第1話 階段を降りたら上っていた
朝の通学路。いつもと変わらない風景。
高橋ユウキは、今日も普通の一日が始まると思っていた。
「おはよう、ユウキ!」
親友の田中が手を振ってくる。
「おはよう」
二人で学校の門をくぐり、昇降口へ向かう。三階の教室へ行くために、階段を上り始めた。
一段、二段、三段と上っていくと、そこで違和感に気づいて足が止まった。確かに足は上方向に動いているのに、視界が沈んでいく。頭の位置が下がっていく。まるで階段じゃなくて世界のほうが逆さまになっているような、奇妙な感覚だった。
「え......?」
ユウキは混乱して呟いた。もう一度試してみる。上る。でも下がる。まるでエッシャーの騙し絵の中にいるような、現実離れした感覚だった。
「田中、なあ……これ、ちょっと見てみ」
振り返ると、田中はケロッとした顔で普通に階段を上っていた。いつもの階段、いつもの朝。けれど自分だけが別の物理法則の中にいるような気がした。
「どうした?」
「……いや、なんでもねえ」
もう一段。何事もなかったみたいに足が上がる。
さっきのは、気のせい。そう思い込むしかなかった。
(気のせい......だよな)
教室に着くまで、ユウキの胸には奇妙な不安が残り続けた。
午後の授業中、数学の先生が黒板に数式を書いている間、ユウキは窓の外を眺めていた。すると校庭の木の葉が、重力に逆らって上に落ちているのが見えた。
「え?」
思わず声を漏らして目をこすり、もう一度見る。今度は普通に下に落ちている。
(おかしい......今日、何かがおかしい)
昼休み。
ユウキは保健室に向かった。体調が悪いわけではないが、なんとなく落ち着かない。
廊下を歩いていると、また異常が起きた。右に曲がったはずの廊下が、なぜか左に曲がっていた。いや、正確にはユウキの体が右に曲がったのに、世界が左に曲がったのだ。
「これは......」
めまいだろうか。いや、違う。視界はクリアで体もしっかりしているが、空間そのものが歪んでいる。
「誰か......」
助けを呼ぼうとしたが、周りには誰もいなかった。深呼吸をして目を閉じ、十秒数えてから目を開ける。廊下は元に戻っていた。
(俺、どうかしちゃったのかな......)
放課後、ユウキは一人で帰路についた。田中は部活があるからだ。住宅街を歩いていると、また違和感を覚えた。電柱の影が、太陽の反対方向に伸びている。
「これは......間違いない」
ユウキは立ち止まり、周りを観察した。他の人は何も気づいていない様子で普通に歩いている。
(なんで俺だけ......?)
その時、視界の端に半透明のウィンドウのようなものが映った。
『ERROR: 物理演算システム 座標軸反転 0x00F3A2』
「これ......エラーメッセージ?」
ユウキが手を伸ばすと、ウィンドウは消えた。同時に電柱の影も正常な位置に戻った。
「一体、何が起きてるんだ......」
帰宅したユウキはすぐに自分の部屋に入り、机に向かって今日起きたことをノートに書き出した。
・階段を上ると下がる
・葉が上に落ちる
・空間が歪む
・影が逆方向
・エラーメッセージ
「全部、物理法則が狂ってる......いや、バグってる?」
プログラミングが趣味のユウキには、その言葉がしっくりきた。まるで世界がプログラムで、そこにバグが発生しているような感覚だ。
その時、部屋の電気が点滅した。
「停電......?」
いや、違う。電気の点滅が規則的だ。まるでモールス信号のように。点・点・点、線・線・線、点・点・点。
「SOS......?」
次の瞬間、部屋の中央に光の柱が現れた。眩しくて目を閉じる。光が収まると、世界の音が消えていた。時計の針も風の音も止まっている。その静寂の中心に、天使が立っていた。
「初めまして、高橋ユウキさん。私はミカエラと申します」
金色の髪、白い羽、頭上には輪。
教科書で見たような、典型的な天使の姿。
ユウキは声も出なかった。
「驚かれるのも無理はございません。しかし、時間がございませんので、説明させていただきますね」
ミカエラは、手に持っていた本を開いた。
いや、よく見ると逆さまに持っている。
「えーと......」
ミカエラは慌てて本をひっくり返した。
「失礼いたしました。あなたには、世界の『バグ』が見える素質がございます」
「バグ......?」
「はい。この世界は、神様がプログラミングで管理しています」
ミカエラは真面目な顔で続ける。
「世界の仕組みはね、全部“コード”で動いているんです。時間も、重力も、人の感情も。……でも、コードって、完璧には動かないんですよ」
「じゃあ、今日俺が見たのは......」
「はい、世界のバグです。通常、人間には見えません。見えたとしても『気のせい』として処理されます」
「でも、大規模なバグの場合は......どうなるんです?」
ユウキが聞いた。
「大規模なバグは、さすがに人々も体験します。ただし——」
ミカエラは少し困ったような顔をした。
「人間の脳は、理解できないことを理解できる形に変換してしまうんです」
「どういうこと?」
「例えば、重力が反転するバグが起きたとしましょう。一般の人は『突然の強風だった』『めまいがした』と記憶を書き換えます。時間が止まれば『気を失っていた』と。つまり、バグを『事故』や『災害』として処理してしまうんです」
