第一話 選ばれたのは
※この作品は溺愛要素を含みますが、主人公にとって重い好意や不穏な描写があります。
読後感が合わない場合がありますので、ご注意ください。
聖剣に選ばれるのは、奏だ。
少なくとも、この場にいる誰もが、そう信じているように見えた。
奏本人を除いて。
白い石の祭壇の中央に、聖剣は突き立てられていた。
眩しいほどの光に包まれた刃は、誰の手にも触れられていないのに、まるで呼吸するみたいに淡く脈打っている。
ざわめく群衆の前で、リヴェルト大聖堂の大司祭が高らかに告げた。
「──勇者となる資格を持つ者、前へ」
大司祭は頭から白いヴェールを被り、その顔は隠されている。
それでも、誰を待っているのかは分かった。
呼びかけながら、その身体はわずかに奏の方へ向いていた。
俺は眼中にないみたいだ。
奏の背中を軽く押してやる。
「俺が先? 晴斗が……」
振り返った奏の、艶のある黒髪がさらりと揺れた。
「いいって。どうせお前がなるから」
肩をすくめて言うと、奏は小さく眉を寄せた。
「……でも」
「行けよ。主役はお前だ」
笑ってそう言うと、奏は観念したように息を吐き、聖剣へ向かった。
柄に手をかけた瞬間、光が爆ぜる。
ああ、やっぱりな。
聖剣は迷いなく彼を選んだ。
歓声が広場を揺らし、人々の手から放たれた花びらが宙を舞う。
「勇者だ!」
「リヴェルトの救世主だ!」
俺の横を、人々が次々と駆け抜けていく。
肩がぶつかっても、誰一人こちらを振り返らなかった。
顔の見えない大司祭が、奏の肩に手を置く。
「やはり……あなたでしたか、奏様」
その声音は、群衆に向けたものとは違う。
どこか確信めいた、柔らかな響きだった。
俺の名前は、一度も呼ばれなかった。
祝福の声の渦の中で、俺はひとつ息を吐く。
──正直に言えば、ほっとした。
世界を救えだとか、命を懸けろだとか。
そんな役目を背負わずに済んだことに、安堵していた。
それでも。
歓声の中心に立つ奏を見ていると、胸の奥に別の感情が静かに滲む。
現代でも、そして異世界でも。
あいつは、こうやって自然に人の視線を集める。
羨ましい、なんて言葉にするほど強い感情じゃない。
ただ、隣に並んでいたはずの奏が、俺から一歩だけ遠ざかった気がした。
賞賛されながら人々に囲まれる奏。
幼馴染の姿が完全に見えなくなる前に、俺はその人混みからそっと離れた。
「晴斗……!」
俺を呼ぶ奏の声が聞こえた気がする。
でも、振り返らなかった。
その場から立ち去ろうと、踵を返したその時。
奏に群がる人々の合間に、赤く光るなにかが視界の端に引っかかる。
目を凝らすと、そこにいたのは人だった。
人混みの中に佇む、黒いフード付きのローブをまとった背の高い男。
その時、一際強い風が広場を吹き抜けた。
足元に落ちていた花びらが再び舞い上がる。
風にあおられ、男のフードが背へ落ちた。
露わになったのは、淡く光る長い銀髪。
真っ赤な瞳に、浅黒い肌。
この街の人間とは、どこか違って見える。
そのすべてが、この世のものとは思えないほどに美しい。
皆が奏の方を向いている中、その男だけがまっすぐこちらを見つめていた。
その表情は、驚愕に満ちている。
なぜ、俺を見ているんだ?
