亡霊と乙種魔獣
前回までのあらすじ
ナマズ退治だと思ったらガチでモンスターだった件。
満天の星空の元で静寂に浸っているヴォーストの街にも、獣たちが静かに夜明けを待つ河辺の森にも等しく朝はやってくる。
天空を庇う深い藍色の緞帳がゆっくり引き上げられ、まばゆい朝日が今まさにこの世界を照らそうとしていた。
水面に近づいてもその動きがわからないほどゆっくりと流れている川は、滑らかな鏡面に朝焼けに染まる赤紫の空を映し出していた。
やがて辺りを照らす光がこの世界に命の息吹を吹き込んでいく。草葉の朝露が一斉に赤く染まる。
そしてその光は赤から黄色、黄色から白へと目まぐるしく色を変え、森はそれに呼応するように獣たちのざわめきに満たされていく。
川面を走る一艘の船が静かに一筋の波を作りだし、地平線を割って表れた太陽がその波頭にキラキラと反射していた。
船には浅黒く日焼けした中年の船頭と、消え入りそうなほど静かに船縁に腰掛けている全身黒尽くめの女と、車の窓から顔を出す犬の様にはしゃいで船から身を乗り出している白い革鎧の少女が居た。
黒尽くめの女は何もない空間をゴソゴソとあさる仕草とともに何かを取り出すと、白い革鎧の少女におもむろに手を伸ばす。
「リリオ、あんまりはしゃいでると船から落ちるぞ」
そう言って少女の腰ベルトを掴むと麻雀の点棒のほどの小さな小枝を挟んだ。
「な、なんですかこれ?」
黒尽くめの女が眠そうな目をさらに細めた一瞬の沈黙。
「……おまもり」
「いま説明面倒くさくなったでしょう!?」
少女は気にする風でもなく腰ベルトに挟まれた小枝を落ちないように直すと、ニッとはにかんだ。
朝日に照らされてこれから起きる冒険に興奮を隠せない無邪気な笑顔は波間にきらめく朝の太陽よりも眩しかった。
‡ ‡
私の名前は妛原 閠。二十六歳。元事務職。
この世の中の闇を一手に引き受けたかのような不機嫌な顔をして、毎日深いため息をついていた私は闇そのものだった。
朝日を浴びようものなら浄化されて灰になってしまうんじゃないかと自分でも思っていた。
平日はどんなに押さえつけても言うことを聞かないバサバサの黒髪を目深にかぶった黒いキャスケット帽で隠し、黒いパンツスーツで黒尽くめに身を包んだうえ、伊達眼鏡とマスクで自分自身を隠していた。
社会は悪意に満ち溢れていた。満員電車の中のつまらない喧嘩、上司の理不尽な叱責、給湯室の噂話。私はそのすべてから距離を置きたかった。
休日は昼間でも厚手の遮光カーテンを引いたまま、一分たりとも陽の光を浴びずにネットゲーム《エンズビル・オンライン》の世界に入り浸っていた。
《エンズビル・オンライン》はネットワークで繋がったマルチプレイヤーのロールプレイングゲームで、私はゲームの中で心停止を意味する『エイシス』と名乗っていた。コツコツとレベルを上げてレベル九十九の《暗殺者》系統の最上位職《死神》となり、刺繍入った黒のローブに身を包み、常に《隠蓑》技能で身を隠していた。
ゲームの世界も悪意とは無縁ではなかったからだ。それでも姿さえ消していれば殆ど関わらずに済む分、現実世界よりはずっと楽だった。
現実世界でも、ゲームの中でも漆黒の闇に包まれて姿を消している亡霊。それが私だった。
ある日、目が覚めたら、ゲームの中の『エイシス』の格好で、能力とアイテムを全て持ってこの世界に居た。
私のいた現実世界ともゲームの中の世界とはまた違う世界。奇妙な植物に覆われた森に珍妙な獣が闊歩する世界だった。
そして武者修行中の少女『リリオ』に出会った。
私は《隠蓑》を使って姿を隠しながらこの少女を観察していたのだけれど、ある日よくわからないメンフクロウとヒグマを合わせたような魔獣に出くわしたときにその事件は起きた。
レベル九十九の私にとっては大抵の物理攻撃は自動で避けられるのだが、それでもリリオは魔獣の会心の一撃から私を護ろうとしてくれたのだった。
私はその瞬間に彼女に美しい物語を紡ぐ力があることを直感した。だから、私は彼女に『エイシス』ではなく『ウルウ』と名乗り、共に旅をすることにしたんだ。
石鹸も泡立たないほど酸化した皮脂とアンモニアと汗と腐敗臭に塗れていたリリオを息を止めて丸洗いしたり、フカフカの《鳰の沈み布団》を取り合ったり、風呂の神官に神話の説明を受けてる間にぬるぬるしたウーパールーパみたいなお風呂の精霊とやらを捕まえて叱られたり、旅籠の美味い飯に舌鼓を打ったりしているうちに、すっかり打ち解けて犬っころのようにじゃれついてくるようになった。
私も私で、じゃれつかれるのも悪い気はしなかった。現実世界ではまれに見たことはあっても経験したことはなかった。
今となっては毎朝腰にまとわりつくリリオの暑苦しい抱擁で目を覚まし、引きつった笑顔でそれを引き剥がして、日の出前の川辺を散歩しに繰り出すなんていう、心身の健康を絵に描いたような生活をしている。
死んだように生きているとか、亡霊とか、どっちの世界でも言われたけど、私自身はこっちの世界でかつてないほどに『生きている』ことを実感していた。
リリオの紡ぎ出す美しい物語を見届けてやろうと思っていたのに、私の舞台の方がリリオという女優を得て大きく変わっていたんだ。
私の舞台だとか、そういう芝居がかったセリフは頭の中で思い浮かべただけでも、一度気づいてしまうと耳まで赤くなる。
実際こういうのは思い浮かんでしまうし、下手をするとヒロイン気取りな行動にまで起こしてて、どうしようもなく恥ずかしくなる事がある。
自分でもこういう痛々しいのはやめようと思っても、思い浮かんでしまうのだから質が悪い。そして自覚があるんだからなお悪い。
一度襲いかかってきた野盗をリリオが返り討ちにしてバラバラした時、完全無欠のハッピーエンドが見たいという理由で、芝居がかったくさいセリフを吐きながら、倒した野盗にポーション使って上に金貨を握らせて追い返した事があった。
