第7話 悪役令嬢リリス、魔法を使う。 メタモール…………
◆悪役令嬢、奇跡を起こす◆
地上に戻ったのは、夜明け前だった。
館の廊下は静まり返っていて、わたしの足音だけがやけに大きく響いていた。何も知らなかった昨日までのわたしなら、きっとこの闇が怖くて仕方なかったと思う。
でも今は違う。
胸の奥に、熱いものが宿っている。
《契約、完了せり。我が主よ、汝の命に応じて、力を与えん》
体の中に宿った魔導書《グリモア=ネメシス》の声が、心の奥でささやく。
――わたしは、もう無力な侯爵令嬢じゃない。
魔法陣の記憶、禁術の詠唱、未知の構文式が、脳内に次々と浮かび上がってくる。たった一晩で得た知識じゃない。数百年分の知識が、契約とともに流れ込んできたのだ。
「……これはもう、チートどころの騒ぎじゃないってば……」
そう思っていた、そのときだった。
「ひぃっ! ど、どうしてこんな時間に……っ!」
侍女のひとりが、曲がり角でばったりわたしに出くわして、悲鳴をあげた。
「……あなた、大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃないです……お、お嬢様、お顔が……血の気が……!」
「え?」
鏡も何も見ていなかったけど、きっとわたしは今、かなりヤバい顔をしていたんだと思う。徹夜明けで、泥まみれで、しかも目が赤く光ってたらしい(後から聞いた話だけど)。
「ごめんね、驚かせちゃって」
わたしはできるだけやさしく微笑んでから、彼女に近づいた。
でも、そのときだった。
「……っ、く……!」
侍女が急に胸を押さえて、崩れ落ちた。
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
慌てて駆け寄ると、顔は青白く、呼吸も浅い。明らかにただ事じゃない。
――まさか、毒?
「誰か……! 誰か来て!」
叫んでも、廊下に応じる声はない。館の夜警は別棟にいて、侍女の通路なんて、誰も気にしていない。
「どうしよう……!」
このままじゃ、彼女が――
そのとき、心の奥に、あの声が響いた。
《蘇生の禁術“リグレス・スパイア”――発動条件、対象の魂がこの場にとどまっていること。魔力供給、可能》
「わたしにできるの? こんな魔法……!」
《可能。主は契約者なり》
わたしは彼女の胸に手をかざした。
指先に、赤黒い魔力が集まってくる。まるで血が逆流するような、熱く重たい力。
「お願い……助かって……!」
わたしは目を閉じて、魔導書が教えてくれた詠唱を口にした。
「《リグレス・スパイア――命の刻印、汝の名のもとに灯れ》」
パァァァァッ!!
侍女の体から、かすかに光が立ち上る。薄く透き通った羽のような何かが彼女の胸に降り注ぎ、呼吸が……戻った。
「っ……う……ぅ……」
目を開けた彼女は、戸惑いと恐怖が混ざった顔でわたしを見た。
「お、お嬢様……?」
「大丈夫、もう大丈夫よ」
わたしは震える手で彼女の頬に触れ、にっこりと微笑んだ。
そう、この瞬間。
わたしは初めて、この世界で“誰かを救った”。
魔導書の力なんて、ただの破壊のためだと思ってた。でも違った。
これは、生きるための力でもある。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
侍女の病室を訪ねてきた医師が「信じられない」と首を振っていた。
「毒にやられていたのは確かです。あのままなら……でも、まったく痕跡が残っていない。こんな回復は見たことがない」
医師が部屋を出て行ったあと、彼女がこっそりわたしに尋ねてきた。
「……あのとき、何をしたんですか?」
「ちょっとした魔法よ」
「貴族魔法じゃない……もっと深くて、古い……何か……」
わたしは笑ってごまかしたけれど、彼女の瞳には、明らかな“恐れ”があった。
そう。これが禁術の代償。
誰かを助けても、その力の異質さゆえに恐れられる。
でも、それでいい。
わたしはもう、ただの“飾り物の令嬢”じゃない。
《我が主よ、初めての力の行使。その代償、記録せり》
「……記録?」
《魂の欠片を、ひとつ頂いた》
その声とともに、わたしの中で何かがふっと消えた。
昔の友達の名前が、ひとつ思い出せなくなった。
「……これが、契約の重さ、か」
でも、構わない。
わたしは、ここで生きていく。
魔導書とともに、悪役としてじゃなく、“自分の意思で戦う者”として。