第三十九話
いつものように六時に目を覚ます。カーテンを開けると、珍しく雪がちらついており、それを見ただけでいくらか体温が下がってしまった気がする。
エアコンのスイッチを入れて、部屋が温まるのを待つまで顔を洗ったり、風呂の掃除をしたりする。
リビングに戻り、部屋が温かくなっているのを肌で感じた後に、朝食十分ほどでを作る。
そして、それが終わったら机の上に置いてある氷室彩美の写真集を手に取る。しかし、それを開くことはなく二段ベッドに近づく。
その写真集を上に投げる。すると、見事にそれはまだ深い眠りについている高平の頭に直撃する。
「んおぅ、なんだぁ?いってーなぁー」
まだ起きていない声で、何が起こったのかわからずに困惑している高平に朝が来たことを告げる。
「朝だ。起きろ」
「もう、朝かー。ふぁー、ねみぃー」
派手な寝癖をつけたままに大きな欠伸をして、上半身を起こす。やはりこいつはそこら辺の人間と違いはない。俺はときどき、こいつが半人間であることをつい忘れてしまうことがある。
別に忘れたからどうってことはないが、意識の問題だ。実際に、本部の奴らはこいつにかなりの警戒をしているしな。
朝食を食べて、いまだに準備の終わっていない高平を寮に置いていって、朝の集合は無くなったために先に街へ出る。
息を吐くと白く濁る。どうやら雪は寝ている間にも降っていたらしく、浅くはあるが積もっている。そこにはいくつかの足跡と、自転車のタイヤの跡が残っており、それを踏んで静かな街中を散策する。
俺の通る道は、いつも同じだ。この道は一度だけ由良と遠出した時に来たところだ。
自分でも未練がましいとは思う。俺が原因で、縁が切れた関係に俺はいつまでも縋り付いている。みっともないことこの上ない。
由良は俺が俺を好きになるまで、ずっと待っていると、そう言ってくれた。その優しさにつけ込んでいるようで、さらに自分への嫌悪感が募る。
俺が俺を好きになる日は来るのだろうかと、毎朝目が覚めて疑問に思う。今日の俺は自分を好きになれるのかを、顔を洗いながら確認する人生をもうかれこれ二年以上続けている。
何度も会いに行こうと思った。自分が好きになれなくても、それでも、由良は会ってくれると勝手に思い込んでいた。だけど、やっぱり約束を反故にする気にはなれなくて、そもそも今どこにいるのかさえ知らない無力の俺には、そんなことはできなかった。どこの大学へ進学したのか、今もなお大学生活を謳歌しているのか、それすらも俺にはわからない。
心臓が早鐘を打ちながらも、電話をかけたこともあった。しかし、電話番号が変わったのか繋がることはなく、自動音声の無機質な声だけが耳に届いた。
俺は心のどこかでホッとしていた。それでまた、自分のことが嫌いになるという悪循環に嵌ってしまったのだ。
寒いためポケットに手を突っ込む。スマートフォンを強く握りしめる。今、もう一度、かけてみようか。
俺はゆっくりとポケットから取り出して、画面を見つめる。手が震えている理由は、寒さ故か怖さ故か。
判断が鈍らないうちに、電話帳から由良の名前を見つけ出してタップする。呼び出し音が何度も鳴る。俺は次第に諦めの気持ちが大きくなって、どこか解放感を得た。
何も変わっていない。
再びポケットに仕舞って、雪降る閑散とした街を彷徨う。時々すれ違ったり、見かけたりする人々は、三者三様の面持ちで人間の持つ苦悩や享楽は大きな影響を与えるのだと、改めて思った。
そうして闊歩すること約十分、ようやく初めてのコレティスが見つかった。恐らく、白。少なくとも黄のなんてことないコレティスだ。