まさに自分の行動が厨二病のそれで、恥ずかしくて、どうにも耐えられなくてその後で膝を抱えて幌馬車の中で座り込んでしまったものだ。
それをリリオはこういうのを含羞の人って言うんだよねとか、どこで覚えたかわからない難しい言葉を使って私のことをからかったんだ。
私はそれを絶対忘れない。そもそも『忘れる』ということができない体質なんだけどね。
『芝居』といえば、ゲームの中で同じギルド仲間のペイパームーンってプレイヤーがこういう芝居がかったセリフが好きだったのを思い出した。
私はゲーム内アイテムの説明文が好きで、ペイパームーンは私の入手できなかったアイテムのフレーバーテキストのスクリーンショットを送ってくれたりしたのだ。
ペイパームーンも黒尽くめのハイエルフの女魔術師だったけど、《技能》に割り振れるポイントを全部多重詠唱に振っていた。
防御はMETOってレベル99の盾騎士にまかせていて、ペイパームーンの多重詠唱の攻撃力と合わせて無敵砲台と言われていたんだっけ。
ピクシー種の《歌姫》のオデットとか、ドワーフの《黒曜鍛冶》のレンツォとか、死霊術師のアンデッドの『軍団ひとり』とか、私の所属していたギルド《選りすぐりの浪漫狂》は選りすぐりにおかしな連中ばかりだった。
ギルドの他のメンバーは、今頃私のキャラクター『エイシス』が何ヶ月もログインしてないのを気にしてくれているのだろうか。
そんな物思いに耽っていると、船頭の声が私をこっちの世界の現実に引き戻した。
「よーし、ここらへんだあな。まあ一、二尾もやれりゃあいいかねえ」
今日はリリオの叔父が開いている冒険屋事務所の入所試験として出された、乙種魔獣を倒すというクエストに付き合ってここまで来たのだった。
リリオが目をつけたその乙種魔獣は霹靂猫魚というらしい。船頭の話では雷属性の水棲の魔物ということのようだった。言うなればデンキナマズ。
攻撃方法が電気による感電ということならば、それさえなんとかしてしまえばただの魚だろう。一応リリオに『おまもり』として雷属性の耐電装備を装備させたから、雷属性のダメージは三割引になるはず。
頑丈さが売りのリリオのことだから、ちょっとしたアイテムを装備させるだけで、一ランク上の粘り強さを見せてくれると思う。
「根こそぎにしてやります!」
キラリーンと効果音が入りそうなほど眩しい笑顔で威勢よく答えるリリオ。朝っぱらから眩しすぎる。
その眩しすぎる笑顔をこっちに向けてきた。根こそぎ取った魚を私のインベントリに放り込もうってことか。
「私を当てにするな」
えっ?あ、そう。そうか、これは私の入所試験なんだっけ!と言わんばかりの表情の変化。全く一瞬たりとも見逃せない。
「担げるだけ行きます!」
担ぐのか。生魚を。せっかくリリオが在庫を不安がるほど盛大に石鹸を使って毎日綺麗にしてやっているのに、それはないだろう。
「魚臭くなりそうだな……」
私はため息混じりにつぶやいたが、やる気満々で道具の確認を始めたリリオの耳には多分届いていない。
陽はすっかり昇り、辺りはリーリーだのチキチキだの賑やかな鳴き声で満たされている。
もちろん鳴き声から想像すれば鳥や虫なんだけど、どう見ても味噌汁に入っている蜆みたいなのがひらひらと飛んでいたり、雉だか鹿だかわからない四足の動物や、兎みたいなふわふわの羽毛をまとった四足の鳥が普通に存在している世界だから、どんな連中の鳴き声かはわかったものではない。
でも森からも草むらからも離れた水上にいる私達にとっては喫緊の脅威ではないし、少なくとも今の所私の自動回避で避けきれなかった敵は出てきていないから、そんなには心配していない。
目の前には夜明け前から変わることなくカフェオレのような茶色に濁った水が静かに流れる。その水面が不穏な気配を発している。
私には生体感知スキルという便利な能力がある。生体が発生する筋電位やそういった物を感じ取って、生物の有無や大まかなサイズを感知する能力だ。
今の所川の中からはせいぜい大きめの鯉くらいの生体反応しか感じられない。静かに隠れ潜む生物を全て見つけ出せるほどこのスキルも万能ではない。
ただ明らかに何かがおかしいと暗殺者の勘が訴えてくる。
そんな能力を持ち合わせていなさそうな船頭ですらも、わずかに身をかがめて臨戦態勢を取っている位には、辺り一面にピリピリとした緊張感が漂っているのだ。
リリオはといえば、そんな空気を振り払うというよりは、全く感じていないのかと思うほど呑気に、長い棹を振り回している。底の見えない水中の霹靂猫魚を棹で突いておびき出そうということなのだ。
今回はこれがリリオの入所試験ということもあるので、お手伝いはちょっとしたアイテムによるバフぐらいにしておいて、あとは高みの見物を決め込む事にしている。
私はあくまでリリオの舞台を見る観客なのだ。
「煮ぃー!焼ぃー|!揚げ霹靂猫魚~!」
鼻歌なのか掛け声なのかわからないような奇声と共に長い棹を勢いよく水面に突き立てる。長い棹がチャポンと小さな音を立てて、その半分以上がシュッと水中に消えて、川底の泥にズボッと刺さる。
小気味よいリズムの後に広がる静寂。水面に波紋が広がっていく。
リリオが刺さった棹を回収しようと手を伸ばした途端、棹はリリオの手に吸い付くように川底から飛び上がってきた。
船頭が怪訝な顔をしている。
「いやまあ……ようにっていうか、はじき返されたんだろうけど」
私は足元に嫌な動きを感じ取ったのですぐさま立ち上がって、念のためにリリオの後ろからそっと腰ベルトを掴んだ。
次の瞬間、目の前数メートル先の水面がグニュリと歪んだかと思うと大きくせり上がり、丸みを帯びた海坊主のような塊が姿を表した。大きな波で船首がぐらりと大きく持ち上がる。
