第二十三話
由良の最後の大会まで、残り一週間となった。それなのに、部活は自主練習であった。そのためまずまず人があまり来なかったが、そのほうがいい。やる気のない人が近くにいるだけで気が散って仕方がないし、由良にも悪影響がありそうだからだ。
そうしていつも通りに練習をこなしていくといつの間にか部活終了の数分前となった。もう弓道場には俺と由良以外に人はいなかった。
「この大会で優勝したら、一つお願いを聞いて欲しいの」
以前と同じようなことを言ったので、俺も同じ返しをする。
「優勝か。できるのか?」
俺の意図を察したのか、由良はフッと軽く笑った。
「できるって!私を信じて!」
「それでお願いって何だ?」
由良は目を細めて、口角を上げた。
「今回は内緒。亮を倒すことができたそのときに、教えてあげる」
由良は変わらずに俺の指導を求めた。実際にまだ改良の余地があったため、俺も熱心に教えた。もう俺らの関係を揶揄ったり、冷ややかに見る人は誰一人としていなかった。
由良が俺の隣の的に弓を放った。それは見事に二十八メートル先の的の中心に刺さった。それに喜びを見せずに、由良は続けて矢をつがえた。それも中心を捉えて、ようやく弓を下ろした。
由良は刺さった矢を回収しに行った。俺はそれを視界におさめながら、俺は自分が弓を逸らして、由良に当てることはないという自信があったため、由良の使用した的の隣のものに狙いを定めた。絶対にやってはいけないことなのは理解もしているし、父親にもそう厳しく教わってきたが、俺は行射する回数を増やしたいがために、由良と二人だけの時は、そのルールを破っていた。それは完全に俺の驕りである。そして、由良も俺のことを信頼しているのか、そのことに文句を言うことはなかった。
俺が、集中を高めて矢を放とうとしたとき、化け物が現れた。
俺は特段、驚かなかった。生まれたときからずっと俺にはこういう化け物が見えた。何か害を与えてくるわけでもなかったから、次第に俺はいないもののように扱っていた。
しかし、今目の前にいる奴は違かった。そいつは由良に向かって、明らかに進んでいた。俺は息を呑んだ。
震える手で、弓を構えた。何度も矢を離そうとしているのに、右手がそれを拒む。その間にも、化け物は由良との距離を詰めて行った。
俺は意を決して遂に、化け物に向かって矢を放った。このままでは由良が死んでしまうと、直感したからだ。
だが、恐怖で震えていた俺に正確に射ることはできなかった。その結果、矢は由良の左腕を軽く抉った。
「イッタ!!」
由良はその場でうずくまって、俺が外したことが信じられないというような顔で後ろを向いた。そんな由良には興味を持たず、化け物はその横を通り過ぎて行った。
俺は目の前が真っ白になった。ただ俺が由良を傷つけたという事実に激しい眩暈を覚えた。
由良は重症ではなかったが、神経がやられてしまったため、二週間は弓を持てなくなった。それは三年生の由良には引退を宣告されたと同義であった。
「ごめん、本当にごめん。俺のせいで……」
俺は涙を流しながら、何度も謝った。俺がここまで積み重ねた由良との日々が、たった一回の行射で崩れ去っていった。由良の妹に勇ましい姉の背中を見せることが叶わなくなった。その事実に俺は胸が締め付けられる思いと同時に、激しい罪悪感に苛まれた。
由良はそんな俺に優しかった。それどころか、泣いている俺を珍しがって揶揄って場を和ませようとした。それが俺にはとても苦しかった。
「大丈夫だって。大学でも続けるんだし。私の分まで、大会で暴れてきてよ。いい結果を待っているから」
俺は力強く頷いた。
だが、大会では結果は奮わなかった。個人の部でも、団体の部でも大して成績を残すことはできなかった。
由良はそんな俺を慰めながら、遂に弓道部を引退した。
その二日後のことであった。
由良の妹が息を引き取った。容態が急変し、そのまま帰らぬ人となってしまったらしい。
俺はこれほどまでにこの世界が残酷だと思ったことはなかった。もし、俺が由良に怪我を負わせていなかったら、偉大な姉の存在を妹に示すことができていただろうに、それをこれからすることは一生できなくなった。
