狐のおはなし
松雪との一件があってから数日が経った。
しかし、依然として松雪はこの宿に泊まっており、ふとした時に後ろにいるような気がして、何もないところで振り返っては胸を撫で下ろす、そんな日々が続き、蕾も椿も心身共に疲れきっていた。
そんな二人を見かねた藍は、とうとう彼女らを呼び出す。控室に二人を招き入れ、温かいお茶とお菓子を用意して蕾と椿の前に腰掛けると、緊張しているのか二人ともお茶には口をつけようともしなかった。
藍は困ったように笑い、口を開く。
「怒っている訳じゃないのよ。あなた達二人は普段からよくやってくれているもの。だから今日はゆっくり休んで欲しくて呼んだだけなの」
藍の柔らかい表情を見て、二人は安堵するとようやくお茶とお菓子を手にした。
それを見て、藍も小さく笑う。三人はしばらく他愛ない話をしながら久しぶりの安息の時間を十分に味わっていた。
三人とも、お茶を二杯ずつ飲みほした頃合いを見て藍が席を立つ。
「そろそろ私は戻らなくちゃ。二人はもうあがってね」
そう言いながら、自分が使った湯呑みを片付けようとする藍だったが、意外にもそれを阻止したのは蕾だった。
勢いよく立ち上がったせいで、さっきまで蕾が座っていた椅子は大袈裟な音を立てる。椿が少しだけ驚いた目をして蕾を見上げた。
「藍さんは?」
「え?」
「藍さんは休まないんですか?」
さっきまで楽しそうに笑っていた蕾の瞳は揺れていて、誰から見ても心配しているのだということが目に見えて分かる。
「心配しないで。仕事を少し片付けたら休むから」
「でも!そう言って昨日も一昨日も、部屋に帰って来なかったですよね?」
藍の手が止まる。
湯呑みを片付けるために戸棚の方を向いているため、藍の表情は蕾と椿には見えない。
藍にとってはそれが幸いした。
明らかに今、藍は動揺していたからだ。
「あら、言ってなかったのね。私は皆とは違う部屋を貰ってるからそこで寝ているの」
藍の声は平然としていた。
動きを止めたのもほんの一瞬のことだったので蕾も椿も彼女の動揺には微塵も気付いていない。
しかし、そこで椿が「そういえば、薺もよく夜中に部屋を出ていくよ」と藍の援護をする声をあげる。
藍は二人の方に顔を向けると肯定も否定もせずにニコリと笑った。
「それって、二人ともちゃんと休めてないってことなんじゃないですか?私も何か手伝いま…」
「蕾」
蕾の言葉を遮ったのは椿だった。
椿は目で何かを訴えると、藍に向き直り笑顔で「引き止めてすみません。行ってください」と声を掛ける。
藍は一言謝ると控室を出て行った。
「蕾、空気読みなよ」
「どういうこと?」
蕾の隣で座ったまま頬杖をつき、ため息を吐く椿。
蕾も渋々ともう一度席に着いた。
「恋人同士なんだから。夜中に内緒で会うくらい普通でしょ」
「……あ、」
「これだから蕾は」とでも言いたげにやれやれと言う椿と、それとは対照的に一気に顔が青ざめていく蕾。
二人の勘違いは今もなお、継続中なのであった。
一方、部屋を出た藍を待っていたのは薺だった。
控室の扉のすぐ横に背中を預け、腕組みをして藍が出てくるのを待ち構えていたようだ。
しかし、藍も大して驚いた様子はなく扉を閉めて廊下を歩き始める。薺もその隣を歩き始めた。
「どこから聞いていたの?」
「ほんの少し前からですよ」
「ごめんなさい。せっかく時間をもらったのに、二人の悩みまでは聞き出せなかったわ。私の力不足ね」
「何をおっしゃっているんですか。あの笑い声を聞けば、二人の心が癒されたのは明らかでしょう。謙遜しすぎですよ」
「そうだといいのだけれど」
少しの間、沈黙が流れる。
