第四話 居場所
※第四話はやや重めの描写があります。
苦手な方はご注意ください。
部屋に戻ると、ほとんど間を置かずに部屋の奥の浴室へ向かうよう促された。
今まで、ヴァルガが体を洗いたがっても、俺は必死に断ってきた。
それなのに今日は、拒否の言葉がうまく出てこない。
城へ戻る道中、ヴァルガはずっと黙っていた。
怒っている――そう思わせるには十分な沈黙だった。
浴室に入る前、ヴァルガは無言のまま自分の服を脱いでいく。
布が床に落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
俺は視線を逸らし、ぎこちなくシャツのボタンに手をかける。
だが、指先が思うように動かない。
森での恐怖が、まだ体の奥に残っていた。
「……っ」
化け物の体液で気持ち悪い。
少し休んでから入ろう――そう思って諦めかけた、その時。
ヴァルガの手が伸びてきて、俺の代わりにボタンを外していく。
俺は何も言えず、ただ俯いたままでいた。
***
湯船に浸かりながら、俺は小さく体を縮めていた。
さっき、体の汚れを落とす間も、ヴァルガは必要以上に触れないよう気を遣っていた。
それが逆に、あいつの沈められた怒りを感じさせた。
ヴァルガは、ずっと黙っている。
そのせいで、魔王だと知ってしまったことも、
逃げ出したことも――
何も、口にできずにいた。
怒っている。
それだけは、はっきり分かる。
これまで、ヴァルガから好意以外を向けられたことがなかった。
だから、どう振る舞えばいいのか分からない。
別に、嫌われていい。
むしろ、その方が楽なはずなのに。
胸の奥に溜まったもやもやが、消えてくれなかった。
居た堪れなくなって、俺は立ち上がろうとした。
「……俺、もう、出る」
湯船に手をかけた瞬間、腰に腕が回され、静かに引き戻される。
「まだ、温まっていない」
後ろから抱き留められ、身動きが取れない。
「……お、おい……」
俺も小柄なほうじゃないのに、ヴァルガに抱きしめられるとすっぽり包まれてしまう。
その力は強いのに、決して乱暴ではなかった。
それでも、背後に漂う重たい気配は消えていない。
怒っているのに、優しくしようとしている。
その矛盾が、余計に息苦しかった。
「……あの、ヴァルガ。ごめん。俺、逃げて……」
言葉にした途端、自分でもおかしくなる。
誘拐して、閉じ込めていたのは、こいつなのに。
しばらくして、低い声が落ちてきた。
「お前の声が森に響いた時、どれだけ恐ろしかったか……」
「傷ついているかもしれないと思って、生きた心地がしなかった」
湯気の向こうで、ヴァルガの声が僅かに震えている。
どうしていいかわからず、後ろから抱きしめる腕にそっと触れた。
「あの、心配かけて……ほんとに、ごめ──」
触れた手を握られる。
指と指を絡められ、振り解くことができない。
「怖がらせたくなくて、触れたい気持ちを、ずっと抑えてきた」
「初めて会った時、お前は泣いたから……」
「ヴァルガ……」
「……だが、逃げられるくらいなら」
腕に、わずかに力がこもった。
「最初から、奪っておくべきだったのかもしれない」
「……え?」
振り返ると、赤い瞳がこちらを射抜いていた。
そこには、抑えきれない感情が滲んでいる。
「もう、遠慮はしない」
「ヴァルガ……ちょっ……」
静止の声も聞かず、強く口を塞がれる。
息を奪われ、思考が追いつかない。
苦しくて胸を叩いても、力は緩まない。
湯船のお湯が大きく揺れ、水音が耳に残る。
何が起きているのか、感覚が曖昧になっていった。
やっと解放された時には、俺は息も切れ切れで、
ヴァルガの胸にもたれかかり、必死に呼吸を整えていた。
耳元に顔を寄せられ、意図しない距離の近さに、喉の奥から抑えきれない音が漏れる。
「晴斗……」
ヴァルガは離れきらないまま、何度も名前を呼ぶ。
その度、吐息がかかり、体がびくりと反応してしまう。
いつのまにか、大きな手が腹に触れていた。
お湯の中でも、その存在だけがやけに生々しい。
「……う、あ……やめ……!」
