常連さんのおはなし
蕾が芹の部屋に通わなくなってから数日が過ぎた。
相変わらず、椿とのセットで当番をこなしており、今日は二人で縁側の掃除をしている。近くで、女の子たちの甲高い声が聞こえた。
「今の悲鳴?」
「そんな訳ないでしょ」
声の原因はすぐに分かった。庭の方から薺がやって来て縁側に腰掛ける。
「やっぱり薺だった」
「なんの話?」
「さっき、女の子の悲鳴が聞こえたので」
「悲鳴って…。俺を妖怪みたいに言わないでよ」
いつもは多くの人間に囲まれて羨望や憧憬の眼差しで見られる薺だが、蕾と椿といる今は薺が縁側に座っていることもあり見下ろされ、なんだか冷ややかな視線まで感じる気がする。しかし、薺にはそれが意外にも心地よく、リラックスしているようであった。
「そういえば、芹様からお菓子もらった?」
薺の言葉に、さっきまでの態度とは打って変わり急に視線を逸らす蕾と椿。
「なんのこと?」
僅かながらの沈黙にも耐えきれず、椿が口を開いた。
「隠さなくてもいいよ。芹様が頑張ってる二人にご褒美をあげたいって、先に俺に相談して下さってたからね。でも、他のお客様からは何かもらったりするなよ?」
「はい」
「言われなくてもそんなことしないよ」
素直に反省する蕾と、それでも薺に反発する椿。
全く正反対の反応だが、薺にとってはどちらも可愛くて仕方ない。
少し離れた所から薺を呼ぶ声が聞こえ、薺はすぐにその場を離れた。
蕾と椿も、また掃除に戻る。
「薺さんと芹様って、仲良いよね」
「そうだね」
「付き合ってるのかな?」
「薺が?ありえないでしょ」
椿のさも当然のような口ぶりに納得がいかない蕾は椿に理由を問うた。
「だって、薺は藍さんと付き合ってるんだから」
突然のことに思考が追い付かずぽかんとする蕾。それを見て椿はなぜか得意げな顔をする。
もちろん、実際に薺の恋人は芹で、薺は椿もそれを承知だと思っている。しかし、当の本人は全くの見当違いをしているのだが、その真相をを知る者は少なくともここにはいないため、勘違いはどんどん加速していくのだった。
「え、待って。…え、そうなの!?」
蕾にしては珍しく大きな声が出た。椿が辺りに誰もいないことを確認して再度蕾に向き直る。
「静かにして!他の奴らに知られたら二人が面倒なことになるでしょ!」
「ご、ごめん。ちなみにそれって、本人たちから聞いたの?」
「あの二人が言う訳ないじゃん。でも見てれば分かるでしょ。蕾って鈍感なんだね」
「椿の勘違いなんじゃない?」
「そんなことない!」
椿があまりにも自信満々なため、蕾も藍と薺を思い出してみる。
確かに二人が一緒にいるところをよく見るが、それは二人の立場を考えれば仕方のないことだ。確かによく楽しそうに話してるけど、仕事仲間と険悪にしている方がむしろおかしい。
しかし、蕾の頭の中ではあの二人が並んで歩き、抱きしめ合う姿がとてもお似合いのように思えて、椿の言い分があながち間違っていないのではという錯覚に陥っていた。
「なんか、ありそうな気がしてきた」
「だからそう言ってるじゃん」
「随分楽しそうね」
二人の後ろから突然現れた藍に、蕾と椿は飛び上がるほど驚き、さっき聞こえた女の子達の声とは全く違う本物の悲鳴をあげた。
「ごめんなさい。そんなに驚くとは思わなくて。何の話をしていたの?」
蕾も椿も目を合わせて考えていることは同じだと言わんばかりに頷く。
「薺のせいで今日も宿がうるさいねって話をしてたんです」
「フフ。薺の陰口を言っていたからそんなに驚いたの?安心して。告げ口なんてしないわ」
「いいえ。薺の前でも言えるので陰口じゃありません」
「そうね。二人はいい子だもの。そんなことしないわよね」
いつものようにやさしい微笑みを浮かべながら話す藍は、どうやら蕾達に休憩の時間を知らせに来たらしい。藍に言われて初めて、太陽が頭の真上まで登っていることに気がついた蕾達は掃除の時間がとっくに終わっていることにようやく気がついた。
