第8話 リリス VS ラ・ロシェ伯爵 できるかじゃねえ…………!
◆動き出す影――ラ・ロシェ伯爵の眼◆
それは、とても静かな朝だった。
窓から差し込む陽射しは柔らかく、鳥のさえずりもどこかのんびりしていて、まるで“平穏”を装っているような時間。
だけど、わたしの中では何かがざわざわと騒ぎ続けていた。
侍女を救って以来、館の使用人たちの目が明らかに変わった。あれ以来、誰もわたしに逆らわない。むしろ、近寄るだけで怯えるようになった。
「リリス様……今日のお茶の香り、いつもと変えてみました。お気に召さないようでしたらすぐに……!」
侍女のひとりが、震える手でティーカップを差し出す。
「ありがとう。大丈夫よ」
そう言って笑ってみせるけど、彼女の緊張は解けなかった。
魔導書《グリモア=ネメシス》の力は確かに強い。でも、それは同時に“異質”な存在で、まるで毒のように周囲を侵食している。
「このままじゃ……」
わたしが思わずつぶやいたときだった。
「おや、調子はよさそうだな。お嬢様」
その声は、背後から降るように聞こえた。
思わず、全身に冷たいものが走る。
振り向くと、ラ・ロシェ伯爵が立っていた。
歳の割に背筋はまっすぐで、淡く白んだ髪と、氷のような鋭い瞳。まるで感情のない人形のように、冷たく整った顔立ち。
「……おはようございます、伯爵」
「ふむ。顔色がずいぶん良くなったようだな。ここのところ体調を崩していたと、報告を受けていたが」
にこやかな口調の奥に、微かな疑念の色がにじんでいる。
――やっぱり、気づかれてる。
わたしがあの夜、館の地下に入ったことも。禁術を使ったことも。
伯爵のような男が気づかないはずがない。
「おかげさまで、だいぶ落ち着いてきました」
「それは何より。だが、あまり無理はするな。……おまえには、“これから”があるのだから」
“これから”という言葉に、妙な重みがあった。
「……ラ・ロシェ家の“妻”として?」
思わず皮肉を込めて尋ねると、伯爵はほんの少しだけ、目を細めた。
「その通りだ。おまえは、我が血族に組み込まれる。過去に何をしていようが、それは些細なことだ。だが――」
伯爵は、ゆっくりと椅子に腰かけ、指を組んだ。
「“今”おまえが何をしているのか。それには非常に興味がある」
「……それって、どういう意味ですか?」
「私の館の地下に、勝手に足を踏み入れた者がいた。夜更けに、重たい封印の扉が開いた音を、私は聞いている」
冷たい声。
まるで、ナイフを喉元に突きつけられたような感覚だった。
「……おっしゃっている意味が、よくわかりません」
「そうか。なら、わからせるしかないな」
その瞬間、空気が変わった。
ラ・ロシェ伯爵の目が、まるで“獣”のそれのように光を帯びる。
「リリス=ヴァレンタイン。おまえは今、“契約者”となった。そして、その力は、私の領地の“規律”を乱し始めている」
「――っ!」
まさか、ここまで調べがついてるとは……!
《警告。契約者の位置情報、すでに第三者に捕捉されている》
頭の中で、魔導書が囁く。
「……つまり、伯爵はわたしを“排除”しようとしてるのね」
「いや、違うよ」
意外にも、伯爵は笑った。
「私はおまえに選択肢を与えに来た。私に従うならば、その力を“保護”してやろう。私の研究のために、その知識を差し出せ」
「……なるほど。つまり“実験体”になれってこと?」
「言い方はどうとでも取ればいい」
伯爵の口調は静かだったが、完全に“支配者”のそれだった。
「もし拒めば?」
「そのときは、君の存在そのものを“無かったこと”にするだけだ」
部屋の空気が、急に重くなる。
視界の隅に、使用人の影が動いた。
……監視されてる。
もう、逃げ場なんてない。
でも――
「……わたしは、あなたには従わない」
そう言った瞬間、自分の中にある“恐れ”が、すっと消えていった。
「自由になるために、わたしはこの力を手に入れた。誰かの道具になるためじゃない」
ラ・ロシェ伯爵が、目を細める。
「愚かだな。おまえは、まだ“この世界の真理”を知らない」
「知る必要なんてないわ。わたしは、わたしのやり方で進むから」
その瞬間、わたしの胸元の魔導書が、淡い光を放った。
《契約者の意思、確認。抵抗準備モードへ移行》
伯爵の目が、その光に一瞬だけ怯む。
わたしは椅子を蹴って立ち上がり、そのまま部屋を飛び出した。
後ろで、伯爵の声が低く響く。
「……逃がすな。彼女はもう、“禁術保持者”だ」
その声に応じて、何人もの足音が、わたしの後を追ってきた。
だけど、負けない。
これは、わたし自身のための戦いだ。
“悪役令嬢”じゃなく、“稲村菜々”としての――本当の人生の始まりなんだから。