迫りくる脅威
バーレムの森が再び昏れようとしている、ベルサーレにとって二年見慣れた景色、それをずっと一人で見ていた。
だが今は隣に人がいた幼馴染の大男が。
ベルサーレは焚き火の向かい側に座る幼馴染の顔をふと見る。
きのう偶然に再会し泉の花園で共に戦った、そして屍人の襲撃を退けて、今日一日森の中をひたすら進んだ。
彼女は長い間止まっていた時が再び動き出した様なそんな奇妙な興奮を感じていた。
焚き火の上で干し肉のスープが湯立ち始めた、あたりに良い匂いが立ち込め始める。
ルディガーは二年前と大きく変わった処はないが、少し野性味が増して表情に陰りが増えた様に感じる。
敵だらけの城で苦労したんだなと思った。
以前の一点の曇もない快活さや明朗さは随分と失われた、ベルはそれが好きだったがそれを鬱陶しいと感じる事もあったものだ。
『こいつもいろいろ苦労したんだろうな』
そう心の中で独り言を並べながら焚き火に木切れを放り込んだ。
ルディガーが自分を見つめる彼女に気づく。
「さっきからどうした?ベル」
「うん?昔とあまり変わって無くて良かったなと」
ルディガーは笑う。
「お前も大人になったな」
「いや背は伸びてないよ」
ルディガーはそれに微笑む、ベルサーレは最後にあった時より随分と女性らしくなっていた、今の彼女を男の子と見間違える者はいない。
「いや、お前も変わらず元気で良かった」
変わりにルディガーの口から出てきた言葉だ、その言い草に微妙に胸にわだかまる何かをベルサーレは感じる。
僅かに沈黙が続く。
「こうするのも久しぶりだね」
「そうかもしれんな、だがな二人だけなのは神隠しの時だけだぞ?ベル
いつも自分たちの周囲にルディガーの近臣やクエスタやエステーべの者達がいた、たしかに二人きりになったのは神隠の時ぐらいだ。
二人の周囲には誰かがかならず居た、そして彼らから目を離さなかった、公国の公子と有力豪族の娘なのだから当たり前ではある。
ベルサーレは昔ルディの回りにもう少し人がいたなと思い返す。
「子供の頃はルディの回りにたくさん大人がいたよね?」
ルディが今度は苦く笑った。
「俺が小競り合いで手柄を立てる度に人が減っていったな」
「ああ、そうなんだ、ハハハ」
彼女は乾いた笑いを上げたが、それが下手な田舎役者の演技にしか見えなかった、彼も何か言いたそうになったが何も言わなかった。
「そろそろだな」
ベルは焚き火で茹でていた干し肉スープを小さな木の皿によそおいルディに手渡す、保存用の塩や薬草成分がスープに溶け出してちょうど良い味になっていた。
二人は堅いパンをスープに漬けて柔らかくしながら食べた、最後に酸味のやたらと強いアプリコットに似た果物を齧る。
食糧は狩猟小屋にあった分は総て持ち出したが、節約しても一週間は保たないだろう。
やがて質素な食事を終える。
「アマンダに火急を告げるように頼んだが間に合ったか心配だ」
「こんな事になりそうだったので父さんは準備していたようだけど」
「さすがだな、お前もブラス殿と連絡を取り合っているたしいな」
「うん公都や村には入れない事になっているけど、こっそり行けば大丈夫だよ」
「危ない事はよせ」
「アマンダは俺について来たかったようだが、皆への連絡を優先してもらった」
「アマンダの悔しそうな顔が想像できるよね」
余計な一言をベルが付け加えた。
「・・・なんだ?」
ベルサーレの纏う空気が突然かわり、彼女の表情が厳しく変わった。
「どうしたベル?」
遠くで鳥の群れが騒いでいるのが聞こえる、群れが一斉に飛び立つような音と騒がしい鳴き声が聞こえた、思わず立ち上がった彼女は音のする方角に意識を傾ける。
「遠くで鳥の群れが騒いでいる」
「追手か?食事の後で運が良いな」
彼も愛剣の柄を握りしめて立ち上がる、何よりもベルの野生の五感を信頼していたからだ。
更に近くで鳥の群れが一斉に飛び立ち上空で激しく騒ぎ始めた。
森の木々の向こう側が僅かに明るく照らされる、それは鈍い赤い光だ。
「ベル!!気をつけろ何か来るぞ」
「何かいやな感じがする」
彼女はバックパックに駆け寄ると、短剣を抜き取り腰に挿した、そして布に包まれた愛剣を取り出し紐を弛めた。
すぐに森の木々の間を俊敏に躱しながら鈍く輝く何かが凄まじい速度で接近してきた、ルディガーは既に愛剣をかまえ迎撃の準備を固めている。
「早い!」
それは突然の突風の様に減速無しで二人の前に飛び込んでくる、二人ともそれの突進を躱した。
焚き火は踏み潰され、キャンプ用の金属製ハンガーは圧し曲げられ、彼女のバックパックが数メートル吹き飛ばされた。
そいつは急減速し停止すると二人に向き直った、その怪物は敢えて似ていると言えるなら狼に似ていた、全長3メートル程の巨躯に六本足、全体が鈍い赤色で背中は明るいオレンジ色に輝く、背中には剣のような背びれが並び二本の長い尻尾を靡かせていた。
鮫の様な頭に凶悪な牙が並び、炎を宿した目から邪悪な知性が感じられる。
グリンプフィエルの猟犬は一度狙った獲物は決して逃さない、グスタフが召喚してから僅か一時間足らずでここまで到達したのだ、だが二人ともこの猟犬の正体は知らない。
「ルディ、こいつが召喚精霊なのか!?」
「そう考えるべきだな、詳しいことはわからん」
「ベル俺が相手をする、支援を頼む」
「わかった!」
その瞬間グリンプフィエルの猟犬が動く、正面のルディに真っ向から襲いかる、そのタイミングでベルサーレがいつの間にか拾って隠していた石を猟犬に投げつけた。
猟犬は躱す労すら惜しみそのまま石を受けたがほとんどダメージは無い、だがその石には看過できない程の威力があった、彼女には見かけからは想像出来ない程の力があった。
彼女を脅威と感じたのか体を捻ると長い灼熱した尾を鞭の様にしならせ彼女に浴びせかけた、これを間一髪で躱したが、その隙を見逃すルディガーでは無かった、猟犬の左肩に重い斬撃を叩き込んだ。
にぶい金属が軋む耳障りな音が響きわたる。
「ぐわっ!?」
だが叫び声を上げたのは猟犬ではなくルディガーだ。
「どうした?」
ベルサーレが猟犬に対峙するルディガーに呼びかける。
「気をつけろベル、返り血を浴びたこいつの血は普通ではないぞ!」
猟犬の左肩に傷跡が生じていた、黒い血の様なものが湯気を上げながら吹き出している。
「こいつの血は煮えたぎっている、それも油か酸のような血だ、こいつの手応えだが薄い鉄板を叩き割ったようだ」
「怪我は?」
「大した事はない、血の飛沫を僅かに浴びただけだ、傷つける事ができる相手を恐れる必要など無いのだ」
ルディガーは若い精悍な整った貌に凄まじい微笑みを浮かべた。