弓を構えて、矢をつがえる。コレティスは人間に自らの青い血を与えているわけでもなく、危機感なさげにその場に座り込んでいる。人畜無害そのものであるが、容赦なく弓を放つ。
あっけないもので、そのままコレティスは灰になり、ダメージどころか危険すら無い戦いは幕を閉じた。
躊躇う気持ちは全くなく、コレティスを殺した横を通り過ぎるときに物陰から人が現れた。
行射の瞬間を見られなくて安堵した。そして、そのまま何事もなく時間が過ぎた………らどれほど、どれほど良かったことか。
俺はその人物の顔を見て、思わず足を止めた。
見たことのある顔。見たことのある体格。見たことのある、制服。
俺の通っていた高校の制服に身を包んだその女性は、まごうことなき神崎由良であった。俺の知っている高校三年生の頃の由良と、何一つ違わないその姿に俺は、悪寒がした。
喜びなんて微塵も感じなかった。代わりに感じたのは、吐き気がするほどの激しい憎悪だった。
目の前にいるのは神崎由良であって、神崎由良でない。
目の前にいるのは半人間であって、人間でない。
神崎由良はもう人間ではなくなっていた。それはきっと高校三年生のときのことで、登下校中のときのことで。制服を着たままの由良はコレティスに殺害されて、その青い血を体内に摂取させられて、今日まで永遠に同じ姿のままで、普通の人に紛れて生きてきたのだ。
血が沸騰するほどの怒りに見舞われた。その怒りに身を任せて、弓を構えたが、あの嫌な記憶がフラッシュバックしてきた。妹に姉の勇姿を伝えるという願いを奪ったあの瞬間の記憶が、俺に嫌な汗をかかせている。
わかっている。わかっているのだ。こいつは由良の姿形をした半人間だと、頭では理解している。しかし、思うように体が動かないのだ。
少しでもこの半人間が俺に危害を加えてくれたならば、割り切れるであろうが、ただ俺を見つめてくるだけで、何もしてこない。それが俺に対して一番有効な手であると、知っているかのようにジッと俺のことを見据えている。
「クソが……!」
悪態をついたところで何か状況が変わることなどないのに、俺はそれだけしかできない。
半人間だ……。こいつは半人間だ……。断じて神崎由良ではない……。
俺は深く息を吐いて、照準を定める。それなのに、半人間は何の抵抗も見せない。牙を向くことも、避けようとする素振りすらない。
呼吸が荒ぶる。手が言うことを聞かない。腹立たしさがただ募っていく。
それを断ち切るために、いい加減に矢を放つ。しかし、案の定その矢はあらぬ方向へ飛んでいった。
このまま膠着状態が続くと思われた矢先、俺の攻撃を皮切りとしてそれまで微動だに動かなかった半人間は、人が変わったように突然に襲いかかってきた。
俺はそれを捌くだけで、反撃することができない。心のブレーキがそれを妨げているのだ。
どうすれば良いのだ……。何が最善の選択なのだ……。いや、最善の策など考えるまでもないことは明白だ。
ここで、俺が直接手を下せば良い。簡単なことではないか。
だけど、目の前で機敏な動きをしている由良にそれは、できない……!
そんな思考に陥っていると、不意に腹を足裏で蹴られて、地面に転がる。追い打ちをかけるように、更なる攻撃を繰り出す半人間から距離を取る。
いつから俺はこんなにも弱くなっていたのだ。いつからこんなにも合理的な考えができなくなっていたのだ。
俺がここでこの半人間を生かそうが殺そうが、由良は帰ってくることはない。神崎由良はこの世でもう死んでいるのだ。死んでいるものが生き返ることなど、ありはしない。
俺がやるしかないのだ……。俺がやるしか……!
