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第二章 エアータービン

 翌朝。目覚まし時計が鳴る前に、敏男は眠りから覚めていた。

 連日のような悪夢は見なかったが、気分は悪かった。前日の夜は、緊張していたのか、思うように寝つくことができなかったのである。

 寝汗がひどく、嫌な動悸もしている。カーテンから差し込む光に、うっすらと照らされた天井の木目が、俺をにらんでいるような気がした。それは犯罪者を見るような目つきだった。

 ほの暗い寝室。ぐったりと布団の上で胡坐あぐらをかいていると、ほどなく五時にセットした目覚まし時計が鳴った。うっとうしい音を止めて、自身の体にむちを打って立ちあがる。加代の布団は既に畳まれていて、敏男も同じように乱れなく布団を畳むと、寝室から出ていった。

 加代は包丁でトマトを切っていた。その背後を通って洗面所へと行く。いつもの通り歯を磨き、ひげを剃って、イボに気を付けながら洗顔した。

 顔を拭いたタオルを肩にかけたままキッチンに戻ると、加代が出来上がった品をテーブルに並べていた。スクランブルエッグ、サラダ(レタスの上にトマト)、そしてソーセージが一緒に盛られた大皿と、トースト二枚がのった正方形の皿。

「おいしそうだね」

 そう言うと席に座った。

 サラダをつつきながらトーストを口に入れる。

 敏男の一言に、加代からは何も返事はなかったが、毎日のことなので取り立てる必要はない。

 目覚めは最悪だったが食欲はあった。あっという間に食事をすませると、コーヒーの入ったマグカップを持って席を立つ。

「頑張ってね」

 背後から加代の声がした。まず耳にすることのない言葉だった。

「うん」

 敏男は照れくさい素振りを見せながら返事をすると、コーヒーの入ったマグカップを持って、キッチンから出ていった。

 そのまま玄関まで行くと、あっと思った。今朝の新聞をテーブルに忘れてきてしまった。取りに戻ろうとしたが立ち止まる。

 新聞を読んでいる余裕はない。今日だけは患者の治療だけを考えるべきだ。

 気持ちをきりかえて、サンダルを履いてドアを開ける。連日のように厚い雲に覆われていて湿度も高い。胸くそが悪くなる天気である。薄暗いので、階段を確認しながらゆっくりと下りていった。

 正面に回ると、『中村歯科』と大袈裟おおげさに印字された入り口の鍵を開ける。待合室を通って診察室に入り、忘れずに裏口の鍵を開けた。診察台に座ると、テーブルにマグカップを置く。まだ、掛け時計は七時を指していなかった。

 まず何をしようか。敏男はぼうっと壁に視線を向けていた。

 とりあえず着替えよう。

 立ち上がって壁際のクローゼットから、黒色のチノパンと白衣を取り出す。下半身は患者から見えてしまうので、もちろん履き替えるが、上半身は悩んだ。いつものように白衣を羽織ってもいいのだが、今日は大事な日だ。念には念を入れる。再びクローゼットまで行き、白衣の中に着るものを探した。とりあえず無難な無地の白色のTシャツにしておく。

 着替え終わると、だんだんと調子が出てきた。

 次は診察台に備わっている治療器具の動作確認だ。患者がいないので、しばらく動かしていなかった。

 中の綿が目立つ穴のあいた丸椅子に座り、エアータービンを持って診察台の足踏み機を踏みつけた。この足踏み機に連動して、エアータービンの先端のドリルが勢いよく回転するのである。

 回転と同時に鋭い音が部屋中に響き渡る。一般的には嫌な音だと理解されているが、敏男にとっては最高の音だった。目を閉じながら聞き惚れる。これが歯科免許を取得した者だけに許される、歯磨きをおろそかにしたやからを仕置きするための素晴らしい器具なのだ。

 他の器具も確認したが、どれも壊れていなかったので安心した。最悪でもエアータービンとバキュームが正常に動けば、今日の治療はできる。

 マグカップを手に取り口もとに持っていく。コーヒーを喉に流し込むと、勢いをつけるために床を足で蹴った。丸椅子のローラーが力強く回転して、座っている自分を、壁際の手洗い場まで連れていってくれた。そこにマグカップを置くと、立ち上がって洗面台と一体型になっている引き出しを開けた。歯科道具を探すためである。