すっかりと外は暗くなり、庭に続く縁側を月明かりが照らしていた。
藍と薺は、ひたすらそこを歩き続ける。
「蕾と椿には、まだ言わないんですね」
薺の短いその問いかけに、藍は少し困った顔で笑って返すと「そうね」と返事をした。
「あの子達を驚かせたくないから」
「そりゃ驚くでしょうけどね。まぁ、俺は藍さんの決めたことに口出ししませんけど」
「フフ。ありがとう、薺」
「どういたしまして」
二人の背中は、境目ノ宿の奥に消えていく。
偽物の月だけが、そんな二人を見守っていた。
翌日になり、蕾と椿は朝食の配膳を終えて廊下を並んで歩いていた時のことだった。
ふと何かの気配を察して蕾が振り返ると遠く離れた廊下の端に松雪の姿が見えた。
相変わらず、蕾の目には松雪が美しい青年の姿に見えており、彼は微笑みながら蕾を見ている。
「どうしたの?蕾」
「椿は後ろ見ちゃダメだよ」
蕾のその言葉は椿の顔を強張らせる。もしもこれが初めてのことなら、そんな程度では済まなかっただろう。
しかしここ最近、こんなことが毎日のように起こっていたので椿も顔を真っ青にし、騒ぎ立てるようなことはなかった。
「またいるの?」
「うん」
「やっぱり蕾、あいつに狙われてるんじゃないの?」
「でも、近づいてくる気はないみたい」
松雪の方を見つめる蕾の横顔を見て、椿はどこか危うさを感じる。すぐにここを離れなければという気がして松雪の方は見ずに前を向いた。
「行くよ、蕾」
そう言いながら、椿はもうすでに歩き出していた。蕾もそれに続く。
蕾が曲がり角を曲がる前に、もう一度振り返るとやはり松雪はこちらを見て微笑んでいた。
「お客様を無視しちゃうのは大丈夫なの?」
「女将さんの前ではやらないよ。アレも告げ口する気はなさそうだし、別にいいじゃん。僕はもう関わりたくない」
「それもそうだね」
「何の話?」
廊下には誰もおらず、完全に油断していた蕾と椿は声の主を探して左右上下と顔を動かせる。
そしてようやく見つけた彼は庭にいて、開いた窓から蕾たちを見ており、その隣にはクスクスと笑う芹がいた。
「なんだ、薺か」
「こらこら。一応君たちの上司だよ」
声にはしないものの、蕾もどこかホッとしていた。
「二人して何か悪巧みでもしてたの?俺にも教えてよ」
「別に。何もないよ」
「蕾。ほんと?」
「なんで蕾に聞くんだよ!僕が何もないって言ってるのに!」
「お前はすぐ失敗を隠そうとするだろ」
「はぁ?」
椿と薺がいつも通りのやり取りを繰り広げている横で、蕾は窓の淵に手を掛けクスクスと可愛らしく笑う芹に声を掛けた。
芹に話し掛ける蕾は一見無表情に見えるが、数日共に過ごした芹には、まるで飼い主に駆け寄る子犬のように嬉しそうにしていることが分かり、思わず微笑む。
「調子はどうですか?蕾さん」
「おかげさまで、とても楽しくやらせて頂いています」
「それは何よりですね。また、私のお部屋にも来てくださいますか?」
「行っていいんですか?」
「ええ。是非」
いつの間にか口論を終えた薺と椿が、和やかな二人の会話に耳を澄ませていたことは気付かず、蕾と芹はお互いに微笑み合っていた。
「あらあら。こんな所に集まって、皆どうしたの?」
聞き馴染みのある声に蕾が振り返るとそこには藍がいた。
しかし、その奥にいる人物が真っ先に目に入り、目を見開いた蕾は声を荒げる。
「椿、見ちゃダメ!!」
椿は蕾の声に反応し、他の面々も突然の蕾の大声に驚きそちらに視線が集まった。しかし、薺だけは蕾を一瞥するとすぐに藍の奥にいるソレに目を向ける。
瞬間、薺の顔は血の気が引いたように真っ青になりまるで身体が石になったかのように固った。
