第6話 リリスの契約 闇の力を秘めた鍵を――――
◆契約の刻――悪役令嬢、禁術に触れる◆
螺旋階段をどれだけ下りたのか、もはや分からなかった。
湿った空気が肌にまとわりつき、ランタンの火が揺れるたびに、心の奥がぞわぞわと波打つ。
「ここ、本当に館の地下……?」
どこか別の世界に来てしまったような錯覚。
最下層にたどり着いたとき、目の前に現れたのは、巨大な鉄の扉だった。
錆びついた表面には、見たことのない文字と、禍々しい魔法陣がびっしりと彫り込まれている。扉の中心には、手のひら大の黒曜石が埋め込まれ、それがぼんやりと赤く脈動していた。
まるで――心臓の鼓動みたいに。
「これって……封印?」
手を伸ばそうとして、思わずためらう。
けど、もう戻れない。あの伯爵のもとへ帰るくらいなら、わたしは“こっち”の扉を選ぶ。
「ごめん、小説の世界の理屈なんて知らないけど……もう、黙って虐げられる役はゴメンなんだよね」
決意とともに、黒曜石の部分へそっと指先を置く。
瞬間――
バチッ!!
激しい光と衝撃が走り、わたしはその場に倒れ込んだ。
耳鳴り、鼓動、ざわつく空気。
――そして、誰かの声が、頭の奥に響いてきた。
《問う。汝、我を求めし者なりや》
「……っ、え?」
《血も涙もなく、名もなき夜に落ちる覚悟は、あるか》
まるで、誰かが脳内に直接話しかけてくるような感覚。
これって……魔導書の“意志”?
原作で読んだことがある。高位の禁術書には、知性を持つ“人格”が宿ることがあるって。
《汝が真に“契約”を望むならば、その名を以って答えよ。我に力を求めるのは、誰か》
――名を、名乗れって?
だけど、“リリス=ヴァレンタイン”として契約するのは怖かった。
だから、わたしは。
「……わたしの名前は、稲村菜々」
その言葉を口にした瞬間、空気が一変した。
風が巻き上がり、扉に刻まれた魔法陣が赤黒く輝く。地下の床が震え、天井から小さな石がパラパラと落ちてきた。
《その名、確かに記した。されど、真の契約は“対価”を要する。汝は何を以って、力を手に入れんとするか》
「……自由」
わたしは、はっきりと答えた。
「誰かに支配される人生じゃなく、自分の意思で、自分の足で生きるために。その力がほしいの」
その瞬間――
ガァァァン!!
重たい音とともに、封印の扉が開かれた。
目の前には、宙に浮かぶ一冊の黒い書物。
装丁は革でできていて、まるで生き物のようにうねっている。真ん中には、真紅の宝石がはめこまれ、まるで“眼”のようにこちらを見つめていた。
それは、魔導書というより、魔そのもの。
《汝の願い、聞き届けたり。我が名は“グリモア=ネメシス”――復讐と破壊の魔典なり》
「……グリモア=ネメシス……」
《契約により、汝は我が知識を得る。禁術、古代魔法、封印解除、時の裂け目すらも操る力が、ここにある》
まるで夢のようだ。
いや、むしろ悪夢のような力。でも、わたしには必要だった。
これがなければ、伯爵にも、ダンガー子爵にも抗えない。この物語の“運命”さえ変えられない。
《代償は、汝の“記憶の一部”。この世界に来る前の記憶の一欠片を、我が糧とせん》
「……それだけでいいの?」
《それだけで足りる》
ほんのわずか、胸の奥がチクッとした。
日本での日常。朝の電車、コンビニの香り、同期の女子たちとのおしゃべり……それが、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
でも――
「いいわ。契約する。わたしに、その力を!」
言い終えると同時に、魔導書が宙でぐるぐると回転し、やがてまばゆい光を放った。
眩しさに目を閉じたその瞬間、何かが体の奥へと流れ込んでくる感覚。
重たく、鋭く、でも確かに“力”だった。
そして、手の甲に赤い紋章が浮かび上がる。
「……これが、契約の証……!」
光が収まったとき、わたしの目の前に黒い魔導書がふわりと降り立った。まるで意思を持つように、わたしの胸元へ吸い込まれていく。
《ようこそ、我が主よ。汝の名のもとに、すべての知を解き放たん》
その声とともに、扉の奥の部屋が静かに、静かに閉ざされた。
わたしは振り返り、もう一度、闇の通路へと歩を進める。
この力を持って、わたしは変わる。
もう、ただの“悪役令嬢”じゃない。
これは――反撃の幕開けだ。