そうして今日の仕事が終わり、同じように業務を終えた仲間たちがそれぞれの部屋に帰っていく。しかし、藍だけは別方向に向かっていくのを蕾は見逃さなかった。藍の背中に向かって声を掛けると、藍は一言「まだ仕事が残っているの」と言い、その場を離れていった。
藍が消えていった廊下の曲がり角を見つめながら、蕾はふと考える。何もない場所を見つめて佇んでいる友達が気になり、椿は声を掛けた。
「蕾、何してんの?ご飯食べに行こうよ」
「藍さんも、もうあがりの時間なのに…」
「藍さんは特別だからね」
境目ノ宿では多くの従業員を抱えているが藍と薺はその中でも女将から信頼され、お客様からの人気も高い。二人の年季が中々明けないのは、女将が二人を囲っているからだなんて噂もあるくらいだ。一般の従業員が知らない仕事をしていてもおかしくはない。
しかし、蕾はそれも承知の上でどこか納得がいっていない様子であった。
「その仕事、私も手伝えないかな?」
「は?無理無理。僕達まだ新人じゃん。かえって邪魔になっちゃうよ」
「椿は新人じゃないでしょ」
「それならいつまでが新人で、いつからが新人じゃないの?」
「……屁理屈」
「いいんだよ、これくらい適当で。ここで変に目立ってもいいことないし」
椿の言葉が妙に引っ掛かり、最近芹に言われたことを思い出す。そして、思ったことはすぐに口に出してしまうのが蕾なのであった。
「それは、年季を伸ばすために?」
「なにそれ」
空気が変わる。椿の目が少しだけ鋭くなり、蕾はしまったと思ったが後悔先に立たず。出てしまった言葉をなかったことにはもう出来ない。
「僕は薺や藍さんみたいに仕事量が増えたら嫌だって意味で言ったんだけど、なんで急に年季の話になるの?」
「それは…」
「蕾。もしかして変なことに首突っ込んだりしてないよね?」
「してない。してないよ」
椿がここまで真剣になると言うことは、デリケートな話だったのだと今更ながらに蕾は理解した。そして次に、このことを芹から聞いたのだと果たして言ってしまってもいいのかと思い悩んだ。
思い悩むということは言わない方がいいのだという考えに至った蕾は、この場から逃げることを選んだ。
「私、藍さんを手伝って来る!」
「あ、待って蕾!」
そうして蕾は藍の後を、椿は蕾の後を追って行ったのだった。
しかし、この選択を蕾は後に激しく後悔するこになる。
結論から言うと、客間の廊下で蕾と椿は迷子になっていた。
確かに藍の後を追ってきたはずだが、肝心の藍を見失い、ふと気がつくと見たことのない場所にいて、どこを見ても同じような部屋の扉が並んでいる。それでも蕾は諦めず、前へ前へと歩を進めた。
「待ってよ蕾!」
椿が思わず蕾の腕を掴む。
「もう戻ろう。藍さんも見失ったし、これ以上は危ないよ」
もちろん、それは蕾にもわかっていた。薄暗い廊下は窓もなく、外が見えないため時間の感覚も分からない。長時間ここにいれば、狂ってしまいそうな不気味な雰囲気。
今にも足がすくんでしまいそうなのに、それでもここまで来れたのは後ろにいる椿の存在と、目指す先にいるであろう藍が、蕾にとっては大きな拠り所となっていたからだ。
しかし、今は椿の言う通り引き返した方がいいと判断し、前を歩いていた蕾が椿の方へ振り返ると、驚きのあまり目を見開く。
「椿、後ろ…」
椿が後ろを見ると、そこには先程まであったはずの道がなくなり壁になっていた。
いつもは冷静な椿もこればかりは驚かずにはいられない。
二人は完全に、帰る道をなくしたのだ。
「は?なにこれ。こんなこと今までなかったのに…」
椿は長年ここで働いているベテランである。本人はそれを認めようとしないが、少なくとも宿のことは熟知しているはずだった。しかし、そんな椿にも何が起こっているのか分からないようであった。
壁を見つめ、固まる椿の手を蕾は取った。
それに驚き蕾に目を向ける椿。蕾の目は真っ直ぐ椿を見ていた。
「椿、ごめん。私が椿を巻き込んだ。だからせめて、私が椿を守るから離れないように手を握るのを許してほしい」