「薺?」
「見るな、芹」
芹は戸惑いながらも、コクリと頷く。
それを確認した薺は、今度は蕾と椿に目を向けた。
「お前達、アレが何なのか知ってるのか?」
その問いに、二人は黙って首を横に振る。
薺は小さくため息をついて、全員の顔を見ながら冷静に言葉を発した。
「とにかく、全員ここを離れよう。藍さんも、後ろを振り返らずに二人を連れてきてくれませんか?向こうの縁側で合流しましょう」
「ええ。分かったわ」
松雪は追っては来なかった。
しかし、どこまで行っても恐怖は拭えない。
蕾と椿と藍、薺と芹が合流した時、お互いの無事を確認し合ってホッと肩を撫で下ろすのであった。
「で、もう一度聞くけど、二人はアレが何か知ってるの?」
薺のその問いには口をつぐんだまま二人は目を逸らす。
床の方に目を向けていた二人の視界に無理矢理入ろうと、薺はかがんで目を泳がせる椿と蕾の目を見た。
「怒らないから言ってみ?」
それでも口を堅く閉ざす二人にとうとう薺が折れ、小さく溜め息をついてかがんでいた腰をあげ、藍に向けて首を横に振る。
「薺。それならあなたの口から説明してくれないかしら?一体何を見たと言うの?」
「それは俺が聞きたいくらいですよ。言葉にするにはあまりにもおぞましい、化け物みたいな奴でしたよ」
「あなたも見たことのない神様だったの?」
「神様、なんですかね…あれは…」
いつも冷静でどこか飄々とした態度の薺が、分かりやすい苦笑いを浮かべているのは珍しかった。
薺の心を揺さぶる程の恐ろしいモノだったのだということが、それだけ伝わってくる。
その場にいた全員に気まずい空気が流れ始めた時のことだった。
「お前達、面白いな」
突如聞こえたその声は小さな子供のよう。
薺と芹が振り返ると、庭にいたのは髪が白く、その上に着ている着物まで真っ白の少年が毬を持って立っていた。
狐目の少年は瞬きをする間に五人の中心に移動し、縁側に腰掛ける。
彼が人間の子供ではないことをその場にいた全員が察した。
「アレは神というには少々複雑な奴だ。見なかったのならそれが良かろう。見てしまった者は運が悪かったと思って忘れるといい」
足が地面につかず、ブラブラと足を揺らすその子供のすぐ隣に、藍は正座をした。
お客様を見下ろすのはよろしくないという判断の上だろう。椿もそれに倣い、蕾も少し遅れて同じように座る。
すると狐目の少年は蕾を見てニヤリと笑った。
「お前は気に入られているようだの。アレと話でもしたか」
「…はい」
蕾が正直に答えると、薺と藍は目を見開き、少年は大きく口を開けて笑いだす。
「それならお前に付きまとうのも仕方がない。しかし、お前はこの宿の雇われの身だからの。しばらくは、ここの神が守ってくれるはずだ。運が良かったの」
お客様の前であることは重々承知の上だが、その場にいた全員が安堵のため息つき、張りつめていた緊張の糸がプツンと切れたようであった。
「お前は、普段から運がいい方か?」
少年はこてんと首を傾げながら、蕾に向かってそんな疑問を投げかけた。
しかし、蕾は少しも考える素振りを見せずに即答してみせる。
「良くないです」
そんな蕾に椿は呆れ、薺は苦笑いをし、芹は小さく笑って、藍はあらあらと手を口に当てた。
「でも、」
蕾の話には続きがあった。皆が蕾に注目し、次の言葉を待っている。
「今は少し、良くなったかもしれないです」
その言葉が、蕾にとってここでの生活が悪くないと言っていることと同義であることを、その場にいた全員が理解した。
そして、微かな微笑みを見せるのであった。