 あれ……ない。どこにしまったっけ。

 患者が来なくなり一度歯科道具を全て片付けたのだが、しまい忘れてしまった。

 また別の引き出しを開けてみる。患者の顔なんて覚えていない数年前のカルテが出てきた。

 とうとう備え付けの引き出しを、全部確認しなければならなくなった。片っ端から開けていく。ようやくデンタルミラー、探針たんしん、エキスカベーターを見つけることができた。一本ずつ握ると、再び丸椅子の世話にはならず、歩いて診察台のテーブルまで戻っていった。

 縦の方向にきれいに並べいく。

 何となくデンタルミラーが気になった。天井の照明が反射したのだろうか。取り上げると先端の丸い鏡に自身の顔が小さく写っている。加代が磨いてくれたので先端の鏡はぴかぴかだ。

 もっと顔まで近づけていく。ぼんやりと小さく写っていた顔が、だんだんと大きくなっていった。

 すると残り数センチという所で、顔がぐにゃりと歪んだ。それと同時に「今日の患者を成功させたところでどうせ無理だ。どうあがいても中村歯科は潰れる運命。お前のせいで……」という声も聞こえたのである。

 俺は、とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまったのか。

 目下のところ、中村歯科が重荷になって、ストレスを感じていたことはわかっていた。繰り返す悪夢の原因も、中村歯科に違いない。加代には申し訳ないが、心のどこかでは逃げてしまいたいと思っている自分がいた。

 無理なのかもしれない。誠一が死んだあと、何をやってもうまくいかなかった。悪評を消そうと努力しても、どうすることもできなかった。

 きっと他の男と籍を入れていたら、中村歯科はここまで悲惨な状態にならなかったと思う。

 医者は神様であり何をやってもいいだなんて笑わせてくれる。結局、俺には何の力もなかったのだ。周囲から見放されて落ちぶれていく堕天使を、加代はどんな気持ちで見ているのだろう。

 気分が悪くなりデンタルミラーをテーブルの上に戻した。吐きそうだ。

 診察台に座ると、右腕で目を覆いながら横になった。頭の中がぐるぐるしている。

 中村歯科の再起について、可能性が全くないというわけではない。たった数%の可能性でも挑戦しなくてどうするのだと、もう一人の自分が俺を納得させていく。

 深呼吸を繰り返していると、徐々に落ち着いてきて他のことを考える余裕が出てきた。起き上がり、手洗い場に置いたマグカップを取りに行く。ほんの少ししか残っていない。二階までインスタントコーヒーを取りに行ってもよかったのだが、面倒くさいので止めた。姑息かもしれないが、そこにポットの湯を足した。薄まって、ほぼ味はしないが別にいい。

 だいたい四百ミリリットル入るマグカップに、目一杯入れて三杯お湯を飲んだ。腹は水で膨れたが、気持ちが何だか落ち着いてきた。

 気持ちが静まると少し横になりたくなってきた。再び診察台に戻り、背もたれに寄りかかって目をつぶる。加代には、なんて無神経な人なのと怒られるかもしれないが、少しだけだ。許してくれ。時刻は八時前。まだ時間はある。

 意識を眠ることに集中させた。


「おい、そこに突っ立っていたら邪魔だぞ!」

 その怒鳴り声に聞き覚えがある。

 振り返ると、なんと誠一が立っていた。

「手が空いているなら、奥の患者を診てくれないか」

「は、はい……」

 目の前に死んだ誠一がいるという、異様な状況に対して事態が飲み込めず、曖昧あいまいに返事をした。

「まったく、こういう忙しいときに……」

 誠一はぶつぶつ言いながら、患者が座っている診察台の方へと行ってしまった。

 ……どうなっているんだ。

 一つ一つこの状況を整理していかなければ。俺は、中村歯科の手洗い場に立っている。白衣を羽織っている。目の前には売り付けたはずの診察台二台が稼働している。そして、患者に向かって熱心に治療の説明をしている誠一がいる。