全身が、ぞわりと粟立つ。
ヴァルガはいい奴だった。
惜しみなく向けられる気持ちに、
胸がむず痒くなることもあった。
でも──やっぱり無理だ。
俺には、男をそんなふうに思えない。
胃の奥がひくりと跳ね上がり、俺は涙ぐんだ。
喉元から、奇妙な音が漏れる。
「……ぐっ……え……」
その音に、ヴァルガははっとして、
すぐさま俺の背中をさする。
朝から、何も口にしていない。
出るものなんて、何もないはずなのに。
それでも苦しくて、何度も咳き込んだ。
ようやく落ち着いた頃、
ヴァルガが俺の顔を覗き込んでいることに気づく。
「晴斗……」
覗き込む瞳が、大きく揺れる。
「吐くほど……俺が、嫌いか……」
みるみる、褐色の肌から血の気が引いていくのが分かった。
傷つけてる……
俺はその視線を受け止めきれず、顔を背けた。
「違う……」
「お前が、とかじゃなくて……」
言葉が、途切れ途切れになる。
「……男なのが、無理なんだ……」
「お前は気にしなくても、俺は違うんだよ……」
涙が、勝手にこぼれ落ちた。
なんの涙なのか、自分でも分からない。
ただ、止まらなかった。
***
あれから、ヴァルガはこの部屋に来なくなった。
いつの間にか、部屋の鍵もかけられなくなっていた。
——逃げようと思えば、きっと今は出られる。
それでも、
俺はここにいる。
元の世界に帰る方法も、わからない。
元々、身寄りもない。
俺がいなくなって、寂しがる奴なんて、いない。
元の世界でも、この世界でも……
食事は一日三度、下級魔族が運んでくる。
そいつらは俺の顔を見ようともしないまま、最低限のことだけ言って、すぐに出ていく。
一人で食事をしていると、どうしようもなく寂しくなる。
前はあんなに美味かったはずの料理が、今はひどく味気ない。
ヴァルガの声が、ふと頭に浮かぶ。
「これ、気に入ったか? 明日から毎日取り入れよう」
「お前ととる食事は、何にも勝る馳走だ」
俺は、手にしていたスプーンをそっと置いた。
あいつの好意を受け取れないって、はっきり言った。
だから、ヴァルガは来なくなった。
自分が望んだことのはずなのに、
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いた気がした。
部屋を見渡す。
監禁されているとは思えないほど豪華な部屋。
外に出られない俺を退屈させないために用意された、数え切れない娯楽。
この部屋でできることは、ほとんど全部、揃えられている。
机の上に置かれたカードを、指先で持ち上げる。
一緒にやった時は、俺の圧勝だったっけ。
「……一人で、どうすんだよ……」
ぽつりとつぶやいた言葉は、広い部屋に響いて、
答えのないまま、消えていった。
***
俺は、廊下を歩いていた。
単純に、
魔王城って、どんなところなんだろうって思っただけだ。
豪華な城の中で、魔族たちが働いている。
掃除をして、料理をして、洗濯をして――
やっていることは、ほとんど人間と変わらない。
仕事の合間に、雑談までしている。
その“普通さ”に、俺は少しだけ戸惑った。
モンスターって、
もっと、悪者みたいな存在だと思っていたから。
俺がそばを通ると、
彼らは軽く会釈をしてくる。
敵意は、感じなかった。
……魔王の番、だと思われているのかもしれない。
どこを歩いても、
ヴァルガの姿はなかった。
気づけば、俺は王の間と呼ばれている場所に立っていた。
がらんとした広い空間。
中央に置かれた、ひとつの玉座。
それを眺めて、
俺は、思わず小さく笑ってしまった。
――俺、何やってるんだろう。
会えたとして、
どうするつもりだったんだ。
何を話せばいい?
お前の気持ちには応えられないけど、
それでも、そばにいてくれ――?
そんなこと、言える立場じゃない。
今だって、
ここに置いてもらっているだけだ。
タダ飯を食って、
何の役にも立たずに。
俺は、深く息を吐いた。
……何か。
俺に、できること。
それを見つけないと、
ここにいちゃいけない。
そんな気がした。




