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第十三話 月下の逡巡

「逃げよう」


奏の声に、抱きしめていた腕を解いた。


「え、どこに……」


言いかけて、自分でも驚く。


そうだ。リヴェルトだ。

俺たちはあそこで召喚された。


奏が俺を探しに来て、何をするつもりだったのか。

考えていなかったわけじゃない。けれど、こうして面と向かって言われると、急に現実味を帯びる。


奏は当然、帰るつもりなんだ。あの人間の国に。


あまり良い思い出もない場所に。


思い浮かぶのは、魔族のみんなの顔だった。


気さくな兵士たち。

優しくて、仕事に厳しい料理長。

にこにこと笑う子供たち。


魔王城という言葉から想像していたものが、どれだけ偏っていたか、ここで暮らして思い知った。


そして――ヴァルガ。


もし、このまま奏と逃げたら、

今のまま、あいつと離れることになる。


それは、嫌だ。


でも。


このままずっと、ぎくしゃくしたままだったら?


そのときは、リヴェルトに帰る方がいいのか。


わからない。


考えがまとまらない。

よく考えたいのに、目の前には奏がいる。


ヴァルガの敵で、俺の幼馴染の──


「とりあえず、お前ここで待ってろ」


隠れられそうな、大きな木の空洞を指差す。


「晴斗は?晴斗はどうするんだ?」


「俺は一度、城に戻る。食えるもの持ってくる」


「でも危険だろ? それよりもこのまま逃げよう!」


「違う。良い人ばかりなんだ。良くしてもらってる」


「そんなわけない」


即答だった。


「晴斗、こんなところで普通にしてるなんて、おかしいよ」


憐れむような表情。


「だって、魔族だろ?」


奏の声が、掠れている。

両腕をぎゅっと掴まれた。

その手は小刻みに震えていて、奏の不安が伝わってくる。


「今は、使命とか、元の世界のこととか、どうでもいい」


「心配なんだ……晴斗……お前のこと」


「何もされてないわけない。……変な術とか、かけられてるんじゃないか?」


洗脳、と言いかけて、奏は唇を噛んだ。


「違う。全部が全部、敵ってわけじゃない」


「……それがほんとなら」


「魔族が良い人ばかりなら、俺が堂々と城に入っても大丈夫なはずじゃないか」


その言葉に、言い返せなかった。


確かに、魔王城で穏やかに暮らしている自分は、外から見れば異常だと思う。


はじまりは誘拐だった。

でも、今は違う。

自分で選んでここにいる。


それだけは、本当だ。


俺が“番”だということを言えれば、少しは違うのかもしれない。


でも、それを口にするのは、躊躇われた。


なんて言われるか、考えると──怖くて。


「とにかく」


掴まれた腕を振り解き、無理やり話を切る。


「森の広さもわからないし、旅の支度もいるだろ。食料も、水も、地図も」


「でも!」


「奏。ここまで、どうやって来たんだ?こんな森、方向音痴のお前が一人で大変だったろ?」


奏は一瞬、言葉に詰まった。


奏の綺麗な顔は、ひどく汚れていた。


泥だらけの服。疲れた目。

ここまで来るのに、どれだけ彷徨ったのかは想像できる。


「今、まともに歩けるのか?」


「……」


視線が逸れる。


「ちゃんと準備してからだ」


時間が欲しかった。

だから、もっともらしい言葉を並べた。


ここに残るのか。

帰るのか。


ヴァルガと、このままで終わるのか。


整理する時間が。


「……晴斗。本当に大丈夫なんだな?」


その問いに、ほんの少しだけ間が空く。


「大丈夫だから、待っててくれ」


奏の目に、まだ不安が残っている。


それでも、安心させるように、うなずいた。


***


庭の子供たちの輪に戻ると、何事もなかったように笑い声が弾んだ。


俺も一緒に笑いながら、頭の片隅ではずっと森の方を気にしていた。


リリス達の姿は、もうない。

ほっとした自分に、胸の奥がちくりと痛む。


昼食の時間になって、自分の分をそっと懐に忍ばせた。


森に戻ると、奏はちゃんと木の穴に入って、横になっていた。


「晴斗、良かった」


俺が無事に戻って来たことで、奏は心底ほっとしたように笑った。


水を差し出すと、喉を鳴らして飲み干した。

