第一話 選ばれたのは
白い石の祭壇の中央に、聖剣は突き立てられていた。
眩しいほどの光に包まれた刃は、誰の手にも触れられていないのに、まるで呼吸するみたいに淡く脈打っている。
ざわめく群衆の前で、神官が高らかに告げた。
「――勇者となる資格を持つ者、前へ」
隣に立つ幼馴染――奏が、ほんの一瞬だけこちらを見る。
その横顔は、相変わらず整っていて、女みたいに綺麗だな、とどうでもいいことを考えてしまった。
「先に行ってこいよ、奏」
そう声をかけると、彼は少し困ったように笑って、聖剣へ向かう。
柄に手をかけた瞬間、光が爆ぜる。
ああ、やっぱりな。
聖剣は迷いなく彼を選び、歓声が広場を揺らした。
「勇者だ!」
「救世主だ!」
祝福の声の渦の中で、俺はひとつ息を吐いていた。
——正直に言えば、ほっとした。
世界を救えだとか、命を懸けろだとか。
そんな役目を背負わずに済んだことに、安堵していた。
それでも。
歓声の中心に立つ奏を見ていると、胸の奥に、別の感情が静かに滲む。
現代でも。
そして、異世界でも。
あいつは、こうやって自然に人の視線を集める。
羨ましい、なんて言葉にするほど強い感情じゃない。
ただ、並んで立っていたはずの場所から、一歩だけ離れてしまった気がした。
賞賛されながら人々に囲まれる奏。
幼馴染の姿が完全に見えなくなる前に、俺はその人混みからそっと離れた。
「晴斗……!」
俺を呼ぶ奏の声が聞こえた気がするが、俺にはどうすることもできない。
その場から立ち去ろうと、踵を返したその時。
奏に群がる人々の合間に、赤く光るなにかが、視線の淵に引っかかる。
目を凝らすと、それは人──
背の高い男の、両の瞳だった。
淡く光る髪、真っ赤な瞳、浅黒い肌。
この街の人間とは、どこか違って見えた。
全てが、この世のものとは思えないほどに美しい。
皆が奏の方を向いている中、
その男だけが、まっすぐこちらを見つめていた。
その表情は驚愕に満ちていて、俺は困惑する。
なぜ、こちらを見ているんだろう。
俺はその視線を意識しながらも、雑踏の中を、一人歩き出した。
***
人混みを抜け、石造りの廊下を歩く。
何度も通ったはずの道なのに、今日はやけに長く感じた。
勇者候補として与えられた宿舎。
俺と奏が、召喚されてから使っていた部屋の前に立つ。
扉の前で、足が止まった。
この部屋も、いつまで使えるんだろう。
そんなことを考えながら、無意識にドアノブに手をかけたその時、内側から扉が開く。
ギョッとして一歩下がると、軽い声。
「――ああ、やっぱり戻ってきたか」
神官服の長身の男が、笑顔でこちらを見下ろしている。
俺と奏の世話を担当していた、レオンだ。
落ち着いた佇まいに、余裕のある笑み。
年の功というやつなのか、こちらの気まずさを見透かしたような目をしている。
「なんで、部屋に?」
「ああ、荷物を取りに来たんだ。今日から奏様は城に住むことになる」
見れば、小脇に奏の荷物を抱えていた。
勇者になれば城に移り住む。前々から聞いていたことだ。
これから奏とは離れ離れ。同じ世界から来た友人と離れるのは、少し寂しい。
「……奏様、か」
俺も、そう呼ばないといけないのかな。
少し沈んだ俺の肩を、レオンがぽんぽんと叩いてくる。
「それと、お前さんの性格上、宴にも参加せず一人で帰ってきそうだと思ってな」
この人だけは、俺のことも気にしてくれていたらしい。
「俺がいても、奏が気にして楽しめなさそうですし」
「そうか? 晴斗がいなかったら、逆に騒ぎ出しそうだけどなあ」
「あー……」
確かに奏はいつも俺のそばにいて、何かと世話を焼きたがる。
けど、俺もあいつももう子供じゃない。そろそろ、べったりするのも潮時だ。
この世界に来たのも、良いきっかけだと思う。
勇者になった奏には、大事な使命がある。
俺なんかに、かまけてる暇はないはずだ。
「あいつに、俺のことなんて気にせず、前だけ見てろって伝えてください」
それを聞くと、レオンは少しだけ真面目な顔になって口を開いた。