クジラと見紛うような巨大なナマズだ。ヌルヌルとした体の表面をいくつもの小さな稲妻模様が這うように光っている。
そいつは頭を水面から高く持ち上げ、振り返りざまにつぶらな瞳でこっちをちらりと見ると全身の模様がすっと消えて鼻先だけが強く光った。
その瞬間こちらに向かってその光の束が走ってくるのが見えた。
自動回避が発動して勝手に避けようとする身体の衝動をキャンセルして、防御しようともしないリリオが吹き飛ばされないようしっかりと腰ベルトを掴みなおして支える。
凄まじい轟音と光がリリオの掴んでいた棹を直撃する。暴力的な光の塊が棹を伝わってリリオの腕、肩、背中を這い回り、私の腕から身体の表面を伝って船に散っていく。
私自身は雷属性の無効化アイテム《雷の日と金曜日は》を装備しているのでノーダメージなのだが、流石にリリオはそういうわけには行かず先程の攻撃の七割は食らってしまったようだ。
リリオの体力からすればダメージとしては大したことないにしても、稲妻の光と轟音で硬直したまま気絶している。
とっさに私達から飛び退いて直撃を避けていた船頭さんもその轟音には身体がすくんでいるようだ。
大ナマズは雷撃を放ったままの姿勢で、大きく後ろに倒れ込んで行くところだった。
バッシャーンと盛大に水しぶきを上げてそいつが尻尾を残して水中に沈んで行く頃には、船頭さんは早くも体勢を立て直して船を繰ってこの場から離れようとしていた。
「ありゃあ主だあ。引きが強いな嬢ちゃん!」
リリオはまだ固まっていた。ステータス異常というほどのことでもないので、以前リリオが私に試そうとしたように酒瓶で殴れば回復するだろう。いや、この石頭はもっと硬いもので殴らないと駄目かも。
私はアイテムで属性攻撃を無効化しているけど、それ無しであの雷撃をまともに食らってしまったら大変だ。なるほど主というだけはある。
私は急いで記憶を手繰る。ウィキペディアのデンキナマズのページには、体表を包むように発電器官が発達していて最大三百五十ボルトの電圧を発生させられると書いてあったし、引用されていたリンク先のページによると最大長は百二十二センチ、出版されている記録上の最大重量は二十キロ、報告されている最高齢は十年と書いてあった。一度見たものを忘れないという現実世界のほうの私の技能だ。
生体感知スキルで川底に沈んでいるデンキナマズの大きさを調べてみると、普通乗用車くらいの大きさはありそうだ。つまり全長約五メートルといったところか。
記録上に残っているデンキナマズの最大長の四倍。二乗三乗の法則にしたがえば体組成密度が均質だとして重量は六十四倍、つまり千二百八十キログラム。ちょうど普通乗用車くらいの大きさと重さだ。体表面積も八倍ともなれば三千ボルト近い電圧を作り出せることになる。
ウィキペディアの二乗三乗の法則の項目によると、水中では浮力が働くため動物の大型化には有利だが、体が二倍になれば体重は八倍になるのに対して、魚類のような鰓呼吸では鰓の表面積は四倍にしかならないため、単位体重あたりの摂取できる酸素量は二分の一になり、大型化には自ずから限界があると書いてあった。
こんな異世界だからまともな物理法則が適用できるとは思わないけれど、それにしても稀に見る大きさであることは確かだろう。
大ナマズは一旦川底で体勢を立て直そうとしているようだった。
生体感知で見るとぼんやりと光っていたのが、段々と力強く光るようになって船を中心に一定の距離をおいてきっちりと円を描くように泳いでいる。
こっちが生体電位を感知して相手の居場所を探るのと同じように、むこうも発生させた電場を使ってこの船の位置を特定して狙いを定めているのだろう。
水面にボコボコと泡が出てきては、時折火花が上がり、パチパチと弾けるような音がしている。大ナマズが作り出した電力が肌の表面を流れるときに発生したジュール熱で、水が沸騰しているのだろう。あるいは鰓の効率が悪いのを、水の電気分解で酸素を発生させて補っているのかもしれない。時折パチパチと弾けるような音が混じるのは、水素が火花で着火している音かもしれない。
いずれにせよ、ほんの十数秒の間に大ナマズは次の一撃の準備を着実に整えてきている。最初の一撃で仕留められなかったから、次の一撃は割と本気で来るだろう。
リリオはまだ目を覚まさない。腰のベルトをしっかりと掴んで倒れそうになるリリオを支える。
さてどうするか。
バチバチボコボコと音をさせながら、再び目の前の水面が大きく持ち上がって真っ二つに裂けた。
大ナマズは尻尾の先で器用に立ち泳ぎをして体の半分以上を水面に出した。
体の表面の雷模様はさっきよりも激しく光って浮き上がっている。胸鰭と長いひげでバランスを取りながら、のっぺりとした顔をとこちらに向けて狙いを定めている。
リリオが棹を掴む手に力が入った。やっと目を覚ましたようだ。歯を食いしばりながら玉のような汗を額に浮かべてガクガクと震えている。
最初の雷の爆音でまだ耳がよく聞こえないのかもしれない。
「リリオ、こっちにおいで」
意識は戻ったものの身体が固まったままのリリオに届くよう、優しく静かに且つしっかりとした声で呼びかける。
きっと今リリオの中ではこの戦いに立ち向かおうとする闘志と、強烈な雷を繰り出す未経験の魔獣に立ち向かわなくてはならない恐怖とが激しく葛藤しているんだろう。
私はリリオの視界を遮るようにマントを翻らせると、左手で抱きかかえるように中に引き寄せる。私の手には《三日月兎の後ろ足》が握られている。
多分アイテムの一部がリリオの身体に触れていれば装備したのと同じ効果が得られるだろうと踏んで、《三日月兎の後ろ足》をリリオの胸元に押し当てる。