蕾の真摯な眼差しとその言葉は、椿の感じた一抹の恐怖を打ち消すのに十分すぎる程だった。
椿は小さく口の端を上げて、「守るなんて大袈裟だね」と軽口を叩く。そして、蕾に応えるように椿も強く手を握り返し、肯定の意を示したのだ。
「蕾はまだ人間とそうじゃないのの区別ついてないでしょ。だから僕が先導する。もしお客様が来たら僕が対応するから、蕾は壁に張り付いて頭を下げて、なるべく気配を消してて。いい?今はとにかく僕の言うことを聞くって約束して」
「分かった」
蕾と椿は手を握り、椿が先導する形で前へと歩き始めた。
「藍さんと合流できる可能性ってあるかな?」
「期待しない方がいいね。後ろの壁だけじゃない。多分僕らの前の廊下もどんどん変わっていってると思う」
「今日があの日だなんて聞いてないよ」と愚痴をこぼすように独り言を言いながら椿はしかっりとした足取りで堂々と蕾の前を歩く。
しかし、先程からいくつもの部屋の扉を通り過ぎたが、中から誰かが出てくる気配はなく、あわよくば仕事仲間や知り合いのお客さんが通ればと二人は思っていたがそれは甘かったようだ。
「本当は、呼び鈴を使えればいいんだけどね」
各部屋には小さな鈴があり、どういうカラクリかは分からないがその鈴の音はどんなに小さな音でも女将には聞こえる。
そうして、女将が従業員に指示を出し、各部屋へと派遣される仕組みだ。
また、この宿は気まぐれに形を変える。それは従業員でも把握できないが、女将だけは全てを把握しているようであった。
「たまにさ、女将さんが言うんだよ。今から行く部屋のお客さんは機嫌が悪そうだから気をつけろ、とかね」
「それって、女将さんが部屋の中のことも全部分かってるってこと?」
「多分ね。だから鈴を鳴らせば僕達にも気づいてくれると思うんだよね」
「じゃあ、どこかの部屋に入らなきゃね」
ずらりと並ぶ部屋の中から空き部屋を探すのは困難であった。どの部屋もボゥっと小さな明かりがついており、誰かがいそうではあるが物音は何一つ聞こえない。
また、ここは神の友人も泊まる宿、境目ノ宿。無闇に部屋に入れば神の怒りを買ってしまいかねないのだ。
「でも、そうは言っても中を確認しないことには仕方ないよね」
蕾から見える椿の横顔は何かを決意したような表情であったが、椿が少しだけ恐怖を感じていることを蕾は感じ取っていた。
「僕が部屋の中を確認する。隙間から覗いて誰かがいたらそれが誰であろうと部屋には入らずすぐに閉める。それでいい?」
「分かった」
ごくりと唾を飲み込む椿。その様子からしてもとても緊張していることが伺える。
ゆっくりと戸に手を掛け、ほんの少しだけ開き中を覗き込んだ。その間も蕾はしっかりと椿の手を握っている。
そして椿がじっくりと目を凝らしその焦点が合った瞬間、即座に顔を上げすぐに戸を閉めた。冷静さなんてものは完全に消え失せ、肩で息をし、その表情は何か恐ろしいものを見たかのような恐怖の色に染まっていた。
これには蕾もかける言葉が見つからず、ただ名前を呼ぶしかできなかった。
「ごめん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ。さぁ次いこう」
椿は誤魔化すように蕾の手を引き隣の部屋の扉の前に立つ。しかし、どう見ても平気そうには見えず戸に手を掛けたまま椿は固まってしまった。そうして少し時間をかけた後、意を決して手に力を込めた時、その手に椿の手じゃない別の誰かの手が重なった。
もちろん、それは蕾の手だった。
「代わろう、椿。今度は私がやる」
「いいよ。僕がやるから」
「じゃあ順番にしよう。それならいいでしょ?」
蕾は有無を言わせないといった断固とした口調で言い放ち、椿を後ろに追いやって自らが前に出る。そして、扉を開けた。
隙間から中を覗くとそこにいたのは、着物の女性だった。彼女は扉側には背を向けていたので蕾にはその顔は見えないが、ふと人の気配に気がついたのかこちらを振り向こうとしたのですぐに戸を閉めた。椿にはありのまま見たことを話すとホッと肩を撫でおろす。