質問を投げかけた当人はその場にいた者たちの顔をぐるりと見渡すと、大層満足そうに口角を上げる。
何かを悟ったらしい彼は、再度蕾に目を向けた。
「なるほどな。ここの年季が明けた時、お前がこの宿を去るのであれば私はお前に賭けてもいいぞ」
「賭け…?」
蕾の疑問は庭の方から突風の音によってかき消された。
その風の中から現れたのは、白く美しい長い髪に、それと同じように白い着物を着た女性だった。彼女が人間ではないとすぐに分かったのは、彼女には毛並みの整った尻尾が何本も生えており、おまけに頭の上には耳が二本生えていたからだ。
「ああ!もう!あの阿呆!なぜもう少し踏ん張らぬ!奴には輝かしい未来が約束されておったというのに!解せぬ、解せぬぞ!!また負けた!大損じゃ!!」
「かか様」
そう言うと、中心にいたはずの少年はまた消え、気がついた時には狐様の懐にいた。
「おお、我が子よ。息災にしておったか」
「はい、かか様。かか様はまた賭けに負けてしまわれたのですか?」
「おお、我が子よ。妾の傷をえぐるでない。あのいじめっ子、いっそ妾が呪い殺してやろうか…」
「かか様。我らが干渉するのは規則違反となってしまいますよ」
「ホッホッホ。我が子よ、バレなければ良いのじゃ」
楽しそうな親子の会話に入れず、挨拶のタイミングをなくしてしまった一同はその場を去ることもできず、見ていることしかできない。
こちらのことなど、気づいてもいないのでないかという振る舞いだったにもかかわらず、その話題は突然飛んできた。
「ところでお前。さっきの答えを聞いておらぬ。年季が明けたらどうするつもりだ」
それはどう考えても蕾に向けられた質問で、この宿ではその問いはお互いに聞いてはならないご法度とされていた。
蕾ももちろん、その意味は分かっている。しかし今は神の御前。嘘をつくことは許されない。
ごくりと生唾を飲んだ後、ようやく声を発した。
「分かりません」
「分からない?お前、生きたいと思わないのか?」
「……分かりません」
膝の上に置いた手をぎゅっと握り、蕾は下を向いた。
狐の少年はさして残念そうでもなく、本当に興味がなさそうに適当な相槌をする。
そして、またもや突風が吹き荒れて二人の神は消えていった。
狐の親子がいたその場所に向けられていた一同の視線は、藍の声によってそちらに集まった。
「蕾。あなたまさか、ここに残ろうとしているの?」
「……。」
蕾は藍から目を逸らす。
それでも藍は追撃をやめようとはしなかった。
蕾の手に、その手を重ねてじっと横顔を見つめる。
「蕾。よく考えて。それは一時の感情に流されてるだけじゃない?本当に、よく考えて出した答えなの?」
「……。」
「蕾、」
その質問は、今の蕾にとってまさに痛いところをついていた。
何度も何度もそれを反芻しては、後にしよう、今は考えなくていいと、見てみぬふりをしていたからだ。
答えに迷っていた時、助け船を出したのは薺だった。
「まぁまぁ、藍さん。そんなに早く答えを出す必要はないんですから」
「薺…。でもこれは…」
「ほら、蕾も椿も片付けの途中だろ。持ち場に戻っていいよ」
薺の言葉に従って蕾は逃げるようにその場を後にした。
椿も戸惑いながらそれに続く。
「それじゃあ藍さん。俺達もここで」
「…ええ」
そうして薺と芹も、そこを離れていった。
「薺。怒ってるの?」
「怒ってないよ」
「さっきの。薺に言ってた訳じゃないよ」
「分かってるよ」
今は心の内は明かさずとも、いつか決めなければいけない選択の時は刻一刻と迫って来る。
別々の道へ歩いて行く蕾達の姿は、まるで未来のことを暗示しているかのようであった。