リリオはまだ固まったまま、今にも泣きそうな顔で、でも涙を見せまいと眉間にシワを寄せ、必死に歯を食いしばってガタガタと震えている。
この小さな美しい物語を紡ぎ出す生き物の必死の葛藤に私は甚く感動し、不覚にもその姿がとても愛おしく思えた。それは一秒にも満たない僅かな時間だった。
緊張で冷え切ったリリオの身体に私の体温がゆっくりと伝わる。その震えから不安と恐怖の感情が静かに引いていき、奮い立つような震えに変わりつつあるのがわかった。
そうしている間にも大ナマズはバリバリと火花を散らし、水面近くではジュブジュブと水が沸騰していた。
体の模様は一層はっきりと光り、ヒゲをうねらせながら何時次の一撃を放とうかと濁った黒曜石のような目で私達を見下ろしていた。
次の一撃は多分私の幸運もあるので確実にかわせるだろう。
しかし、これはリリオの闘いだ。
「もう、大丈夫だね」
次の瞬間、大ナマズの鼻先が強い光を放った。
緑色の文様が浮かび上がった大ナマズの鼻先と私達の間に羽虫がジグザグに並んでいるのが薄っすらと見えた。
強い光の玉は稲妻の尾を引きながらその羽虫の列をなぞってジグザグにこちらに向かってくる。
大ナマズと私達の間など五千万分の一秒もかからずに到達するはずなのに、暗殺者の目はそれを見切ってしまうのだ。
ああ、なるほど、これが雷精か。これを追い払えば雷を避けられるのか。
私は反射的に動こうとする手をグッと押さえて、代わりにリリオを抱きしめる腕に力を入れた。これはリリオの闘いでありリリオの紡ぐ物語なのだ。
リリオも私の腕に力が入ったのを敏感に感じ取り、身を固くしていた。《三日月兎の後ろ足》がわずかに震えた気がした。
そして青白い稲妻は、当然のように私たちの体をズタズタに引き裂くことも、その灼熱で焼くこともなかった。
先頭を走ってきた稲妻は私たちの前で壁か何かにぶつかったかのようにくるりと向きを変え、もと来た道をジグザグに戻っていったのだ。
それに気づいたのか、体格に見合わずつぶらな大ナマズの目が一瞬見開くと、体をよじるように後ろにのけぞってそれを避けようとしていた。
だが時すでに遅し。稲妻はそれを放った主にぶち当たると、バリバリと爆音を響かせながら大ナマズの体表を這うように下り、水面にあたって散っていった。
流石に雷属性の相手が放った雷属性の攻撃を、そのまま打ち返しても大した効果があるわけじゃないが、少なくとも面食らわせることくらいは出来たようだ。
バランスを崩した大ナマズはそのまま後ろ向きに倒れ込んでいき、再び大きな水しぶきを上げて水中に沈んでいったのだ。
「大丈夫かー嬢ちゃんたちぃ!」
驚いた船頭さんの叫び声が聞こえる。そうか、確かに傍から見たら私たちが雷の直撃を受けたようにも見えるかもしれない。
リリオは船頭さんの声に反応しているし、腕に伝わるリリオの体温と呼吸は落ち着いている。
もう少しこうしていたかったけれど、リリオはリリオのやる事がある。私はリリオを驚かせないようになるべく静かにリリオの耳元でささやく。
「目は、覚めた?」
リリオがビクッとしてまた緊張で冷たくなってしまった。やれやれ。
リリオは小刻みに震えながらゆっくりと振り返り、私を見上げて精一杯の元気を声に出した。
「だ、いじょうぶですっ!」
そんな、叱られた子供のような目で見ないでおくれ。私はリリオの成長物語を見たい一人の観客に過ぎないのだから。
私は《三日月兎の後ろ足》をリリオの腰ベルトに括り付けると、静かに言った。
「私も少し甘く見ていた。君の腕試しだし、手は出さないけれど、対策は必要だ」
ステータスを確認するとスタン状態は完全に解消している。《SP》も体力も十分にある。《三日月兎の後ろ足》を装備したことで運値が上がり、《フランクリン・ロッド》で雷属性の攻撃は六割跳ね返せるだろう。大丈夫だ、問題ない。
「六割くらいは大丈夫。残りの四割は神頼み」
「うぇ?」
「お守りのこと」
リリオは《三日月兎の後ろ足》を不思議そうにいじっている。
「過保護もよくないから、死なない程度のことはもう助けない」
リリオはすぐにぽかんと空いていた口を真一文字にキュッと閉じ、瞳をキラキラさせながら私を見上げて小さく頷いた。
もう、その視線の熱さにこっちまで顔が赤くなりそうだったが、幸いリリオはすぐに棹をしっかと握り直して船の周りを回っている大ナマズの影を睨んでいる。
生体感知で魚影を追うと、大ナマズは船の外側五メートルほどの場所を通りながら時折八の字を描いて向きを変えながら回っている。
時折大きく体をひねるとその度に大きな泡が立ち上ってくる。大きく筋肉を動かすことで電圧を高めているのだろう。段々とその回数が増えている。
リリオはボコボコと泡立ち、時折パチパチと火花も飛び始めた水面を睨んだまま動かない。
強い敵に立ち向かうときのドキドキする感じ。手のひらがしっとりと汗ばむ感じ。血の気が引いて顔をこわばらせながら目を細める感じ。
私もまだ学生で、ゲームの中でもレベルが低かった頃の記憶が蘇る。
ミッションの半ばで準備もままならない状態で中ボスにエンカウントしてしまって、しかもパーティーメンバーが瀕死で引くに引けない状況で、頼りにできるのが自分の持つダガーナイフのみ。
回避能力も完璧ではなく、クリティカルヒットも滅多に出ない。パーティーメンバーに回復薬を投げる隙もないほど熾烈な攻撃。私もマウスを持つ手がしっとりと湿って震えていたのを思い出す。
私だって最初から強かったわけではないのだ。
そろそろ準備が整ってきたのか、大ナマズはもう向きを変えることなく時計回りに力強く泳ぎ始めた。
グルグルと船の周りを回る大ナマズが渦潮状の強い水流を巻き起こしていて、温泉のように湯気を立てて沸騰し始めている。