パンに齧りつく様子を見て、やっぱり、相当無理をしてきたんだと分かる。


「夜にまた来る」


そう言った瞬間、自分でもわかるほど声が硬かった。


奏は不安げに眉を寄せたが、何も言わなかった。


あまり長く、このままではいられない。


どうするか、決めないと。



城に戻ると、すぐヴァルガを探した。


昨日のこと、謝りたかった。

ちゃんと話しがしたかった。


でも、会議だの視察だのと、顔を合わせることすらできない。


夕日が落ちる頃には、焦りだけが残っていた。


結局、俺は何も言えないまま、夜だけが静かに訪れた。



部屋を、意味もなく歩き回る。

もう奏のところに行かないと。


そう思うのに、なかなか足が動かない。


飯を食って、休んで、体力が回復したら、あいつはきっとまた言う。

逃げよう、って。


まだ、決められてないのに。


それに。


もしあいつが、逃げる以外の選択をしたら?


魔王城に勇者が乗り込む。

ヴァルガが、戦って、血を──


最悪の光景が浮かんで、慌てて頭を振った。


やめろ。


それは嫌だ。


そんなことになるくらいなら、俺はここから出ていく。

……それしかないのかもしれない。


けれど、その先のことまでは、考えられなかった。


厨房はがらんとしていた。

昼の慌ただしさが嘘のように、静まり返っている。


棚や倉庫から、持っていけそうな食料を選ぶ。

パン、干し肉、干し果物。

携帯用の皮袋に水も入れた。


手早く布に包み、懐に押し込む。


泥棒みたいだな。


そう思って、胸がちくりと痛んだ。


裏口へ向かう石畳に、月明かりが白く落ちている。

こちらの方が、奏のいる場所に近い。


人目がないことを確かめ、そっと扉を開ける。


今日は月が大きい。

妙に、明るい。


歩き出した、その瞬間。


腕を掴まれ、驚いて振り向く。

その姿に息を呑んだ。


「ヴァルガ、なんで」


銀の髪が夜の光を受けて淡く輝いている。

赤い瞳が、じっと晴斗を見つめていた。


「……お前が探していると聞いた」


「部屋を出るのを見かけて、後を追った」


人目は気にしていたはずなのに、まったく気づかなかった。


ヴァルガの視線が、晴斗の胸元へ落ちる。

不自然に膨らんだ布。


「……どこへ、行くつもりだ」


その声音は静かだ。

けれど、どこか痛みを含んでいる。


また、俺から。


逃げるのか。


言葉にはならなかったはずなのに、そう聞こえた。


昨日の言い争いが、まだ尾を引いている。

何も言わずに外へ出る姿は、逃げるように見えても仕方がない。


「違う」


声が掠れる。


その拍子に、懐の包みがほどけ、食料が地面に散らばった。


「違うよ」


言い訳も、理屈も浮かばない。


衝動のまま腕を伸ばして、躊躇う間もなく抱きしめた。

鎧越しの体温が、確かにそこにある。


「もう、お前から逃げたりしない」


胸の奥が、熱くなる。


ああ。


やっぱり、俺は――ヴァルガのそばに、いたい。


「昨日は、ごめん。怒って」


あんなに意地を張ったのに、謝罪の言葉はするりと出た。


「お前にも考えがあるって、わかってたのに。傷つけた」


ヴァルガの腕が、背中に回る。


強く。


それだけで、ふいに涙が出そうになった。


「……俺も悪かった」


低い声が、耳元で震える。


「お前がずっと役に立ちたいと思っていること、わかっていたのに。否定した」


胸に顔を埋める。

匂いと鼓動に包まれて、ひどく安心する。


「なあ。俺たち、もっと話そう。ちゃんと話して、そしたら、きっと──」


言い終わらないうちに、背後から風を裂く鋭い音が走った。


月光の下、白い光が弾ける。


ヴァルガの腕が晴斗を守るように引き寄せた。

手が腰に伸び、細身の剣が一瞬で抜かれる。


金属がぶつかる高い音。


白く輝く刃の向こうで、荒い息が震えている。


「……晴斗から、離れろ」


その声に、背筋が凍る。


「……奏」


見上げた先に、剣を振り抜いたままの奏が立っていた。


怒りと焦燥に揺れる瞳。


そして、受け止めた刃の向こうで。


赤い瞳が、細く光った。


「……勇者か」

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