 ああ、これは夢だと思った。眠っていて夢を見ているに違いない。

 そう自身に言い聞かせると、だんだんと落ち着いてきた。

 それはそうと、俺の夢の中で治療する相手はどんな奴なんだ。わくわくしながら流しの引き出しから医療用手袋を取り出して、誠一に言われた通りに、奥の診察台へと行った。

「今日はどうかしましたか? ……えっ」

 診察台で横になっている患者の顔をのぞいて、敏男は手に持っている手袋を落としそうになった。

「右下の奥辺りが痛いんです」

「お、お前……。加代なのか」

 どう見ても目の前にいる女は加代なのだが、なぜか顔つきが若い。それに最近では見かけない服装をしている。もしかしたら十年前の加代じゃないのか。 

「ちょ……お、お前?」

 加代は、失礼ですよという怪訝けげんそうな顔色に変わった。

「先生とどこかで、お会いしたことありましたっけ? この病院、私、初めてなのですが」

 きまずい空気が流れている。

 敏男は顔を診察台のテーブルに向けた。

「いやいや。私の友人と顔がそっくりだったので」

 テーブルの上の歯科道具をいじりながら、空笑いをしてごまかした。

 ここにいる加代は俺のことを先生としてしか知らないのか。

 加代に背中を見せたまま、テーブルに置かれたデンタルミラーを手に取ってペン回しのように指でくるっと一回転させた。

 あれは十年前の加代だ。あんなに可愛い顔してたっけ。十年も経てばあんなに顔の様子は変わるのだろうか。苦労させすぎたのかもしれないな。

 それにしても俺の夢なのに、なんて面倒臭い設定なのだろう。早く覚めてほしいと心から願った。

「おい、森田さんのレントゲン忘れてるぞ」

「森田さん?」

 誠一に呼ばれると、一枚のレントゲン写真を受け取った。正面から撮影されたもので、歯が上下横一列に並んでいる。ふと右下の角に貼られた青い付箋に気がついた。

 目を丸くする。そこには鉛筆で森田加代と書かれていたのだ。 

「ほら、患者を待たせてるぞ!」

 立ち尽くす敏男の肩をぽんとたたくと、誠一は早足で持ち場に戻っていく。

「……確認ですが、森田加代さんですよね」

「ええ。そうですけど」

 やはりここでの加代の姓は、森田で間違いないようだ。

 たとえ夢の中でも、森田という言葉を耳にしたくなかった。

 そんな気持ちもわからず、加代は何でそんなことを聞くのだろうという顔をしている。

 落ち着け、落ち着け。俺の夢の中じゃないか。現実の話ではない。

 軽く息を吐き出すと、意識を目先に集中させた。

「えっと、右下の奥辺りだよね?」

 レントゲンを見ると、右下六番の歯にインレーが充填されているようだ。だが、さらにその下に黒い影があった。

 ……虫歯かな。

「口の中を見るから、開けてね」

 加代の口の中をのぞくと、不思議とその右下六番の歯以外はとても白くきれいだった。余計に右下六番の銀の詰め物が目立っている。

 探針たんしんを手に取り、尖っている先端でこすってみた。想像以上によくはまっていて、虫歯の原因になりそうな隙間すきまはなさそうに感じる。

 本当に原因はこの歯なのか。風を送って表情を見てみるか。シリンジを使い、冷たい風を送って加代の表情を見てみた。

 すると声は出さないが、加代の顔が少し歪んだように見えた。

「あ、痛い?」

 加代は敏男に、痛いですという視線を送っている。

「ごめんね」

 加代の口からシリンジをそっと取り出す。

 現状、目には見えないが、インレーの下に原因があるのだろう。

「多分、詰め物の下に虫歯があるね」

「そう……ですか」

 加代の表情が曇った。

 何だろう。

「どうしたの?」

「…………」

「そこに虫歯があると何か問題でもあるの?」