船頭さんの持つ棹だけではこの小さな船は最早渦の中から動くことも出来ない。
船頭さんも流石に焦りを隠せず、棹を使って水流で不安定になる船を必死でなだめている。
こういう焦りは伝染する。
リリオに目をやれば棹を握る手に益々力が入っている。
これでは仮にリリオの得意な接近戦に持ち込んでも、剣に持ち替えるタイミングを逃してしまう。
運悪く直撃を食らってしまったらなおさらだ。
私は小さく呼吸を整えて船の縁に腰掛けると、目を細めてキラキラと光る水面を眺めながら、リリオが落ち着いて次の手を編み出すのを待つことにした。
あんまりもたもたしていると大ナマズが次の雷を落としに来るだろうから、リリオの持ち時間と言っても数十秒くらいだろう。
それでも、こういうときこそ心を落ち着かせるのが大切なのだ。
不安と覚悟の入り混じった色のパッチリした目が、私に向けて何かを求めている。私はゆっくりと目線を合わせると声に出さずに大丈夫だよと答えた。
リリオは吹っ切れたようにギッチリと棹を握っていた手を緩め、その瞳に闘志を燃やしながら棹の根本をトントンと船底に打ち付けてから握り直した。
どうやら次の手を定めたようだ。
大ナマズは何度も大きく身をくねらせ、船の動きを阻む波はますます激しくなる。
電気分解で得た大量の酸素を蓄え、身体も温まったところだろうから、次の一撃はさっきよりも激しいものになるだろう。
リリオはブーツの踵を打ち鳴らして、更に気合を入れている。よく見るとブーツの周りには透明な蝶のような羽虫が集まってきている。さっき見た雷の精ではなさそうだ。何の精だろうか。
激しい水流に巻き込まれて、船もゆっくりと渦に合わせて回り始める。船頭さんは棹を水平に持ち替えて、アウトリガーのように水面を掻いてバランスを取っている。
やがて渦流のうねりは一層激しくなり、大ナマズが水面に近づいてきたのが見えた。
泡立った水面が大きく持ち上がると、大ナマズは壁のごとく船の前に立ちはだかり、渦流に乗ってくるくると回る船に合わせて移動している。
真っ黒な身体に緑色の文様が浮かび上がった化物は、小さな瞳一杯に怒りと憎悪を湛えていた。ああ、こいつもそうか。
全身が細かく震えてバチバチと火花を散らし、水面近くではジュブジュブと熱い鉄が水に触れたかのような音を立てている。
大ナマズは大きく後ろにのけぞると、尻尾の方から順に緑色の文様が消えていき、その鼻先にはどこからともなく透明なトンボのような羽虫が集まってきている。雷精だ。
満を持して、リリオは長い棹の根本の方を掴んで大ナマズに投げつける。びょうと飛んでいった棹は大ナマズの鼻先にざっくりと……刺さらなかった。
刺さらなかったのだ。
自慢の馬鹿力で投げた棹は、その強すぎる回転力で大きくたわんでバタバタと飛んでいったものの、大ナマズに届く前に前進する勢いを失っていた。
大ナマズの手前で失速したものの強い回転力を保ったままの棹は、水面に触れた瞬間に水しぶきをキラキラと光らせながら高く跳ね上がった。平らな石に回転をつけて水面にスレスレに投げると水面を跳ねて行くのと同じ原理だろう。そんな手があったのか。
大ナマズの鼻先が鋭い光を放ったのは、その直後だった。
大ナマズ鼻先を出た稲妻は雷精に導かれるようにジグザグにこちらに向かってくるのだが、私が驚いたのはさっきの倍はあろうという大ナマズの激しい稲妻そのものよりも、途中でその稲妻が突然リリオの投げた棹に吸い寄せられるように方向転換してしまった事だ。
どうやら水面を叩いて跳ねた棹の先に雷精が集まってきていて、これが稲妻を引き寄せたようだ。
バリバリと火花を散らしながら、稲妻が棹の先から根本までを食い尽くすと、赤い火の粉と炭化した棹の破片が辺りに飛び散る。
そしてそのまま水面に到達すると、蜘蛛の子を散らすように小さな稲妻に分かれて消えてしまった。
目の前で置きた一瞬の出来事を確かに起きたことを裏付けるかのように、わずかに遅れて弾けるような雷鳴の爆音が鳴り響いた。
目線をリリオに向けると、すでに船縁から高く飛び上がっていた。そしてリリオの蛇革のブーツには沢山の透明な蝶が群がってキラキラと光を放っている。
リリオが一歩踏み出すとその先に透明な蝶の足場が現れるのだ。あれは風の精だったのか。
リリオはまるで階段を三段飛ばしに駆け上がるかのように空中を登っていき、あっという間に大ナマズの頭よりはるかに高い位置にたどり着いていた。
腰に下げた白革の柄から大具足裾払の剣を抜き、口元に僅かな笑みを浮かべると切っ先を真下に向け、大ナマズに飛び降りたのだ。
透明な風精がキラキラと散ってまるで流れ星のようだった。そしてリリオの剣は大ナマズの脳天を貫いた。
大ナマズの頭と喉元から血飛沫が吹き出しているのが見える。大ナマズの頭部を貫通したのだ。
全身を大きくくねらせながらバリバリと雷を発している。身体の文様がランダムに光って、まるで夜のテーマパークのパレードのようだ。
大ナマズの身体のあらゆるところからリリオ目掛けて小さな稲妻が走る。《三日月兎の後ろ足》と《フランクリン・ロッド》は確実で、バフのかかった運値のおかげで六割は稲妻がリリオに到達する前に脇にそれている。
それでも四割の稲妻はリリオの身体のあらゆるところに叩きつけ、その度にリリオの歯ぎしりや小さな悲鳴が聞こえ、服や皮膚や髪の焦げる煙が立ち昇る。
リリオは振り落とされないように剣に文字通りしがみついていた。いや、雷に打たれて感電して動けないだけかもしれない。
稲妻がリリオの脳天を直撃して泡を吹きながら白目を剥き、高圧電流で身体がありえないような形に弓なりにのけぞっていても、決して剣を離そうとしなかった。
それどころか、一秒とたたずに正気を取り戻して、全力で且つ着実に剣を大ナマズの脳みそにねじ込んでいっている。