それから二人は順序よく交代で部屋を確認していった。
日本刀を手入れする男性の部屋や、歌を詠んでいる女性の部屋。まりつきをして遊ぶ子供の部屋があるかと思えばお楽しみ中の男女の部屋に遭遇してしまい、慌てて部屋を離れることもあった。
なかなか空き部屋に巡り合えず戸を開けて中を確認することにも慣れ始めたころ、とうとう蕾が当たりを引き当てた。
その部屋には誰もおらず、念のためもう少し隙間を広げて今度は両の目で部屋の隅々まで見てみたがやはり誰もいない。さらに、真ん中に置かれたテーブルの端には呼び鈴も確認できた。
「椿。空き部屋あった。呼び鈴もある。入るよ」
蕾は椿の手を引いて部屋の中に入った。しかし、誰もいなかったはずの部屋に足を踏み入れた瞬間、固い何かにぶつかった。それは明らかに人の肌感触で、蕾の眼前にははだけた着物の隙間から見える引き締まった男性の胸板があり、あまりの衝撃に顔を赤らめる。
「おや、人の子とは珍しいですね」
背中まで伸びた黒髪がよく似合う美しいその男は、蕾と椿を見て優しく微笑んだ。
「も、申し訳ございません。部屋を間違えてしまって。すぐに出て行きます」
「顔が赤い…」
そう言って、男は蕾の頬に優しく触れる。美しい男は声まで綺麗で、そんな男に至近距離で見つめられてはさすがの蕾も緊張せざるを得ない。
「お、お客様、あの…」
「ん?君の反応、もしかして…」
お客様が何か言いかけた時、突然後ろにいた椿が蕾の手を引きお客様から引きはがした。
そこでようやく初めて、蕾は椿の異変に気がつく。全身をガタガタと震わせ、額からは異常な量の汗が吹き出している。明らかに異常事態だ。
「僕達、戻ってきちゃったんだ」
「椿?」
「蕾には、アレが何に見えてるの?」
「何って、人間の男の人…」
「アレが人間!?」
「だって、普通に話だってできるし」
「アレと話したの!?」
完全に冷静さを失った椿は、お客様をアレ呼ばわりしていることも気にせず声を荒げる。
「僕には、生き物にすら見えないよ」
椿の目には人の形どころか生き物にすら見えない恐ろしいソレは部屋いっぱいに充満しており、今にもその暗い闇の中に引きずり込まれそうで恐怖の対象でしかなかった。
そんな奴が大切な友人に近づき、ましてや触れようとしたので、恐怖で固まった体に鞭を打ちようやく蕾を引き離したのだ。
「蕾、逃げよう。僕達このままじゃ殺される」
もちろん椿は本気だった。けれども、蕾の目に映る彼は椿の言うような恐ろしいモノには見えない。それどころか、事情を話せば助けてくれそうな気さえする。状況は呑み込めないが元々椿の言うことを聞く約束だ。蕾は間髪入れずに椿の意思に従うことを選んだ。
しかし、時すでに遅し。
男は蕾と椿の間に割って入り、蕾をじっと見つめた。
男の肩越しに見える椿はさっきと同じように恐怖に震え、蕾には見えない何かによって壁に追いやられていた。
「つかぬことをお聞きしますが、」
「…はい」
「あなたの目に、私はどのように映っているのですか?」
どう答えるのが正しいのか判断に迷い、男から目を逸らすと彼は少し寂しそうに笑った。
「正直に言ってくれて構いませんよ。怖がられることには慣れていますので」
その表情があまりにも人間らしくて、椿の言うような恐ろしいモノには見えない。だから蕾は自分の直感を信じることにした。見たものをありのまま、正直に答える。
「男の人にこんなことを言うのは失礼かもしれませんが、綺麗な人だと思いました」
蕾の言葉を聞いた瞬間、男は心底嬉しそうに笑って、お礼を口にした。
「あなたのお名前は?」
「蕾と申します」
「蕾さん。それなら、私は松雪としましょう」
蕾が松雪の名を繰り返し呟くと、松雪は嬉しそうに顔をほころばせる。
「フフ、アハハ!嬉しいなぁ~。家族はたくさんできたけど、友人ができるのは珍しいから」
そして突如、松雪は予想外の行動に出た。
蕾を抱え上げ、そのまま部屋に連れ込んでしまったのだ。