勇者は、奏だ。
俺はただの──
言葉にする前に、視線が絡む。
背筋に、ぞくりとした感覚が走った。
俺はその視線を避けるように、雑踏の中を一人歩き出した。
***
人混みを抜ける。
祝福の鐘が鳴り続けている。
白い石畳は綺麗に磨かれ、祈りの言葉を刻んだ旗が風にはためいていた。
乾いた大地では滅多に見られない花が、惜しげもなく広場に撒かれている。
リヴェルトの都は、勇者の誕生に酔っていた。
百年ぶりの救世主。
これで魔王が倒され、この国の痩せた大地も、枯れかけた作物も、どうにかなると信じている。
歓声は大きい。
豪奢な衣服をまとった者たちに交じって、頬のやつれた人や、擦り切れた服を着た子供の姿もある。
都の中心は、こんなにも美しく整えられているのに。
その白さの中で、貧しい人々の姿だけが、ひどく浮いて見えた。
大聖堂の回廊へ足を踏み入れた瞬間、その喧騒が嘘みたいに遠のいた。
分厚い白い石壁が、外の音を遮る。
ひんやりとした空気が肌にまとわりつき、さっきまでの熱気が嘘のように冷えていく。
召喚されてから俺たちに与えられた部屋は、大聖堂の一角にある。
神殿の正面に比べると、壁は少しくすみ、置かれた家具も古い。
二人で使うには、少し狭い部屋だった。
まあ、突然二人も召喚されたんだ。
急いで用意したなら、こんなものだろう。
ここは、「選ばれる者」のために用意された部屋だ。
奏が勇者になった今、いつまで俺が使えるのかは分からない。
そんなことを考えながらドアノブに手をかけた、その時。
内側から、扉が開いた。
ぎょっとして一歩下がると、軽い声が降ってくる。
「──ああ、やっぱり戻ってきたか」
神官服をまとった長身の男が、笑顔でこちらを見下ろしていた。
日に焼けた肌に、短く刈り込まれた薄い金髪と緑の瞳。
たくましい体つきに精悍な顔立ちと、神官にしては妙に色気のある男だ。
俺と奏の世話を担当していた、レオンだった。
「なんで、部屋に?」
「ああ、荷物を取りに来たんだ。今日から奏様は、大聖堂の奥にある勇者専用の居室へ移ることになった」
見れば、小脇に奏の荷物を抱えている。
「……奏様、か」
俺も、これからはそう呼ばないといけないのかな。
少し沈んだ俺の肩を、レオンがぽんぽんと叩いた。
「それと、お前さんの性格上、宴にも参加せず一人で帰ってきそうだと思ってな」
この人だけは、俺のことも気にしてくれていたらしい。
「俺がいたら、奏が気にして楽しめなさそうですし」
「そうか? 晴斗がいなかったら、逆に騒ぎ出しそうだけどなあ」
「あー……」
確かに奏はいつも俺のそばにいて、何かと世話を焼きたがる。
けど、俺もあいつも、もう子供じゃない。
勇者になった奏には、大事な使命がある。
「あいつに、俺のことなんて気にせず、前だけ見てろって伝えてください」
それを聞くと、レオンは少しだけ真面目な顔になった。
「晴斗。今日はこの部屋で休んでいい。ただし、明日からは少し話が変わる」
「……ですよね。これから、どうしたらいいんだろう」
レオンは顎に手をやり、うーんと唸る。
「選ばれなかった勇者候補の処遇か……。なにせ、二人同時に召喚されたのが初めてだからな。前例がない」
前例がない。
祝福の国リヴェルトにとって、俺は想定外の存在だ。
この世界で何かの役に立てる保証も、元の世界に戻れる保証もない。
「なんか、働き口探さないとな……。住み込みでできるバイトとか、ないのかな……」
奏には、勇者としての居場所が用意されている。
けれど、選ばれなかった俺が明日からどこで暮らすのかは、まだ決まっていなかった。
「もろもろ、明日手伝ってやる。すまんな。今日は宴やら、奏様の部屋の準備やらで忙しい」
「ありがとうございます」
こちらの世界で頼れる相手は、今のところレオンだけだ。
この世界のハロワがどこにあるのかも分からない俺には、その申し出がありがたかった。
「大丈夫。もし住むところが見つからなかったら、俺の実家に来い」
軽くウインクしてみせる態度は、神官のくせに妙にナンパめいている。
「明日、宴の残り物も持ってきてやる」
そう言って俺の頭を軽く撫で、レオンは廊下の奥へ歩き去った。
祝祭の音が、遠くからかすかに響いている。
扉の前に、ぽつんと一人残された。
「……こんなファンタジー世界に来てまで就活か」
笑うしかない。
俺は深く息をつき、奏の荷物がなくなった部屋へ入った。
***
夢を見た。
奏の身体が、突然眩しい光に包まれる。
「奏!」
咄嗟に伸ばした手で、奏の腕を掴んだ。
その瞬間、足元が消えたような感覚がして、俺の意識も闇に落ちる。
次に目を開けた時、俺たちは見知らぬ場所にいた。
明らかに日本のものではない建物。
周りには、白い服をまとった大勢の人たち。
白い石壁を見上げて、俺たちは呆然とした。
俺と奏は、日本で暮らすただの大学生だった。
それなのに、聖剣を抜き、魔王を倒せと言われた。
奏と俺のどちらかが、勇者なのだと。
「俺たちを、元の世界へ帰してください」
奏は、神官たちに何度も訴えた。
俺も帰る方法を尋ねたが、明確な答えは返ってこない。
それでも、ほかにどうすることもできなかった。
儀式の日までは、言われるがまま剣や魔法の訓練を受けた。