その度に血飛沫が上がり、大ナマズは更に暴れてより激しい稲妻がリリオを襲う。
幸いにも、大ナマズは水中に逃げ込もうしないようだった。
水の中では雷の威力が落ちるとはいえ、リリオも長くは息が持たないだろう。何よりこの濁った水では様子を見る事ができなくなる。
大ナマズの方も経験的に空気中の方が雷の威力が強い事を知っているのかもしれないし、大ナマズ自身も自分の放った雷で感電して、思うように身体がコントロールできないからかもしれない。
時間にして一、二分というところだろうか。二十発以上稲妻を放った大ナマズの肌はあちこち自らの雷で焼け焦げ、さんまの炭焼きのような魚の脂の焦げる匂いがしている。激しく緑色に光っていた文様も徐々に弱ってきた。
リリオは歯を食いしばり、口の周りを泡だらけにして、お腹を直撃した稲妻でこみ上げてくる胃液を吐き捨て、きっちりと編み込んであった銀色に近かかった白髪も乱れてチリチリに焦げていて、おおよそ花も恥らう年頃の少女の形相ではなかった。
ステータスを見ると、もともとレベルの割には異常に高かったリリオの《HP《ヒットポイント》》、つまり体力は、まだ六割近く残っている。それでも稲妻を一撃食らうと五パーセント弱は減っているので、まだ長引くようならばもしかしたら手助けが必要になるかもしれない。
特に連続で稲妻を食らってしまうと、さっきから何度か発動仕掛けているステータス異常《気絶》が完全に発動してしまうかもしれない。それで水中に落ちたりすると余計に手間がかかる。
私が立ち上がると同時くらいに、大ナマズは最後の力を振り絞って鼻先から大きく弧を描く青白い稲妻を放った。
それはリリオの後頭部に直撃し、心臓を突き抜けて突き刺さった剣に飛び移り、最終的に大ナマズ自身を感電させてしまった。
大ナマズの瞳から光が消え、肌の文様が消え、崩れるように力が抜けていく。
リリオがうつむいたまま口元に僅かな笑みを浮かべてそのまま《気絶》状態に陥った。
「あ、落ちる」
次の瞬間に私は移動《技能》である《縮地》で大ナマズの頭上に移動していた。
水中に沈んでからだと回収が面倒とか、水中呼吸装備無しでこの傷の状態で水中に沈むとダメージが増えて回収するまでのタイムリミットも短くなるとか、ワニやピラニアみたいな魚が集まってきたら面倒だからとか、後付の理由なんていくらでも考えられたけど、このときの私の取った行動は熊木菟の一撃から私を救ってくれたあの時のリリオのものと同じだ。
きっと人生を楽しめる種類の人間っていうのはこういう小っ恥ずかしくて、でも純粋で美しい感情を素直に受け止められるんだろう。
『私にはそれは無理だ。私はあくまで観客なのだ』そう言い聞かせて、自分が美しい物語を紡ぎ出してしまうのを後付の理屈で掻き消すのは私の悪い癖だった。でも今、私の身体はこの物語を美しく終わらせようと淡々と動いていた。
リリオを剣ごと大ナマズから引き抜いて船に投げつけ、スローモーションで崩れ落ちていく大ナマズのヒゲに捕まって加速した上に、《重力制御》を使ってアサシンブーツをビルを破壊する鉄球並に重たくして、大ナマズの喉元にずっしりとキックをめり込ませて空高く蹴り上げたあと、再び《縮地》を使って船に戻る。
「おおおおお落ちてくっぞぉ!」
気絶したリリオの下敷きになっていた船頭さんは目をまんまるにして空を指差す。ありがとう。想定通りの反応で嬉しいよ。
インベントリのショートカットキーを操作する要領で空中で手をひらひらと動かすと、腰の辺りの空間に一文字の切り裂きができて漆黒の闇が覗いている。
大ナマズはその空間の切れ目にヌルヌルと吸い込まれていくのだ。
どう考えても入口より大きい物体なのだが、一度ここに収納すると決めるとインベントリはそれが収まるように周りの空間ごと歪めてしまうようだ。ブラックホールか何かなんだろうか。一度収納してしまえば全く重さも感じさせない。実に適当な設定だ。
船頭はこの世のものとは思えない光景を立て続けに目の当たりにして腰を抜かしたまま、それこそ陸に打ち上げられたナマズのように口をパクパクしている。
ここで騒がれても仕方ないので、黒焦げ血まみれのリリオを船の後ろのほうに蹴飛ばしてどけると、船頭の腕をつかんで立ち上がらせ、できる限り落ち着いた声で精いっぱい口角を上げて船頭に声をかける。
「あなたは何も見なかった」
「ひぇ、いンや、でもよ」
「あなたは、何も、見なかった」
「……へ、へぇ」
私は自分のカッコつけたセリフにまた赤面しそうだったので、ひらひらと手を振るとサッと後ろを向く。
一度インベントリに放り込んでしまえば、姿はおろか重さすら感じさせないので、いまひとつ実感がないが、あの大きさのデンキナマズなら十分乙種とやらにカウントしてもらえるはずだ。さすがにメザーガという男もそこまで卑怯ではないだろう。
つまりリリオの冒険屋事務所の入所試験は合格ということだ。ゲームならばミッション・コンプリートとメッセージが出るところだろう。
この大ナマズと私が一人で対峙するとしたらどうしただろうか。耐電装備があるので直撃を受けてもダメージはないだろうけど、いかんせん武器になるようなものが一撃必殺の超近距離武器《死出の一針》しかない。
《縮地》を使って間合いを詰めるにしても、水中に逃げ込まれると厄介だ。水面に出てきて攻撃してくるタイミングでしかこちらも攻撃できないとなると、かなりの長期戦になるところだった。
一方振り返ってみれば、これだけの大物を相手に、最初の一撃で敵の攻撃パターンを読んで、次の一撃で反撃に転じ、その一撃で相手の動きも封じているリリオは大したものだ。さすがに冒険屋を目指しているだけに、近距離戦の組み立てはしっかりしているし、勘もいい。
