異界の猟犬
ルディガー公子の反逆騒動から二日目が暮れようとしている、バーナムの森を捜索していた部隊の伝令がボルトの町に設営されたエルニア軍司令部の天幕に戻り始めていた。
ボルトの町は公都アウデンリートの東に位置する寂れた町で、,バーレムの玄関と呼ばれていた。
捜索隊の指揮官が司令部要員の整理した報告書を読み下した、そしてしだいに状況を掴み始める。
第1小隊が担当した獣道沿いから宰相直属部隊の遺体を複数確認したと報告があった、第2小隊が狩猟小屋で酷く損壊した遺体6人分を発見、そこで捕虜になっていた生存者を1名確保、生存者は疲労していたが命に別状は無くこちらに帰還中である。
また看過できない事に殿下の協力者らしき女性がいた事、二人は奥地に去ったが目的地などは不明とあった。
指揮官は森に入った宰相直属部隊がほぼ全滅したと結論付けた。
「宰相直属部隊20名が壊滅したが、殿下はそこまでお強かったか?」
困惑した指揮官は副官に思わずたずねてしまう。
「森の内に殿下の協力者がいたと思われます、待ち伏せされ全滅させられたのではありませんか?」
壮年の副官はそう答えた。
「たしかに協力者が複数いる可能性もあるか、まずは魔導庁長官と宰相名代に現状をお知らせしなくてはならん」
隊長は立ち上がると精霊召喚に立ち会うためにボルトを訪れている高官達に報告に向かう。
エルニア軍の野営地からそう遠くないボルトの町の郊外に、召喚術を行うための儀式の場が築かれていた、そこで精霊召喚術師のグスタフの監督の元で魔術陣の構築が終わり、術式に必要な触媒、疑似依代を形成する為に必要とされる物資が運び込まれ必要な手順で処理されている。
立会人として派遣されたイザク=クラウス魔導庁長官とヨーナス=コーラー総務庁副長官は、捜索隊指揮官の報告を受け臨時の会議を大天幕で行う事を決める。
席についたコーラーが憂いた様子でクラウスを一瞥した。
「森に入った宰相閣下の手の者が全滅し、ルディガー殿下は逃げ切ったと判断してよろしいかと」
「ああ、謎の女が一緒だったそうだな」
クラウスはエルニア軍指揮官に対して確認を求める。
「生存者からの報告ですが、若い女性で名前は不明また非常に腕が立つようです」
「殿下が城から脱出した方法もまだ調査中だ、殿下の逃走を支援した者達がいると考えるべきだな」
ヨーナスはイザクに向き直った。
「今はそれを詮索する時ではありませんぞ?」
イザクは首を左右にふる。
宰相名代のヨーナスが精霊召喚による反逆者ルディガーを討伐する命令書をテーブルに置いた。
それには既に宰相のサインが入っている、附帯条件として公子ルディガーの捕縛に失敗したと名代が判断した場合に命令は実行される事になっていた。
「わかった、そろそろ準備が完了するはずだ、終わり次第精霊召喚を行い反逆者ルディガーを討滅する」
宰相名代が最後に命令書にサインを記した。
「さて公都に伝令を送るぞ、宰相閣下に状況をお知らする」
魔導庁の新人魔術師ギー=メイシーはめったにお目にかかれない大型精霊の召喚に立ち会える喜びを噛み締めていた、大型の精霊召喚など一生に一度お目にかかることすら難しい。
監督者のグスタフの態度には鬼気迫るモノがある、また先輩の魔術師達も真剣に作業に取り込んでいたが、下働きのギー達はそれらを観察する余裕があった、だがそれを悟られる訳にはいかない、怒りを買って追い出されては堪らない。
ギーは召喚術師ではないが、魔術陣や触媒などは見慣れた精霊術の派生型に過ぎない事はおおよそ見当が付く、だが疑似依代の触媒が大問題だ、召喚術師達が術の行使で普段から使っているのは知ってはいたが。
彼らが疑似依代を形成し精霊が物質界に実体化する為の踏み台にしている事は知識としてある、だが目の前の大量の触媒の山はなんなのか?