「…………」

「何か言ってくれないと」

 敏男は近くにある丸椅子に腰かけた。現実と違って新しく、穴はあいていないようだった。

 そういえば、加代のカルテってどこにあるんだろう。考えてみればカルテも見ずに治療をしていた。本当ならやってはいけないことである。

「ちょっと待ってて」

 加代にそう言うと敏男は立ち上がった。

 ……えっ。

 気づくと、さっきまであった診察台二台がなくなっていた。もちろん、そこに横たわっていた患者の姿もない。騒がしかった診察室も、がらんと誰もいなくなっていた。

「お父さん?」

 誠一を呼んだが返事は返ってこない。

 待合室、受付、レントゲン室、トイレ。いそうな場所を探したが、結局誠一の姿はなかった。

 首を傾げながら診察室に戻ると、加代が上半身を起こしてこちらを見ていた。

「どうかしましたか」

「いや……」

 先ほど座っていた丸椅子まで戻ると、ゆっくりと座った。今、診察室には俺と加代しかいない。自身の夢なのに寒気がしてきた。

「この詰め物って、誰にやってもらったの?」

「……森田さんにやってもらったの」

「えっ……」

 少し間はあったが、無言ではなく返事をしてくれた。

「そう、なんだ。……森田さんではなく、俺が治療してもいいの?」

「…………」

 また加代は黙ってしまった。 

 お互い無言の状態がしばらく続くと、急に加代が自身の顔を手で押さえて嗚咽し始めた。

「森田さんって、ひどい人だったの。私の歯を治療したあと、いなくなっちゃったの。結婚するって約束したのに……」

 目尻から流れ落ちる涙が見えた。

「先生、その詰め物の下に虫歯があるんですよね?」

「そうだと思うけど、詰め物を外さないとはっきり断定はできない」

「かまいません。先生、治療をしてください」

「……わかった」

 加代は手に持っていたハンカチで涙を拭いていた。

 診察台に寝かせると、口のわきに排唾管はいだかんを引っ掛け、エアータービンのドリルでインレーの周りを注意深く削っていった。

 普段こんな治療は朝飯前のことなのだが、森田の不手際を繕うという理由から内心イライラしていた。一番許せないことは、たとえ夢の中だとしても、なぜ森田と加代が結婚しているのだ。

 くそっ、森田。

 ちょうどそのとき、インレーが外れて痛みの原因が露呈した。その下は虫歯で真っ黒になっていて、象牙質ぞうげしつまで達しているようだった。多分、歯髄しずいまでは進行していないと思うが。

 象牙質ぞうげしつの虫歯の場合、エアータービンのドリルで虫歯を取り除くときには大変な痛みも伴う。そのため麻酔を使って治療するべきなのだが、診察台のテーブルにはなかった。

 たしか手洗い場の棚にしまった記憶がある。取りに行こうと加代に背を向けた。

「おい、敏男。俺だよ」

「えっ?」

 突然背後から男の声がした。だが、この声は初めてではない。

「もしかして森田……なのか?」

「ああ」

 そんな馬鹿な。ここに森田がいるわけがない。

 間を置かずに振り返ったが、もちろん加代が診察台で横になっているだけである。

「敏男! 俺だよ!」

 また聞こえた。

 敏男は声のする方へゆっくりと近づいていった。その声は、加代の口の中から聞こえてくるのだ。

 理解し難い状況の中、おそるおそる口の中を覗いた。

「おい、早く取り除かないと、俺が加代を奪っちゃうよ」

 何が起きているのかわからず、全身に鳥肌が立った。

 その声はどす黒い虫歯から聞こえてくるのだ。

 目を離さずに手を後ろへ回して探針たんしんを握る。その尖った先端を残り数センチという所まで近づけたとたん、黒ずんだ虫歯からやっと目視できるぐらいの赤く小さな唇が、にゅるりと出てきた。