反撃の一打から先は根性でねじ伏せている感が否めないが、私に助けを求めず自力で何とかしてみせるという精神力もなかなかのものだ。
よし、頑張ったリリオにご褒美を用意してやろう。
確かこの大ナマズ、《踊る宝石亭》の主人が言うには報酬は出来高制で、生きて捕まえられたら特別報酬だった。
《生体感知》で辺りを探ってみると、さすがにリリオが仕留めた主程の大きさではないにしても、さっきの騒ぎで動き始めた大き目のデンキナマズがそこそこいる。
竿でつついておびき出してから《死出の一針》か、気持ち悪いけど素手でひっ掴んで首根っこへし折って、インベントリに放り込むだけの簡単なお仕事だ。
生け捕りならさらにお金になるということだから、気絶させてインベントリに入れれば良い。ゲーム内金貨は結構持ってるけどどこで換金できるかわからないし、ナマズが売れて現地のお金が入手できるなら簡単なクエストだ。。
そうと決まれば簡単だ。早速インベントリから《アルティメット・テイザー》というスタンガンを取り出した。スタンガンだから雷属性に思えるけれど、どういう訳かこいつは無条件の気絶属性しかないのだ。たぶん普通のスタンガンとは違う仕組みで動作しているんだろう。
あとは《生体感知》を使って、魚影の濃い場所を探してそこに移動してもえば、あとは流れ作業だ。
実際やってみると最初の数匹を釣り上げて気絶させてからインベントリに放り込んだところまで完全に単純作業だったので《隠蓑》で姿を消すと同時に、《影分身》を使って残りのデンキナマズ釣りをやらせておくことにして、私はリリオの様子を見ることにした。
船尾の方の漁に使う網や浮きが雑多と積まれていた中にリリオらしき物体が埋もれている。血の生臭い匂いと肉の焦げたような匂いが漂っていた。
私は周りから見えないようにリリオの身体をマントの中に引き寄せた。
真っ白できっちりと結い上げてあった髪も解けて焦げてチリチリになっている。顔にかかる髪をそっとどけてやると、顔の半分は火傷で赤黒く爛れて白目を剥いて泡を吹いていた。
鎧を止めている革紐はあちこちで焦げてほつれていて、白革の鎧もナマズの血を浴びて赤黒く斑になって、ところどころ熱で歪んでいる。肩紐を外してチェストプレートを外すと、中に着込んでいるギャンベゾンというキルティングジャケットも、雷の直撃を受けたところから燃え広がって穴だらけになっている。革のバックルを外して肩をはだけてやると、電撃痕とよばれるリヒテンベルク図形が残されていた。電撃が通り抜けた事によって出来た稲妻状の火傷だ。腕や脇腹はえぐれたり皮膚が焼けただれて割れたりしている。
これだけひどい状態でもステータスを見るとまだ体力は三割以上残っている。これでまだそれだけ体力が残っているのなら、急いで回復薬を与える必要もない。
私を助けて熊木菟の一撃を食らった時なんて、これに比べたら何てことないじゃないか。あの時は私も気が動転していて、なんとか回復薬を飲ませないと思って、あの苦い薬を口に含んで口移しで……リリオの唇は柔らかったな……近くで見るとビスクドールみたいに透き通った肌で、まつ毛はライトブラウンで長くてカールしてて……。
待って……待って。そんな事を私はしたんだよ。確かにしたんだよ。恥ずかしい。
ステータス見れば良かったんだよ。そんなことにも気が回らなかったけど。
気を取り直して、全身の傷の状態を検める作業に戻ろう。リリオは相変わらず気絶したままだ。吐瀉物で喉を塞がないように横向きに寝せて回復体位をとらせると、残った鎧のベルトを外していく。
雷で焼け焦げ、火傷からにじみ出たリリオの血と、大ナマズの返り血とでグシャグシャのボロ布となったギャンベゾンを引っ剥がすと、最後の一撃が首の後ろから胸元に枝分かれしながら右胸の下辺りから抜けていった電撃痕が残されていた。
他にも腕から脇腹に抜けた痕もある。こっちは距離が短いものの強烈な一撃だったようで肉が抉れていて、高熱で黒く変色している。
腰の帯を外していくと、《三日月兎の後ろ足》と《フランクリン・ロッド》を挟んで居なかった左側の方が、臀部から太腿にかけて大きく焼け焦げていた。
死んだようにぐったりと動かないリリオだが、その僅かな膨らみを帯びた胸が静かに上下する事で、ステータス表示が正しいことを納得させてくれる。
ステータスは気絶状態のまま、幸い抉れた電撃痕は焦げて止血されているため、ひどい出血もなく、体力も減っていない。この様子なら目覚めてから回復薬を飲ませれば十分だろう。
そう思うと急に何かがこみ上げてきた。
こんなにボロボロになるまでリリオは戦った。私にかっこいいところを見せようとして。
「馬鹿……だよ……リリオは」
勝手に流れ出した涙は感動のせいなのか、緊張がほぐれたせいなのか、私にはよくわからなかった。
そもそも私には涙を流すということ自体が珍しい現象で、私にもよくわからない現象だった。
母は生まれてすぐに亡くなっていたし、社会人になってすぐ父が癌で亡くなったときも涙はは出なかった。
私には感情というものが欠落していたのかもしれない。
妬みや憎しみという悪意に満ちた社会を生きてきたので、身を護るために心を閉ざしたのかもしれない。
それでも私は美しい物語を欲して、リリオが紡ぎ出す舞台見惚れていたんだ。
私の勝手な欲望のためにリリオはこんなにも傷ついて、歯を食いしばって応えてくれたんだ。
まだ血の気がなく冷たいリリオの頬にそっと唇を寄せた。
そして《蒸留水》と《布の服+28》で全身を拭ってやる。
傷口のあるところには特にふんだんに《蒸留水》を使って洗い流す。こんな澱んだ川だけにどんなバクテリアがいるかわかったものではない。
ボロ雑巾とも区別のつかないギャンベゾンを畳んでおき、リリオの荷物から着替えの肌着セットを取り出して着せ、《コンバット・ジャージ》を着せてやる。
