第1話 なぜか?悪役令嬢リリス=ヴァレンタインに転生している。
◆リリス=ヴァレンタインとして目覚めた朝◆
ガタン、と馬車が石畳を揺れながら進んでいく。そのたびに軋む音と、ほんのりとした馬の匂い。そして、窓の外に広がるのは、灰色の雲に覆われた王都ルメリアの朝――。
でも、そんな風景よりも何よりも。
「ちょっと待って……うそでしょ」
わたし――いや、“稲村菜々”の頭は、混乱していた。
だって目の前にあるのは、豪奢な造りの白亜の屋敷。見覚えがありすぎて、思わず鳥肌が立った。
「……これ、ヴァレンタイン侯爵家じゃん……」
口から勝手に出た言葉に、冷たい汗が背中を伝って落ちていく。
ここは、毎朝の通勤電車で読み続けていたあのWEB小説――『剣聖のカール』の舞台。その中で、最悪の悪役令嬢として描かれていた、リリス=ヴァレンタインの屋敷。
そして、目の前の窓に映った金髪碧眼の美少女が、誰でもない、「わたし」だった。
「リリス……リリスじゃん、コレ!」
艶やかな金色の巻き髪、透き通った白い肌、完璧すぎるくらい整った顔立ち。そして、何よりも――この格好。肩を出したベルベットの深紅のドレスに、細いウエストを締め付けるコルセット。
まるで絵画から抜け出したような、絢爛な“悪役令嬢”そのもの。
……ほんとうに、リリス=ヴァレンタインに転生しちゃったんだ。
◇ ◇ ◇
稲村菜々。二十七歳。どこにでもいる、ごく平凡なOLだった。
仕事はまあまあ、趣味は漫画と小説。特に、電車で読む“ざまぁ系”のWEB小説が好きだった。あの胸スカ展開、敵が断罪されていくカタルシスがたまらなくて、よく夜更かししていた。
その中でもお気に入りだったのが、『剣聖のカール』。
――平民の母を持つ男主人公・カールが、差別と陰謀に打ち勝ち、最強の剣聖として覚醒する復讐譚。
読んでてめっちゃスカッとするやつで、悪役令嬢のリリスがめちゃくちゃ嫌な女で、それがどんどん落ちぶれていくのが爽快で、よく電車の中で「ざまぁ!」って心の中で叫んでた。
……なのに、どうしてそのリリスにわたしがなってんの!? 意味わかんないんですけど!!!
◇ ◇ ◇
とにかく状況整理しよう。これが夢じゃないなら、わたしはもう、菜々じゃなくてリリスとして生きるしかないらしい。
しかも、今は――
「……ラ・ロシェ伯爵のとこに嫁ぐ途中、だよね……」
そう、この馬車はリリスが“失脚したあと”、借金返済のために政略結婚させられるイベント直前だった。
相手は、五十七歳の初老の貴族。三度目の結婚で、前妻たちはすでに亡くなってるとかなんとか……。
「うわぁ……この先、地獄じゃん」
しかも、このあと、リリスは送られる途中で脱獄したダンガー子爵に助けられて、なぜか共犯者として再登場するという、悪役ポジションに返り咲く展開まである。
断罪エンド確定の未来。ぜっっったい嫌だ。
「ま、待って……ちょっとだけなら、やり直せるかも?」
そうだ、わたしはこの小説の展開を知ってる。カールが追放されて修行し、強くなって帰ってくることも。ラ・ロシェ伯爵の正体がとんでもないDV男だってことも。
リリスがあのダンガーとつるんだのは、追い詰められて絶望してたから。
なら――そこを回避すれば、断罪エンドを避けられるんじゃ?
「婚約破棄? DV婚? ざまぁされる未来? やだやだやだ!」
絶対、そんなのイヤだ。
だったら、リリスとして生き延びるために、できることは一つ。
「この物語の“バッドエンド”を、わたしの手で書き換えてやる……!」
たとえこの世界がWEB小説だとしても、転生者としての特権――“未来を知ってる”っていう最大の武器がある。
運命を変えられるとしたら、今しかない。
そのとき、馬車が大きく揺れた。
ガタン、と何かを踏み越えた音。そして、前の座席に座る侍女がぴくりと動いた。
「お嬢様、もうすぐラ・ロシェ領に入ります。ご気分はいかがですか?」
「……最悪よ」
リリスの声色でそう返しながら、わたしはぎゅっと拳を握る。
ここから始まるのは、リリス=ヴァレンタインとしての第二の人生。
“ざまぁ”される悪役じゃなくて、逆転して“生き延びる”物語。
WEB小説の読者だったはずのわたしが、今度は主人公としてこの世界を変えていく。
――そう、これは悪役令嬢に転生した稲村菜々の、波乱に満ちた冒険の始まりだった。