ぴしゃりと閉まった戸を椿は開けることが出来ず、強く叩いたが何の効果もない。
今まではコソコソと各部屋を確認して回っていたがそれもお構いなしで松雪の部屋の隣に駆け込み呼び鈴を鳴らした。
不思議なことに、さっき蕾が見たという女性のお客様はおらず、部屋はもぬけの殻になっていた。
一方蕾は、部屋の中の座敷にドサッと降ろされ、立つ暇もなく松雪に迫られていた。
失礼極まりない扱いを受けたはずなのに、なぜかこの美しい男に文句を言おうと言う気になれず、なされるがまま松雪の顔が蕾の目の前に迫って来る。
「さぁ、教えて下さい、蕾さん。あなたには、私がどんな姿に見えているのですか?」
そう言われても、無駄にはだけた着物のせいで妙な色気を放ち、目のやり場に困る。しかし、蕾の気持ちなど松雪は汲んではくれない。
期待に満ちた目で見つめられ、蕾は仕方なくといったように目を逸らしながらポツポツと言葉を紡いだ。
「普通に、人間のように見えますが」
「本当ですか!それは嬉しいなぁ~。あなたは向こうに未練などないのですか?家族とか、恋人や友人とか。それから…夢とか」
松雪の言葉で、蕾はここに来て初めて自分の過去について振り返った。
最近亡くなった父のこと。それよりも前に病気で亡くなった母のこと。母の病気がきっかけでできた夢のこと。向こうで積み上げた二十八年の歴史は蕾にとって決して軽いものではない。境目ノ宿にやってきたのも突然のこと。未練が全くないと言えば嘘になる。
しかし、境目ノ宿に来てからの生活も蕾にとってはかけがえのないものとなっていた。
このまま、向こうに帰るか客となるか選ばなくてもいい生活が続くのなら、それは今の蕾にとって最良の選択のように思える程であった。
だからこそ、この前の芹の助言は蕾には大きく響いていたのだ。
だが今、平衡を保っていた天秤が松雪の言葉により若干ながら向こうに残してきた未練の方に傾いた、その時だった。突然松雪の後ろに無限の闇が広がり、そこには無数のおぞましい何かがいるような気がして背筋が凍った。
蕾が小さな悲鳴を上げると、その闇の中から手が伸びてきて蕾を引きずり込もうとする。
『……ずるい。……ずるい』
『いっしょにあそぼう』
闇の中からそんな声が聞こえた気がした。
しかし、蕾の体は恐怖に抗えず、まるで床に縫い付けられたかのように動かない。死が頭をよぎった瞬間、何かに体を支えられ、グイっと力強く引っ張られた。
気づくと蕾は床に足をつけ、確かにそこに立っていた。常連さんに支えられながら。
「ダメだよ。まだ年季が残っているでしょう?」
今起こっていることに頭がついてこず、完全に固まってしまう蕾。一つ分かったことは助かったということだけだった。
「さぁ、廊下で女将が待ってるよ。行っておいで」
そう耳元で囁かれ、逃げるように部屋を出た。そこには本当に女将がいて、何も言わず左の方を指さした。
そちらの方に目を向けると、離れたところにいる椿が見えた。女将に軽く頭を下げ、蕾はそちらへと駆け出していった。
「年季の明けていない子を連れていくのはルール違反だよ」
「そうはいっても、それを確認する手段がありません」
「従業員服を着ていただろ?」
「難しいことを言わないで下さい。人間の区別なんてつけられないですよ。でも、そうですね。うん。蕾さんのことは覚えました。聞いてください!彼女、私のことを綺麗だって褒めてくれたんです」
松雪がまるで恋をした少年のように恍惚としている間に、女将が部屋の中に入って来た。そして、常連に目を向ける。
「部屋を動かすなら事前に言ってくださいな」
「ごめんごめん。あの子達が例の部屋に近づきそうだったからね。急遽部屋を変えたんだ」
女将はまだ文句を言いたそうにしていたが、どうせ聞いてもらえないと分かっているのかそれ以上は言葉を控えた。
常連は松雪に目を向ける。
「そうか。あの子にはキミが綺麗に見えたのか。それはそれは」
そして、怪しく笑う。
「面白くなってきたね」