第4話 リリス、脱出方法はあるのか? この世に不可能はない!
◆蠢く館、秘密の通路◆
ラ・ロシェ伯爵邸に来て、三日目の夜。
わたし――リリス=ヴァレンタインは、いまだに「体調不良」を演じ続けていた。伯爵の目をごまかし続けるのはスリル満点で、ちょっとしたスパイ映画のヒロインになった気分だったけど……。
「さすがに、限界……」
ベッドの上で、天井を見つめながらぼやいた。
今日も、伯爵がやってきたが、仮病と演技でなんとか撃退。けれど、同じ手はいつまでも使えない。あの男は、表面上は冷静でも、気に入らないものはすぐ壊すタイプだ。原作の“妻たち”がそうだったように。
だからこそ、逃げ道を探さなきゃいけない。
ここから脱出できるルート。できれば、誰にも見つからずに動けるルート。
「この館、どこかに“秘密の抜け道”があるはずなんだよね……」
それは、原作の中でほんの一瞬だけ出てきた描写。
たしか、リリスがダンガー子爵と再会する少し前。彼女が偶然、古い壁の裏に隠された通路を見つけて、そこから館を抜け出すのだった。
その場所のヒントは……「西棟の図書室」。
わたしは、そのときからずっと機会をうかがっていた。そして今夜、ようやくチャンスが巡ってきたのだ。
「お嬢様、お薬を……」
侍女が部屋に入ってきたとき、わたしは布団の中で小さく咳き込んでいた。
「……ありがとう、でももう眠るから、しばらくは来なくていいわ」
「かしこまりました。何かありましたら、呼び鈴でお呼びくださいませ」
ドアが閉まる音。
わたしはすぐさま、寝間着の裾を結び、黒いショールを羽織って動き出した。足音を殺すように慎重に歩き、静かに部屋を出る。
廊下は真っ暗で、月明かりだけが頼りだった。床が軋む音を聞きながら、西棟へと進んでいく。
――図書室。
厚い扉の向こうには、天井まで続く高い本棚がいくつも並んでいた。灯りもなく、静寂が支配する空間。
「うわぁ……お化け屋敷よりこわ……」
震える手でランタンに火を灯し、慎重に足を進める。埃の匂い、重たい革の装丁本、誰かの息づかいさえ聞こえそうな沈黙。
「この部屋の……どこかに、仕掛けがあるはず……」
原作での記憶を頼りに、わたしは西側の壁へと近づいた。
その壁には、古い肖像画がかけられている。中年の女性のものだ。灰色のドレスに身を包み、どこか憂いを帯びた表情をしていた。
「たしか、この裏だった……はず……!」
わたしは恐る恐る、絵をずらしてみた。
カツン。
鈍い音がした。
「えっ、何か当たった?」
よく見ると、絵の裏には金属製の小さな突起がある。それをぐいっと押すと――
ガチャ。
壁の一部が、まるで吸い込まれるように、内側へと沈んだ。
「出た……っ!」
風がふわりと流れ出す。石と土の匂いが混ざった、どこか懐かしいような、地下室のような空気。
その向こうに続いていたのは、狭くて暗い通路。
「これは……本当にあったんだ……」
鼓動が速くなるのを感じながら、わたしは足を踏み入れた。
狭い石の通路は、人ひとり通れるほどの幅で、まるで地下迷宮のようだった。足元には古い木の板が敷かれ、所々朽ちていた。
「これ、転んだらアウトだな……」
慎重に、そっと一歩ずつ進んでいく。どれだけ歩いたのか分からない。曲がりくねった通路を進むたび、まるで館の外に少しずつ近づいていくような感覚がした。
──と、そのときだった。
奥の方から、カタン、と何かが落ちる音がした。
「……だ、誰かいる?」
思わず後ずさりそうになる。けれど、ここで逃げたら、二度とこの道には来られない。
そっと進むと、通路の先に小さな扉が見えた。
しかもその扉の先から、かすかに“明かり”が漏れていた。
わたしは恐る恐る、その扉を押し開けた。
「……えっ……」
そこには、誰かがいた。
黒いマント、無精ひげ。傷の残る鋭い顔つき。なにより、鋭くわたしを睨む、血のように赤い目。
――ダンガー子爵。
彼はわたしの姿を見ると、目を細め、にやりと笑った。
「よう、リリス=ヴァレンタイン。いや……中身は別人か?」
「……っ!」
どうして、わたしのことを……?
そのとき、リリスの心にひとつの予感が走った。
この館には、まだ何かある。ダンガー子爵がここにいることも含めて、これはただの政略結婚なんかじゃない。
――何か、大きな陰謀が渦巻いている。
「さあ、こっちへ来い。俺と手を組む気があるなら……今夜から、運命が変わるぜ」
悪党の手が、まるで運命を誘うように差し伸べられる。
わたしは、その手を見つめながら、唇をかすかに噛んだ。
「運命……変えられるの、私に?」
「変えられるさ。お前が“悪役”としての覚悟を決めるならな」