堕ちていた
子供の頃、握った拳で友人の顔を殴打した。大人になり、母の腹部をナイフで刺した。更に歳をとり、隣人の妻と姦淫した。それを見て激昂した夫を絞殺した。秩序なぞ知らない。道徳は持ち合わせていない。
私に天使の羽根があったなら、既に羽毛は抜け落ち、真っ黒に染まっているだろう。
ある日、世界に直径10m程の底が見えない大穴があらわれた。
どこかの学者は、これを地獄に通ずる門だと言った。
馬鹿らしい。穴の先など落ちてみないと分からないのに。試しに仔猫を落としてみた。
にゃあ、と一声聞こえたが、その後、想像していたような音は返ってこなかった。
底は無いのか?
そんな事を思っていると、背後から衝撃があった。
強く背中を押されてふらりと穴に落ちる。
一瞬の出来事だったが、自由落下のまま、身体を空に向けて捻る。
穴の麓を見ると、案の定と言うべきか、私を落としたのは見るに堪えない顔をした父だった。
父への怒りと落下の恐怖が混じった紫色の感情に包まれる。
「ふざけるな」
この状況がどうにかなったら復讐してやると思っていたが、無限と思える時間、落下し続け、底に至る頃には意識は消えていた。
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目を覚ますと、私は自宅のベッドの上に居た。
まさか、さっきの一連の出来事は夢だったのか。
とんだ悪夢だ。
顔を洗い、外に出ると、友人が居た。
「何の用だ?」
怒りに満ちた表情の友人に、徐ろに顔を殴打された。奥歯は砕かれ、頬の内側が裂け、口から血が溢れる。
その後、すぐさまナイフで腹を刺された。
強烈な灼熱感と共に、自分の身体が無くなってしまう錯覚を覚えるほどの激しい痛みが腹部を襲った。
「何をする。やめてくれ」
私の意識が朦朧とする中、友人は家の中に入ると、私の妻を外へ連れ出し、犯した。
妻も男も恍惚の表情を浮かべ、結合部からは淫らに体液が飛び散っていた。
長年付き添った良い理解者であった妻が、男の陰部に自ら腰を擦り付けていた。さながら雌犬のようだった。
「───」
私はぼろぼろの身体から力を振り絞り、懐から銃を取り出す。
霞む視界の中、男に照準を合わせるが、妻から一物を抜いた男は、銃を気にした様子もなく私に歩み寄る。
「─ね」
男は何かを呟くと、力を込めて私の首を締め上げた。
満身創痍の私に抵抗する力は無かった。銃を手放し、男の腕を引き剥がそうとするが、まるで力が入らない。脳内が破裂しそうな感覚に襲われる。
呼吸を求めみっともなく舌を伸ばすが、そこに酸素は無かった。
みるみる力は入らなくなり、手足の先が痺れ、冷たくなっていく。
「(突然、なんなんだ?)」
凄惨な状況なのは私の家の前だけで、少し目を逸らせばいつも通りの街並み。街灯が並ぶ小道に、仔猫がのんびりと歩いていた。
「(そうか、ここが地獄か)」
ごりごりと首元を圧迫する音だけが私を包み、程なくして意識を失った。