「晴斗。今日は、この部屋で休んでいい」
「ただし、明日からは少し話が変わる」
「……ですよね。これから、どうしたらいいんだろう」
レオンは顎に手をやり、うーんと唸る。
「選ばれなかった勇者候補の処遇……なにせ、二人同時に召喚された例が初めてだからな。前例がない」
そうだ。
俺はイレギュラーな存在。
この世界の何かに役立てる保証も、元の世界に戻れる保証もない。
「なんか、働き口探さないとな……住み込みでできるバイトとか、ないのかな……」
「もろもろ、明日手伝ってやる。すまんな。今日は宴やら、奏様の部屋の準備やらで忙しい」
「ありがとうございます」
こちらの世界で、頼れる相手と呼べるのは、今のところレオンだけだ。
この世界のハロワがどこにあるのかも分からない俺には、その申し出がありがたかった。
「大丈夫。もし住むとこ見つからなかったら、俺の実家に来い」
軽くウインクしてみせるその態度は、神官のくせに妙にナンパめいている。
「明日、宴の残り物も持ってきてやる」
そう言い残して、レオンは廊下の奥へと歩き去っていった。
扉の前に、一人残される。
「こんなファンタジー世界に来てまで、就活か」
俺は、深く息をついた。
***
頬に触れる、冷たい風。
その感触に、うっすらと目を開けた。
部屋が、暗い。
灯りはすべて消えていて、窓の向こうにも月は見えなかった。
――こんなに、静かだっただろうか。
胸の奥が、じわりと嫌な予感で満たされる。
俺、窓……開けて寝たっけ。
はっきりしない頭のまま、視線だけを窓へ向けた瞬間、思考が凍りついた。
赤い、二つの光。
闇の向こうで、じっとこちらを見つめている。
――誰か、いる。
喉が引きつり、息が詰まる。
「……ひ……」
掠れた声が、勝手に零れた。
逃げなきゃ。
そう思うのに、体が言うことを聞かない。
叫ぼうとした、その時。
背後の空気が、ぴたりと止まった。
次の瞬間、口を塞がれる。
視界いっぱいに、赤い光。
いつのまにか、そいつは目の前にいた。
押し倒され、重たい体重がのしかかる。
息ができない。頭が真っ白になる。
強盗……?
殺される……?
恐怖だけが、ぐちゃぐちゃに渦を巻く。
ぎゅっと目を閉じ、固まった体で必死にもがいた。
「……みつけた」
低く、甘く、胸の奥をなぞるような声。
恐る恐る目を開くと、男の顔が間近にあった。
白銀の長い髪。浅黒い肌。
そして、あの赤い瞳。
――儀式の後、俺を見ていた男。
「俺の、運命……」
吐息混じりに囁かれ、ぞっとする。
男の髪がさらりと落ち、ほのかに甘い香りが鼻を掠めた。
口を塞いでいた手が離れ、代わりに頬を撫でられる。
「な、何……」
言い切る前に、唇に柔らかな感触が重なった。
「!?」
一瞬で離れる。
理解が追いつかない俺を見て、男は満足そうに微笑んだ。
逃げる間もなく、再び唇が塞がれる。
今度は逃げ場を塞ぐように、深く。
ぬるりと舌が侵入し、思考がかき乱される。
「んっ……! うぐっ……!」
男と、キスしてる。
生理的な嫌悪に、全身がぞわりと粟立った。
いやだ。
気持ち悪い。
無理。
涙が滲む中、押し返そうと腕に力を込めるが、びくともしない。
一方的に蹂躙され、解放された頃には、顔は汗と涙でぐしゃぐしゃだった。
男は唇を舐め、恍惚とした表情で俺を見下ろす。
「さあ、一緒に俺の国に行こう」
「……国……?」
ぼんやりと意味を考えようとした、その瞬間。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
気づけば、夜空に浮かんでいる。
風を切る音。
眼下で、街の灯りが急速に遠ざかっていく。
「う、わあああああ!!」
反射的に、男の首にしがみつく。
お姫様抱っこのように抱えられ、落ちないよう必死だった。
男は、その様子が可笑しくてたまらないとでもいうように、嬉しそうに頬を擦り寄せてくる。
「もう、絶対離さない」
その言葉だけが、
夜の闇に、はっきりと残った。




