第3話 初夜を迎える!大ピンチ もうだめだ──おしまいだ
◆初夜の罠と、悪役令嬢の知略◆
重たい扉が、きぃ、と音を立てて閉じられる。
その音が、やけに大きく響いた。
ここはラ・ロシェ伯爵の私室。──つまり、今夜からわたしが“妻”として使われる部屋らしい。
豪奢なシャンデリア、金の刺繍が施された天蓋付きのベッド、そして暖炉の火。すべてが美しくて、冷たい。
だけど、わたしの心はもっと冷えきっていた。
「……マジで、この展開くるの早すぎ……!」
ベッドを見た瞬間、背筋に悪寒が走った。
この小説――『剣聖のカール』の中では、リリスが嫁いだ初日、伯爵から「夫婦の務め」を強制される、という最低すぎるイベントがある。
わたしはそのシーンを、読者として「あーやっぱこういうざまぁ展開ね」って冷静に読んでいた。
でも、今は違う。
“その部屋”に、わたし自身が、いる。
「絶対、ぜっっったいにそんな目には遭わない!!」
小説の中では、リリスはただ抵抗することもできず、やがて諦めて“壊れていく”って描写されてた。でも、わたしは稲村菜々だ。日本生まれの根性ありOL、こんな貴族のクソジジイに人生を握られてたまるか。
「何か、何か手はあるはず……」
必死に頭をフル回転させる。
毒? いや、それはやりすぎ。下手すれば断罪イベントが前倒しになる。逃げる? いや、ここは王都からかなり離れた山中、逃げ場はない。侍女に頼る? 無理無理、全員ラ・ロシェ家の人間だ。
――落ち着け、菜々。大事なのは「時間を稼ぐこと」。
原作でも、ダンガー子爵がやってくるのに数ヶ月の期間がある。だからこそ、どうにかしてでも伯爵の手から逃げ延びなきゃならない。
「……そうだ」
ふと、原作のとある一節を思い出した。
リリスが“病弱気味”だと噂されていた時期があった。伯爵の関心が薄れるまでの短期間、彼女は部屋で療養をしていたらしい。
つまり、“体調が悪いフリ”をすれば……?
「これは、使える……!」
わたしはドレスの裾をつかんで、床に崩れ落ちる練習をした。
「くっ……ぐっ……ふっ……!」
咳をまねる。苦しそうな顔を作る。視線を泳がせ、わざと涙を浮かべる。
──うん、これならいける!
「わたくし、ちょっと……お腹が……っ」
自分でも驚くほど自然な演技だった。思えば、昔高校の文化祭でヒロイン役を演じたことがあったっけ。あれが今、まさかこんな形で役立つとは思わなかった。
そのとき、ノックの音がした。
「お嬢様、伯爵様が参られました」
侍女の声。直後、扉が開き、あの男が入ってきた。
ラ・ロシェ伯爵。黒いマントに包まれ、眉間に深い皺。まるで夜の闇そのもののような男。
「……さて、我が妻よ。夜はまだ長い。話でも……」
「うっ……! は……っ、はぁ……!」
わたしはわざとらしくベッドの端にうずくまり、額に手を当てる。汗のように見えるよう、こっそり水差しで濡らしておいた。
「おや?」
「……お許しください……伯爵様……っ。昼から少し熱があって……いまは……歩くのも……くっ……」
「ふむ……」
伯爵の目が、じろりとわたしを見た。その目はまるで獲物を品定めする肉食獣。でも、すぐに彼は鼻を鳴らした。
「まったく、貴族令嬢というものは虚弱で困るな」
やった。
「今日は仕方あるまい。……だが、明日には治っていてもらわねばな」
伯爵は冷たい笑みを浮かべ、部屋を出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかった瞬間。
「っっっっしゃぁぁぁぁ!!」
ベッドに突っ伏して、心の中で大ガッツポーズを決める。
「ナナ、グッジョブ……! ほんと、自分よくやった!」
でも、まだ安心はできない。
“明日には治っていろ”という言葉は、「今日のうちに逃れた」とイコールじゃない。
これから毎日、演技で逃げ切らなきゃいけないってこと。
でも、それでいい。数日でも稼げれば、何かチャンスが見つかるかもしれない。
この物語の“ヒロイン”ではなく、“悪役令嬢”として生きるわたし。
でも、“悪役”には悪役なりの、生き抜く知恵がある。
「絶対、生きてみせるから……!」
涙ぐんだふりの目に、ほんとうの涙がにじんでいた。