そこで、嫌でも分かった。
奏はすぐに魔法を使えるようになった。
経験のない剣術も、教えられたことを瞬く間に吸収し、自分のものにしていく。
俺は魔法なんて使えなかった。
剣も、からっきし。
初めのうちは、奏と同じ訓練を受けていた。
けれど、能力の差が明らかになるにつれ、訓練内容にも少しずつ差がつき始める。
奏には何人もの指導役がつき、より高度な魔法や剣術へ進んでいく。
一方の俺は、訓練場の隅で、最初に教わった剣の型を一人で繰り返すだけになった。
実技の訓練は別々になったが、座学は奏と一緒だった。
この世界のことや、魔族について教えられた。
魔族の中には、人間と変わらない姿の者もいる。
けれど、それは人を惑わせるための姿で、その頂点に立つ魔王だけは、醜悪な本性がそのまま姿に現れているのだと、神官は語った。
俺たちは、この世界の言葉は話せても、文字は読めない。
それでも、見せられた絵の意味は分かった。
人とも獣ともつかない、巨大な化け物。
その足元には、食い殺された人間の死体がいくつも転がっている。
「これが魔王です。人間を憎み、この世界を滅ぼそうとしている、すべての災いの元凶です」
俺はとなりの奏を盗み見た。
女みたいに綺麗な、柔和な横顔。
こいつは、いつかこの化け物の前に立ち向かわなきゃいけない。
あの時、光に包まれたのは奏だ。
俺は、その手を掴んで巻き込まれただけの一般人。
ただ、それだけだった。
***
頬に触れる、冷たい風。
その感触に、うっすらと目を開けた。
部屋が、暗い。
灯りはすべて消えていて、窓の向こうにも月は見えなかった。
──こんなに、静かだっただろうか。
胸の奥が、じわりと嫌な予感で満たされる。
俺、窓……開けて寝たっけ。
はっきりしない頭のまま、視線だけを窓へ向けた瞬間、思考が凍りついた。
赤い、二つの光。
闇の向こうで、じっとこちらを見つめている。
──誰か、いる。
喉が引きつり、息が詰まる。
「……ひ……」
掠れた声が、勝手に零れた。
逃げなきゃ。
そう思うのに、体が言うことを聞かない。
叫ぼうとした、その時。
窓辺にあった赤い光が、ふっと消えた。
次の瞬間、口を塞がれた。
視界いっぱいに、あの赤い瞳がある。
窓辺にいたはずの男が、もう目の前にいた。
押し倒され、重たい体重がのしかかる。
息ができなくて、頭が真っ白になった。
強盗……?
殺される……?
恐怖だけが、ぐちゃぐちゃに渦を巻く。
ぎゅっと目を閉じ、固まった体で必死にもがいた。
「……みつけた」
低く、甘く、胸の奥をなぞるような声。
鼓膜じゃない。
直接、内側に落ちてくるみたいな響きだった。
恐る恐る目を開くと、男の顔が間近にあった。
儀式のときに被っていたフードはなく、白銀の長い髪が浅黒い肌を縁取っている。
そして、あの赤い瞳。
──儀式の後、俺を見ていた男。
男は、信じられないものを見るように、俺を見つめている。
まるで、長い間探していたものを、ようやく見つけたみたいな目で。
「俺の、運命……」
呟いて指先が、頬に触れる。
ほんのわずかに、震えていた。
その震えが、逆に怖い。
「な、何……」
言い切る前に、唇に柔らかな感触が重なった。
一瞬。
触れるだけの、確かめるみたいなキス。
「!?」
すぐに離れる。
男は息を呑み、俺の顔をじっと見た。
何かを確認するように。
確信を深めるように。
やがて、その赤い瞳に抑えきれない歓喜が滲んだ。
そして──
逃げる間もなく、再び唇が塞がれる。
今度は、ためらいなく。
深く。
ぬるりと舌が侵入し、思考がかき乱される。
「んっ……! うぐっ……!」
男と、キスしてる。
どうして──
生理的な嫌悪に、全身がぞわりと粟立った。
いやだ。
気持ち悪い。
無理。
涙が滲む中、押し返そうと腕に力を込めるが、びくともしない。
一方的に蹂躙され、解放された頃には、顔は汗と涙でぐしゃぐしゃだった。
男の赤い瞳が、わずかに揺れる。
「……泣くな」
我に返ったように、困惑した顔で眉を寄せた。
まるで、自分のしたことと、この涙が結びついていないみたいに。
指先が俺の頬に触れる。
震えているのは俺じゃなく、男のほうだった。
「怖かったのか……?」
その声音は、怒りでも愉悦でもない。
純粋な、戸惑い。
「俺は……お前を傷つけたいわけではない」
そう言いながら、腕の拘束は解かれない。
じゃあ、なんで。
喉の奥まで上がった言葉は、形にならなかった。
男は、少しだけ首を傾げる。
「……だが、離すつもりもない」
強い視線に絡め取られる。
肺がうまく膨らまない。
「さあ。一緒に俺の国に行こう」
「……国……?」
ぼんやりと意味を考えようとした、その瞬間。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
気づけば、夜空に浮かんでいる。
風を切る音。
眼下で、街の灯りが急速に遠ざかっていく。
「う、わあああああ!!」
反射的に、男の首にしがみつく。
お姫様抱っこのように抱えられ、落ちないよう必死だった。
男は、その様子が可笑しくてたまらないとでもいうように、嬉しそうに頬を擦り寄せてくる。
「もう、絶対離さない」
その言葉だけが、夜の闇にはっきりと残った。