俺はその知らせを受けてから、学校に行かずに自室に引き篭もるようになった。由良が怪我は自分でやったことと偽ったために、俺が落ち込んでいるのは大会でよい成績を収めることができなかったから、と勘違いしている両親は何も苦言を呈さなかった。それが逆に、心をより一層痛めた。
ある日、俺の家に由良が訪ねてきた。部屋のドアをノックされ、顔を見せてと何度も懇願された。俺はその度にそれを拒否していたが、心のどこかでは俺も由良に会いたがっていた。けれども、扉を開ける勇気は俺にはなかった。
それからも何度も俺の家を訪問してくれたが、俺がドアを開けることは一度としてなかった。
「亮の家に来るのは、今日で最後にする。毎日だって来たいけど、受験があるから。最後だからさ、この扉を開けてよ、亮」
由良が俺の家に来るようになってからに二か月が経ったころだった。由良が申し訳なさそうに言った。俺は迷っていた。迷いに迷った挙句、俺は動くことができなかった。
「そっか。それが亮の答えなら、私はそれでいいよ」
その声色はやっぱりどこまでも優しかった。
「でも、最後にこれだけは言わせて」
罵倒されると思った。罰を欲している俺にとってそっちの方が良かった。しかし、由良の言ったことはそんなものとは程遠いものであった。
「亮は絶対に弓を持つことをやめないで。弓を持たない亮は、亮じゃない」
俺は黙って、言葉が紡がれるのを待った。
「だけど、亮がいつか自分を好きになれたら、その時は弓を下ろして、私に会いに来て。いつまでも待っているから」
俺は涙ぐみながらも、何とか返事することができた。
「私はずっと亮を信じている。だから、亮も私を信じて」
そこから、俺は再び弓を持ち始めた。しかし、学校には行けないままであった。家にある弓道場でただ無我夢中で、中学生の頃に戻ったようにただただ弓を構え続けた。
それから今日まで、由良とは一回も顔を合わせていない。
あの時と一緒だ。嫌な記憶がフラッシュバックした。
弓を持つ手が震える。呼吸が荒くなって、額に汗が滲む。
目の前で半人間と戦っている高平に刺さってしまったら、俺が原因で死んでしまったら。そんな想像だけが無限に広がって、正常な思考を妨げてくる。
そんな葛藤をしているうちに、高平が声を上げた。
「久我山!弓どうした、弓!」
「人が前にいるときに射た経験がないから、タイミングがわからないんだ」
声が震えていることに悟られないようにするので精一杯だった。ここで援護射撃ができない俺に何の価値があるのだ?数では勝っているのに、そのアドバンテージが俺のせいで全く活かせていない。確実に俺が足を引っ張っている。
矢をセットして、狙いを定める。半人間は高平に夢中で、俺に興味を示していない。
右手を離すだけでいい。それだけでいいんだ。わかっているのにらそんな簡単なことができない自分が心底嫌になる。俺にはまだ由良に会う資格はない。
俺が何もアクションを起こせないでいると、高平は前を向いたまま俺に告げた。
「久我山!俺のことは構わずに、自分のタイミングで矢を放て!」
「でも、お前に刺さったら……」
反射的にそう返してしまった。自信のなさが如実に現れたその発言が今の俺の心境を、これでもかと表している。
しかし、そんなことを高平は一切気にしていなかった。
「大丈夫だ!」
よく通る大きな声。人がほとんどいないこの空間に何度も反響した。
「俺はお前を信じている!」
───────私は亮を信じている。だから、亮も私を信じて。
そうか。単純じゃないか。ただ、信じればいいんだ。由良を信じれば良かったんだ。高平を信じればいいんだ。俺の心の持ちよう次第だったんだ。
俺は持っていた矢で、左腕を引っ掻いた。これは由良への贖罪と、戒めだ。
赤い血が溢れる。
手の震えが止まった。頭がクリアになり、よく動きが見える。高平の次の行動が手に取るようにわかる。
高平が再び半人間に突っ込んでいった。アイツはやられない。ずっと応戦して、いつか俺に絶好の瞬間を与えてくれる。
瞬き一つすら許されない。この一本の矢で、形勢がこちらに傾くように。ただひたすらにその時を待ち続けろ。
高平の拳が半人間の顔面をとらえた。明らかに与えるダメージが大きくなっている。高平は今もなお、成長をしている。
俺も負けてはいられない。
まだだ……!今じゃない……!
…‥‥…………………………………………
来た。今だ。
「痺雷矢」
俺は、躊躇うことなく右手を矢から離した。