まず半径5メートル程の大きな魔術陣サークルの中心に、火の精霊の力を封印した炎水晶が二つ、同じく火の精霊の力を封印した紫水晶の大きな固まりが置かれている。
その中心の半径3メートルのサークルの内側に大型犬の死体が数体、砂鉄、硫黄、牛の骨を砕いた白い物質が山を成していた、さらに真鍮のインゴットの山、塩水が入った大樽4樽、大きな油壺、柄を外した短剣が12本、同じく柄を外したダガーが多数、牛の皮革の束、長さ3メートルの長さの鞭が二本、外部のサークルには、大量の木炭が敷き詰められ、各種の香草と薬草が詰められた儀式用のバスケットが取り囲むようにいくつも置かれていた。
それらは決められた手順に従い配置され、魔術回路の起動規則に従い順次反応させなくてはならないのだが、魔術陣が見えなくなるほど触媒が置かれた魔術陣など見たことがなかった、ギーはこの召喚の場に居合わせた幸運を心の底から神に感謝した。
この時クラウス魔導庁長官が儀式場にやってきた、他に数人ついてきている。
「グスタフ準備は完了したか?」
クラウスが枯れた声を響かせる、その場にいた総ての者達がグスタスに視線を集めた。
「完了しました何時でも始められます」
「でははじめてくれ」
そして儀式の邪魔になる者は遠ざけられた。
「では始める!!」
グスタフは詠唱と共に魔法陣の外縁部の魔術回路を起動させた、グスタフが身につけている幾つかの触媒が音を立てて砕ける、これにより香草や香油の分解が始まった。
あたり一帯が濃厚な香りに包まれる、これは幽界との通路を設定しやすくする為の手順だ、擬似的にホットスポットを作る、似たような事は他の精霊術でも珍しくはないが規模が違っていた。
詠唱はやがて第二段階に進みグスタフが身につけている幾つかの触媒が更に音を立てて消滅した、外縁部の木炭の燃焼が始まる、この燃焼は煙も出さずに燃焼が進む、これらは炎の精霊への供物で通路の形成の為に消費される。
やがて詠唱は第三段階に進む、中央部が白い霧がかかった様になり、やがて膨大な熱が魔術陣から放射され始めた、障壁によりほどんどの熱が遮断されているのに、その場にいた者共はその輻射熱に耐えなければならなかった。
ギーも大量の汗をかいていたが、何も見逃すまいと儀式を夢中で見つめるだけだ。
やがて膨大な水蒸気が中心部から吹き出し、それは魔法陣の外縁で停止し上に吹き上げる、見えない煙突から轟音と共に白い蒸気が吹き出した。
立会人の宰相名代ヨーナス=コーラーが思わずささやいた。
「これはまた凄まじいな」
近くにいたギーも内心大いに賛同する、精霊術士の彼ですら驚いているのだから。
水蒸気が晴れるに従い、中心部にマグマの様な固まりが見えてきた、それは次第に何かの姿を形作る。
見るものはその凶悪な姿に畏怖と恐怖を覚えた、異界の邪悪な狩猟民族の猟犬として名高きグリンプフィエルの猟犬がその姿を表しつつあった。
そしてここからが儀式の本当の山場だ。
第四段階で精霊を支配下に起き第伍段階で命令を与える。
これらの最終段階がもっとも危険を伴う、この契約と強制命令がグスタフに魂と生命を削る負担を強いる。
グスタフが詠唱を始めるとまた触媒が音を立てて割れる、グスタフが苦悶の表情を浮かべている。
猟犬が咆哮を上げで何度も魔法障壁に体当たりを加えるが魔法陣は耐えている、だが永久に耐えられるわけではない。
だが次第に猟犬は大人しく成り始め、やがてお座りのような姿勢を保つ。
ついにグスタフがノロノロと右手を上げた。
これは事前に決められていた召喚精霊を隷下に納めた事を意味する、会場から安堵のどよめきが上がった。
そこで一人の精霊術士が、ルディガーの私物と思われるローブを捧げ持ち、これを魔術陣の前に置くと逃げる様に魔術陣から遠ざかった。
グスタフが最後の詠唱を始めると残りの触媒が総て音を立てて崩壊した、すでに魔法陣の障壁は消滅、猟犬がルディガーのローブの匂いをかぐような仕草をしたが、その時ローブがかき消す様に消滅した。
魔術陣から解放されたその異界の猟犬は、何に似ているかと言えば犬か狼に似ていた、全長3メートルの巨大な体に六本の足、全体が鈍い赤色で背中は明るいオレンジ色に輝き、背中には剣のような背びれが二列に六本ずつ並び、二本の長い尻尾が意志があるかのようにうねっている。
頭は犬と言うより鮫に似ている、口は鮫の様に巨大に裂け鈍い銀色の牙が並ぶ、その目は炎を宿し邪悪な意思を持って光輝いていた。
見るものはグスタフに制御されていると解っていても、その凶悪な姿に恐怖を覚え声も出なかった。
ギーはその姿を脳裏に焼き付けようと僅かも見逃すまいと目を凝らしている。
やがてグリンプフィエルの猟犬はバーナムの森に向け加速しながら走り始めた。
それはグスタフが倒れるのと同時であった。




