
これが終われば、あなたたちは元の世界に帰れる」
奏は目を閉じた。
「……そうだな。早く……」
奏は顔を上げ、森の奥を見据える。
「魔王を殺さないと──」




