巻き戻った夜
—戻ってきた。
それを確信したのは、足元の感触だった。
夏の夜特有の、少し湿った地面。
記憶の中にある感覚と、寸分違わない。
日夜は息を吸い、吐いた。
胸が、ひどく痛む。
ポケットからスマホを取り出す。
画面に表示された日付を見て、喉が鳴った。
八月。
あの日より、二年も前。
空を見上げると、星があふれている。
—ペルセウス座流星群。
間違いない。
この夜だ。
「……和音」
名前が、無意識にこぼれた。
呼んだところで、返事があるはずもないのに。
いや。
—今なら、ある。
日夜は顔を上げ、走り出した。
頭の中で、最短の道をなぞる。
あの庭。あの椅子。あの夜空。
遅れるわけにはいかない。
胸の奥で、焦りと恐怖が絡み合う。
もし、間に合わなかったら。
もし、彼女がもう空を見終えていたら。
そんな考えを振り払うように、足を前に出す。
—大丈夫だ。
—まだ、この時間だ。
そう信じ続けなければ、心が折れてしまいそうだった。
やがて、見慣れた門が見えてくる。
息を整える暇もなく、日夜は足を止めた。
庭灯の下。
椅子に座って、空を見上げている影。
—いた。
その瞬間、全身の力が抜けた。
同時に、胸の奥が焼けるように熱くなる。
和音。
間違えようがない。
髪の揺れ方も、背中の線も、星を見るときの癖も。
どれだけ時間が巻き戻ろうと、
どれだけ記憶が失われようと、
日夜が見失うはずがなかった。
それでも。
門の前で、日夜は立ち尽くす。
—今の彼女は、俺を知らない。
その事実が、刃のように突き刺さる。
声をかける資格が、自分にあるのか。
また近づいて、傷つけるだけじゃないのか。
ためらいの隙間を縫うように、流星が走った。
夜空を裂く、白い線。
あの夜と、同じだった。
日夜は、歯を食いしばる。
—行け。
この瞬間を逃したら、
きっと一生、自分を許せなくなる。
一歩。
そして、もう一歩。
砂利を踏む音に、和音がこちらを振り向く。
その目が、日夜を捉えた。
—違う。
わかっていた。
でも、やっぱり胸が痛む。
そこにあったのは、
恋人を見る目でも、信頼でもない。
「知らない人」を見る目だった。
それでも。
日夜は、彼女の前で足を止めた。
「……ごめん」
何に対する謝罪なのか、自分でもわからない。
過去への後悔か。未来への恐れか。
和音は戸惑ったように目を瞬かせる。
それすら、懐かしかった。
言葉を選ぶ。
慎重に、慎重に。
壊れやすいものを扱うように。
「流星、見てたんだな」
当たり障りのない言葉。
でも、これが精一杯だった。
彼女がうなずくのを見て、胸の奥が少しだけ緩む。
空を見上げながら、日夜は思う。
ーここからだ。
思い出させる必要なんてない。
過去に縛りつけるつもりもない。
ただ、もう一度。
彼女が選ぶ未来に、
自分が隣にいられるように。
それだけでいい。
和音が名乗ったとき、
その名前を聞いたとき。
日夜は、必死に感情を押し殺した。
泣いてはいけない。
抱きしめてはいけない。
「知っている」と悟らせてはいけない。
これは、やり直しだ。
罰でもあり、奇跡でもある。
流星が消えた空の下で、
日夜は静かに、心の中で誓った。
今度こそ、間違えない。
何度忘れられても、
何度でも、君を選ぶ。
それが、与えられた唯一の時間の使い方だと、
日夜は知っていた。




