第9話 再びダンガー子爵現る! 生きたいっ
◆脱出の夜、追跡の刻――悪役令嬢、逃走す◆
夜の帳が下りる頃、館の空気は不気味なほど静まり返っていた。
――完全に、包囲されてる。
廊下のあちこちに、ラ・ロシェ伯爵の私兵たちが立っていた。表向きは「警備強化」という名目。でもその実、目的はひとつ――
わたしを、捕らえること。
「グリモア、抜け道は?」
《確認中……西棟地下通路に、隠し扉を発見。旧時代の逃走路に通ず》
「よし。そこから出る」
体を包むドレスは動きづらくて仕方ないけど、今さら着替える暇なんてない。スカートの裾をざっくりと裂いて、動きやすいようにまとめる。
手には、魔導書と短剣。
「……逃げてみせる。あんな老人の言いなりになって、誰かの道具になんて、なってたまるか!」
小さく呟いて、わたしは動き出した。
◇ ◇ ◇
廊下の角を曲がった瞬間――
「そこまでだ、リリス=ヴァレンタイン!」
鋼の声とともに、私兵が剣を構えて立ちふさがった。
全身を黒い鎧で覆い、眼光は鋭い。訓練された兵士、それも数人いる。
「令嬢、おとなしくお戻りください。さもなくば――」
「嫌よ」
返事はそれだけだった。
わたしは魔導書を開き、魔力を展開する。
《展開:影の魔法“ダスク・ブレイド”》
バシュンッと音を立てて、足元から黒い刃が立ち上がる。それがうねるように兵士たちへ襲いかかった。
「ぐっ――!」
「魔法だ!こいつ、ただの令嬢じゃない!」
混乱の中、わたしは一気に突っ込んだ。黒い影の刃が相手の動きを鈍らせ、その隙に彼らの間をすり抜ける。
「グリモア、次の障害は?」
《北廊下。三十メートル先に、盾兵三名》
「了解」
廊下を駆ける足音の向こうで、また剣の音が鳴る。
――心臓がバクバクする。足が震える。怖くてたまらない。
でも、止まったら終わりだ。
伯爵の「実験体」になるくらいなら、命を賭けてでも逃げる!
◇ ◇ ◇
地下通路の入り口にたどり着いたとき、すでにわたしの呼吸は荒れていた。
だが、そこで立ちふさがったのは――見覚えのある顔。
「やあ、お嬢ちゃん。相変わらず無茶するね」
「……ダンガー子爵……!」
まさかの再会。でもどうして彼がここにいるの? なんのために――
「待って。まさか、あんたが通報したの!?」
「通報? まさか。むしろ俺は……君を逃がしに来たんだよ」
「は?」
思わず言葉を失う。
「ラ・ロシェなんてのは、古い血筋の化け物だ。あんなヤツに飲み込まれるくらいなら、君はまだ“自由”でいた方が面白い」
「……信用できると思ってる?」
「しなくていい。でも、君の目的は逃げることで、俺の目的も“あの爺さんを困らせる”こと。利害は一致してる」
ニッと笑う彼の手には、館の構造図。
どうやら本気で逃がす気らしい。
「……分かった。でも、あんたのことは信用しない」
「それでいいさ」
彼が手で示した扉を開けると、そこには古びた石造りの通路が伸びていた。
「この先を真っすぐ進めば、領地の外れに抜ける。あとは馬を盗んででも王都を目指せ」
「王都……」
そこに、わたしの知ってる人たちがいる。学院の友人たち――
「それと」
ダンガー子爵が、ひとつ指を立てた。
「“ラ・ロシェ屋敷の封印の遺産”、お前が何を持ち出したか知らないが……ラ・ロシェは本気でお前を狙ってる。絶対に油断するな」
「……分かってる。ありがと」
そして、わたしは走り出した。
◇ ◇ ◇
暗く長い地下通路。遠くから、足音が迫ってくる。
《警告。後方より三名接近。魔導具装備確認》
「仕掛ける。グリモア、“瘴気結界”展開」
わたしは後ろを振り返り、通路に黒い魔法陣を描いた。
もわもわと立ち上る瘴気が、通路を覆い、追手たちの視界を奪っていく。
――そのまま、わたしは抜け道を駆け抜けた。
冷たい夜風が頬を打つ。
森が広がっている。空は星でいっぱいだった。
「……わたし、逃げきれた……」
膝から力が抜けて、その場に座り込む。
でも、泣かなかった。
怖かった。震えていた。でも――
今、わたしは“自由”だ。
リリス=ヴァレンタインではなく、稲村菜々として。この世界を生きる。