出勤
霧雨でスーツをかるく濡らしながらの出勤だった。事務所は駅から歩いて5分もかからないとはいえ、折り畳み傘を忘れてしまった那良毅は湿気や砂埃の蒸したにおいの道を転ばぬように駆け抜けた。ハンカチで、額や首を拭った。ネクタイをゆるめた。まだ勤務時間まで何分かある。トイレで身だしなみを整えればよい。
デスクに鞄を置くまでハンカチに意識を向けていた。だから女のおはようございますという声に、おはっすと適当に応じた。
隣の席の女が知らない人物だった。
昨日までは大城祐一郎というアラフォーの男であった。前頭部が禿げ上がり常に寝不足ぎみなのかカフェインを常飲する痩せた男だった。彼とは似ても似つかぬ、肥えた女だった。
初対面の女を前に、今の自分の乱れた服装を恥じた。胸毛が少し見えていたかもしれない。
朝礼でこの女について何か挨拶があるだろう。部署替えや新入社員の類いだろうと考えたが、そんな話は聞いていなかった。
彼の予想に反して女の自己紹介は無かった。始業時間に社員たちはメールを確認したり電話応対に追われたりと慌ただしい。日経新聞に目を通しつつコーヒーを飲む彼女。毅は大城がいつ来るのかと入口に何度も視線を向けた。当たり前のように大城のデスクに新聞をしまい、そして大城のものだったPCを操作しメールやファイルを開き、上司からデータ入力などを任されていた。
「どうしました?」
名も知らぬ女が不審者を見る目で毅を睨む。
「えっと、どちら様ですか」
すると女は笑った。俗にツボにはまると言われるようなそれだった。事務所内に笑い声を響かせた。
「田中さんどうしました?」
「いえちょっと、個人的にすごく面白いことがありまして」
「え、何々?」
「毅くんが私にどちら様ですかって」
「那良さんギャグセン高めっすね」
「ほら忙しいんやから冗談はやめよな」
田中、というのは分かった。自分だけ疎外されていることも分かった。