第2話 ラ・ロシェ伯爵との対面 思いというのは言葉にしないと――
◆不気味な歓迎、ラ・ロシェ伯爵との対面◆
馬車の扉が開いた瞬間、ひやりとした空気が肌を刺した。
目の前に広がるのは、石造りの館。壁には黒い蔦が這い、窓のほとんどに厚いカーテンがかかっていた。まるで日差しを拒んでいるようで、背筋がぞくりとした。
――ここが、ラ・ロシェ伯爵の館。
「……本当に、来ちゃったんだ」
わたし――稲村菜々は、リリスの体で深く息をついた。
原作通りなら、この伯爵は冷酷で、妻に暴力をふるう最低男。政略結婚でリリスを手に入れたあとも、「若い妻を従わせる道具」としてしか扱わなかった。
つまり、ここで何もせずにいたら、断罪される前に、心が壊れて終わる。
「ようこそ、ラ・ロシェの館へ」
低い声が聞こえた。
館の前には、一人の男が立っていた。重厚な黒のマント、銀の刺繍、無駄のない直立姿勢。そして、灰色の髪をきっちりと撫でつけた、細身の初老の男。
――ラ・ロシェ伯爵。
歳のわりに姿勢は良いし、どこか威厳もある。だが、その目。
「……!」
目が笑っていなかった。
口元にはにこやかな笑みを浮かべているのに、目は氷のように冷たい。まるで、わたしを“モノ”として見ているような、感情の通っていない視線。
ぞわり、と鳥肌が立った。
「リリス=ヴァレンタイン侯爵令嬢。遠路ご足労いただき、感謝いたします。今後、あなたは我が館の女主人……つまり、私の妻となるのですから」
そう言って、彼はわたしの手を取ろうとした。
「失礼します」
わたしは、さっとその手をかわした。
「まだ、正式な結婚式は済んでいませんわ。お手を取られるのは、それからにしていただきたいの」
一瞬、伯爵の顔が凍った。
周囲の使用人たちがざわついた。女のくせに、伯爵に逆らうなんて――といった空気。
でも、引けない。
ここで媚びてしまえば、原作通りの道に引きずり込まれるだけ。
「ふむ……気が強いのは、噂通りですな」
伯爵は顔を戻し、再びにこやかに笑った。でもその目の奥には、何か別の感情が渦巻いていた。興味? 怒り? それとも、見下し?
「いずれ従順になりますよ。すべての獣には、調教の方法があるように」
「――っ!」
その言葉。思わず身を固くした。
やっぱり、この男……危険すぎる。
「さあ、中へ。館の中で、ゆっくり話をしましょう。あなたのこれからの生活について、詳しくご説明します」
伯爵が背を向け、重厚な扉が開いた。
そこから漏れ出したのは、光でも、ぬくもりでもなかった。
まるで、古びた牢屋の扉が軋んで開くような、冷たい響き。
◇ ◇ ◇
館の中は、静かすぎるほどだった。
豪華な絨毯、壁にかかった肖像画、しかしどれも色褪せ、どこか「人の気配」が薄い。まるで、ここだけ時間が止まっているみたいだった。
応接室に通され、伯爵と向き合う。わたしの座る椅子は妙に硬く、背筋が自然と伸びた。
「では、単刀直入に言いましょう」
伯爵が口を開くと、わたしの手がぎゅっと膝の上で握られた。
「あなたには、ヴァレンタイン侯爵家の借金一部を“身体”で返していただきます」
「…………」
「もちろん、形式上は妻として扱います。しかし、実質的には“貸し物”として迎え入れるつもりであることをご理解ください」
言葉が、心に突き刺さる。
これが、この世界の“現実”なんだ。
前世の菜々だったら、ただスマホの画面越しに「うわ、こいつやば」って思って終わってた。でも今は、その相手が目の前にいて、リアルに呼吸して、わたしに言葉をぶつけてくる。
「……わたくしは“物”ではありません」
わたしは静かに言った。
「そして、身体を差し出すつもりもありませんわ。契約の条件に、そんな一文はございませんでしたよね?」
伯爵の瞳が、細く細くなる。
わたしはその視線を正面から受け止めた。
「わたくしは、リリス=ヴァレンタイン。どれほど没落しようとも、侯爵令嬢としての誇りを忘れるつもりはありません」
「……ふふ。面白い。だが、誇りでは生きていけませんよ、小娘」
「誇りを捨てて生きるくらいなら、死んだほうがマシですわ」
その瞬間、伯爵は低く笑った。
冷たい、氷のような笑い。
「その言葉、後悔しないように。夜になれば、誰でも寂しくなるものです。……特に、こういう山奥の館ではね」
「……っ!」
ぞわぞわと、背中を冷たいものが這い上がるような感覚。
でも負けない。絶対に、原作通りの展開になんてさせない。
わたしは、菜々としてこの世界に来た。この身体を、“リリス”という名の牢獄を、必ず抜け出してみせる。
この伯爵にも、そしてこれから待ち受ける運命にも――わたしは、決して膝をつかない。
たとえ、ここが“ざまぁ”されるための牢獄だったとしても。