「何やってるんだ、お前」
戦闘中なのにも関わらず、聞きなれない声に振り返ってしまった。そこにはクロスボウを手にした火野がいた。
「まさか、こんな弱い半人間なんかに手こずっているのか?」
「……ちげーよ」
そう返すので精一杯だった。俺だって、見た目が由良ではなかったらこんなやつに、こんな時間をかけることなどあり得ない。
そんな誰に聞かせるわけでもない言い訳をしていると、火野は容赦なくクロスボウで半人間を撃ち抜いた。
半人間の左目に矢が刺さった。その姿に俺は心臓を握られたように胸が苦しくなった。紫色の血を流す由良の見た目の半人間は、痛みを感じているのか掠れた声でうめく。
「や……め…ろ」
泣きそうになりながら声を絞り出す。だが、それはあまりにも小さすぎて、火野の耳には届かなかったようで火野はすかさず、右目に向かって矢を放った。
ついに両目を失った半人間はおぼつかない足取りでその場にへたり込んだ。
「やめて……くれ」
今度はしっかりと聞こえたようで、横目でこちらをチラリと見た。しかし、そんなものは意にも介さずに標準を構えた。
「やめてくれ!」
大きな声、さらには半人間側もずっと動かずにその痛みに悶えているためか、ようやく火野はクロスボウを下げた。
「何故だ?こいつを殺さないことで何のメリットがある?」
「由良だけはダメだ……」
自分のわがままだってことはわかっているため、その声はまだも威力を失った。火野はそんな俺を見て鼻で笑った。
「もしかして、こいつ、お前の知り合いか?そんなこともあるんだな」
「そうだ、だから────────」
「だから殺すなどでも言う気か?ふざけたことを抜かすな。もうこいつはお前の知り合いでも何でもない。人間の皮を被った化け物だ」
わかってる……。そんなことは言われなくても、わかってる……!だけど、わかっていても、割り切れない……!
「こいつは殺す。例外なんてものは存在しない。敵を殺すか、自分が死ぬか、その二択しかCAUには必要ない」
火野は再びクロスボウを構える。
「あ…………あぁ……あ……」
言葉すら出なかった。それは俺の中で火野の言っていることが正論であるという気持ちと、それでも由良が灰になるのを見たくないという気持ちが俺に葛藤を生ませたためだ。もう俺には火野を止めることはできない。
火野は容赦なく、躊躇いなく、心臓を撃ち抜いた、
その一矢で、徐々に由良の体が灰へと変わっていく。
気づけば俺は駆け出して、両膝をつきながらその薄い体を抱きしめていた。
由良……由良……由良……!!
まだ俺は自分を好きになれていない。なのに、どうして出会ってしまったのだ。まだ、約束を果たせていないのに、どうして俺の前に現れてしまったのだ。
ごめん、由良……!ごめん、ごめん………。
「ごめん、本当にごめん。俺のせいで……」
いつかのあの日と全く同じ言葉が口から漏れた。
そして、俺の手から人肌の感覚がなくなった。
由良は宙に消えていった。もうこの目で由良を見ることは叶わない。死体さえも、残らない。遺族すら知ることはできない由良の最期。
残酷。その二文字が頭の中を埋め尽くしている。神の悪戯というにはあまりにもタチが悪くて、あまりにも無慈悲だ。
全ての邂逅が喜ばしいものではない。二十年間生きてきて、それを今以上に実感した時はない。
由良がいなくなっても、俺はその場でずっと俯いたまま動けなかった。降る雪がうざったらしいくらいに、冷たい。
急に背中を蹴られて、俺は抵抗もできずに地面に転がる。今まで下を向いていたため、急に世界が反転したように錯覚した。
「お前さぁ、何してんの?」
火野の無表情な顔が視界に映った。
「お前があの半人間の知り合いだったのは、気の毒としか言えねぇよ。ただなぁ、それで殺すことができないとか、舐めてんのか?」
火野が俺の胸ぐらを掴んで、強制的に自分の顔の近くに俺の顔を持っていく。
「お前一人しかいなかったらどうなっていた?一生終わらない戦いに身を投じて、無意味な時間をただ過ごして、最終的には殺せずにそのまま帰る。そんな可能性があったのかと思うと、反吐が出る」
火野は乱暴に俺の胸ぐらから手を離す。俺は背中を地面に叩きつけられて、呻き声が漏れる。
「お前みたいに中途半端な覚悟しかない奴は、いらねぇんだよ。囮すらなれねぇような役立たずは、そこらへんの奴らと何も変わねぇ。さっさとCAUを辞めろ」
俺は何も言い返せずに、ただ雪降る空を茫然と眺めることしかできない。
火野は舌打ちをした。
「お前みたいな奴が死んでいくのは、もう見飽きたんだよ……」
そう言い残して、火野はその場を去っていった。
流れた涙は、雪の層を少し溶かして、消えていった。