「敏男っ!」

「ひっ!」

 突如、得体の知れない唇が大声をあげた。

 敏男は驚いてしまい、バランスを崩して診察台のテーブルへと寄りかかってしまう。その衝撃から上に載った歯科道具が、音を立てながら落下してしまった。

「そうか。形を変えて、また加代を奪いにきたんだな。森田」

 尻もちをついた体勢を立て直すと、エアータービンを持って足踏み機のスイッチを入れた。鋭い音を立てながら回転するドリルを加代の口もとへと近づけていく。

 殺してやる。

 加代の口の中にエアータービンを入れると、ねらいを定めた。

 とたん、その唇が虫歯の中へと隠れてしまった。

 怖じ気づきやがったのか。逃がさないぞ。掘り出してやる。

 先端のドリルを歯に接触させると、金属音と混ざりながら歯の表面が削れていく音が響きわたる。

「森田、出てこーい。森田っ!」

 削っても削っても森田は出てこない。

 虫歯の黒くなっていた部分がなくなり、急に歯が赤くなってきたなと思うと、自身の頬へと向かって何かが飛んできた。手で拭うと、血だった。

 急に我に返る。

 ……どうなっているんだ。

 右下六番の歯に視線を落とすと、削り過ぎてしまい、既に歯という原型はなく、火山が噴火したマグマのように血たまりになっていた。

 俺は何てことをしてしまったんだ。

 血のついたエアータービンを持ちながら、ふらふらと後ずさりをするが、足もとの丸椅子に気づかずに引っ掛かってしまう。声をあげて再び尻もちをついてしまった。

「せんせぇい、いたぁーい」

 加代は上半身を起こすと、床の上で脅える俺を見下ろしながら、口から血を流した。その目は真っ黒で白目がない。体の向きを変えると、診察台から足を下ろして、まさに立ち上がろうとしている。

「く、くるな! バケモノ!」

 敏男は自身の近くに転がっている歯科道具を投げつけて尻込みをする。

「ひどいな、敏男。お前の大好きな加代だろ? 抱きしめてやれよ」

 再び声がして、立ち上がった加代を見上げると、首もとからにょきっと頭を覗かせていたのは森田だった。学生時代当時の顔のままである。

 敏男は絶叫するしかなかった。

 キノコのように森田の頭部を生やした加代が、ゆっくりと近づいてくる。

 このままだと俺はどうなってしまうんだ。

 恐怖からパニックに陥った。

「くるな! 加代、加代、加代!」

 敏男は床に落ちていた探針たんしんをつかむと、尖った先端を自身の首の右方にめがけて勢いよく突き上げた。無意識に低い声を上げたが、痛みは感じない。ただ、上半身を支えるための力が入らず、あおむけに倒れた。

 見慣れている中村歯科の白い天井が、だんだんとぼやけていく……。

 ようやくこれで、夢から覚めることができるという安堵から、口もとがほころんでいた。

「敏男っ!」

 かすむ視界に、突如にょきっと森田の頭が覗き込んだのである。

 敏男は恐怖から、喉がつぶれるまで悲鳴をあげ続けた。


「もう三十分しかないわよ!」

「うわあっ!」

 敏男は飛び起きて診察台から落ちそうになるが、なんとかこらえる。汗をびっしょりとかいて、心臓が高鳴っていた。

「こんな時に寝るから変な夢を見るんでしょ!」

 加代は受付の席に足を向けた。

 夢……。夢でよかった……。

 念のために探針たんしんで突き刺した辺りを右手でさすってみたが、特に異変はなく安心した。

「加代。お前、右下六番にインレーってあったっけ?」

 呼び止めると、加代は振り返った。

「もう忘れたの? 私は虫歯と無縁なの。インレーなんてあるわけないでしょ」

 加代は首を傾げると、きびすを返して足早に行ってしまった。

 そうだった。加代には虫歯は一つもなかったんだよな。夢の中で突き刺した辺りがどうも気になり、さすりながら空笑いをした。

 診察台のテーブルに手を伸ばしてマグカップを手に取る。立ち上がって手洗い場にあるポットまで歩いていった。湯を注いで口の中にいれる。やけどする程の熱さのはずだが、気分が興奮しているからか、感じなかった。

 マグカップに半分ぐらい残して診察台に戻った。座ると、大きなため息が出る。

「暇なら、待合室を掃除してきてください!」

 びっくりしてマグカップを落としそうになった。

 色あせたコードレス掃除機を持って加代が目の前に立っている。

「わかった」

 敏男がその掃除機を受け取ると、加代はきびすを返して、また受付へと戻っていった。

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