「じゃあ、真実を見れるのは......」
「デバッガーだけです。ユウキさんには、世界の本当の姿が見えています」
ユウキは椅子に座り込んだ。
「でも、稀に、バグを認識できる人間が現れます。あなたのように」
「なんで俺が......」
「それは......」
ミカエラは本をめくる。また逆さまだ。
「あの......その本」
「あ、また!」
ミカエラは赤面してひっくり返した。
「新人なんです」
「新人……?」
「はい。まだ三ヶ月で」
「三ヶ月で天使ってなれるの?」
「短期集中講座でした!」
なんだか、親近感が湧いてきた。
「それで......俺に何をしろと?」
「デバッガーになっていただきたいのです」
「デバッガー?」
「はい。世界のバグを見つけて、報告し、修正する仕事です。
今では、あなたのような“生身のデバッガー”は、世界に数千人しかいません。
ほとんどの作業は、無機質なデバッグAIがこなしています。」
ミカエラは契約書らしき羊皮紙を取り出した。
「こちらに署名していただければ、正式にデバッガー見習いとして——」
「ちょ、ちょっと待って!」
ユウキは手を上げた。
「いきなりすぎる。もう少し考えさせてくれ」
「そうですね。申し訳ございません。焦りすぎてしまいました」
ミカエラは申し訳なさそうに羊皮紙をしまった。
「でも、あなたには素質があります。今日見たバグの数と種類......新人デバッガーでも、初日にそれだけ見つけるのは稀です」
「......俺、普通の高校生活を送りたいんだけど」
「大丈夫でございます。デバッガーの仕事は、日常生活と両立できます。むしろ、日常の中でバグを見つけることが重要なのです」
ミカエラは優しく微笑んだ。
「考えてください。世界を守る、とても大切な仕事です」
「世界を......守る」
その言葉が、ユウキの心に響いた。
「一つ聞いていい?」
「はい」
「バグを放置したら、どうなる?」
ミカエラの表情が曇った。
「小さなバグは、自然に修復されることもあります。でも、放置すると大きくなることも。最悪の場合......」
「最悪の場合?」
「世界が、クラッシュします」
沈黙。
ユウキは窓の外を見た。
いつもと変わらない夕暮れの景色。
でも、その裏側では、世界がバグだらけかもしれない。
「......分かった」
「え?」
「やるよ。デバッガー」
ミカエラの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか!」
「ただし、条件がある」
「なんでしょう?」
「学校生活は続ける。友達にも迷惑かけない。成績も落とさない」
「承知しました!」
ミカエラは嬉しそうに羊皮紙を取り出した。
今度は正しい向きで。
「では、こちらに署名を——」
ユウキがペンを持とうとした瞬間。
部屋の天井が、ゆっくりと回転し始めた。
「え......また?」
「あ、これは重力バグですね。レベル2です」
ミカエラは慌てず、手を掲げた。
すると、半透明のウィンドウが現れる。
『システム管理ツール v3.5.2
バグ修正モード起動中......』
「見ていてください。これが、デバッガーの仕事です」
ミカエラの指が空中で動く。
まるで見えないキーボードを打っているように。
『重力ベクトル再計算......完了
座標軸正規化......完了
物理エンジン再起動......完了』
天井が元の位置に戻った。
「これで修正完了でございます」
「すごい......」
ユウキは目を輝かせた。
「君も、すぐにできるようになりますよ」
「本当?」
「はい。素質がありますから」
ユウキは深呼吸をして、ペンを走らせた。
この一筆が、もう「普通の高校生」には戻れない一線になる気がした。
瞬間、体が光に包まれた。
温かくて、優しい光。
『契約完了
デバッガー見習い登録
ID: JPN-2024-0157
担当天使: ミカエラ
レベル: 0』
「おめでとうございます、ユウキさん。これから、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
二人は握手を交わした。
「それで......いつから始めるの?」
「明日の朝から、基礎訓練を——」
その時、ミカエラの頭上の輪が、赤く点滅し始めた。
「あ、緊急呼び出しです」
「もう?」
「はい。どうやら、大規模バグが発生したようで......」
ミカエラは申し訳なさそうに微笑んだ。
「申し訳ございません。本日はここまでにいたしますね。明日、学校でお会いしましょう」
「学校に来るの?」
「はい。転校生として!」
そう言うと、ミカエラは光の中に消えた。
一人残されたユウキは、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
「......何が起きてるんだ、俺の人生」
でも、不思議と嫌な気分ではなかった。
むしろ、少しワクワクしていた。
ユウキは窓の外を見た。
夕焼けの中、街の灯りが一つずつ点いていく。
この普通の風景の裏側。
そこには、誰も知らない世界がある。
「明日から......か」
ユウキは、新しい人生の始まりを感じていた。
普通の高校生、高橋ユウキ。
世界のバグを修正する、デバッガーとして。
これは、彼の長い冒険の、最初の一歩だった。