最後に新しい《布の服+28》で顔を綺麗にしてやると、少しだけ血色が良くなってきた気がする。
(今回は口移しはなしだよ。でも、リリオ、感謝してる)
唇を重ねると僅かな温もりを感じた。そろそろお姫様は目覚める時間だ。
前の方で船頭さんが「悪魔の所業」「霹靂猫魚があわれ」「もはや作業」とか言っている。
《隠蓑》のまま船頭さんの肩越しに覗いてみると、《影分身》が三十八匹目を釣り上げたところだった。
もういいだろう。ぱちりと指を鳴らして船頭さんの注意をそらすと、《隠蓑》を解いて《影分身》を解除する。
ちらりと向こうのリリオの方をみてステータスを確認すると、状態が気絶から睡眠になっている。もう起こしても良い頃だろう。
私は釣り道具と《アルティメット・テイザー》を片付けると、代わりに《ウェストミンスターの目覚し時計》をしっかと握りしめて、殴る素振りで角が当たる角度を探りながら、リリオの方に向かっていった。
用語解説
・ワンポイント・エスペラント語
「煮ぃー!焼ぃー|!揚げ霹靂猫魚~!」
Boletita = 煮た、Stewed
Rostita = 焼いた、Roasted
Fritita = 揚げた、Fried
語幹+itaで「~された」という受動完了分詞になりますね。
リリオ的には「来た(Venis)!見た(Vidis)!勝った(Venkis)!」みたいなことを言ってみたかったんだと思います。
・霹靂猫魚
『大きめの流れの緩やかな川に棲む魔獣。成魚は大体六十センチメートル前後。大きなものでは二メートルを超えることもざら。水上に上がってくることはめったにないが、艪や棹でうっかりつついて襲われる被害が少なくない。雷の魔力に高い親和性を持ち、水中で戦うことは死を意味する。身は淡白ながら脂がのり、特に揚げ物は名物である。』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第五話 亡霊と野盗 用語解説より)
・《フランクリン・ロッド》
『金属製の杖の形をした装備品。ゲームアイテム。装備していると雷属性のダメージを三割ほど減衰し、また二割程度の確率で敵に反射して返す効果がある。』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第十八話 亡霊と霹靂猫魚 用語解説より)
・《雷の日と金曜日は》
『ゲームアイテム。レコード・ディスク型のアクセサリ。装備していると雷属性の攻撃を受けた時に五パーセントの確率でダメージ分体力を回復してくれる。気休め程度ではあるが店売りの商品なので序盤は買う人も多い』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第十八話 亡霊と霹靂猫魚 用語解説より)
・以前リリオが私に試そうとしたように酒瓶で殴れば
「いまでこそ、こいつ背後から酒瓶で殴りつけても平気で避けるってことあたしたちは知ってるけど」
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第六章 秋の日のヸオロン 第九話 鉄砲百合と今更だけど 本文及び用語解説より)
・《生体感知》
『《暗殺者》の《技能》。隠れた生物や、障害物で見えない向こう側の生物の存在を探り当てることができる。無生物系の敵には通用しないのが難点』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第十八話 亡霊と霹靂猫魚 用語解説より)
・《三日月兎の後ろ足》
『幸運値を飛躍的に高めるレア装備。この装備を入手するためにまずこの装備が必要だというジョークが生まれるほどの低確率でしかドロップしない』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第十九話 白百合と乙種魔獣 用語解説より)
・《飛竜革の靴》
『風精を操って空を飛ぶ飛竜の革は、うまくなめせば風の精との親和性が非常に高くなる。これで作られた靴は、空を踏んで歩くことさえできるという』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第十九話 白百合と乙種魔獣 用語解説より)
・《大具足裾払》
『辺境の森林地帯などに棲む巨大な甲殻生物。裾払の仲間としてはかなり鈍重そうな外見ではあるが、その甲殻は極めて強靭な割に恐ろしく軽く、裾払特有の機敏な身のこなしに強固な外角が相まって、下手な竜程度なら捕食する程に強大な生き物である』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第十九話 白百合と乙種魔獣 用語解説より)
・《死出の一針》
『クリティカルヒット時に低確率で発動という超低確率でしか発動しないけれど、即死耐性持ちでも問答無用で殺す《貫通即死》という特性を付与された武器。しかしあまりにも武器攻撃力が低く、その取得難易度もあって産廃でしかない』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 序章 ゴースト・アンド・リリィ 第十二話 森の悪意 用語解説より)
・《縮地》
『《暗殺者》の《技能》の一つ。短距離ワープの類で、一定距離内であれば瞬間的に移動することができる。ただし、中間地点に障害物がある場合は不可能』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第二十話 亡霊と後始末 用語解説より)
・《重力制御》
盗賊の系統が身につけるスキルで、対象物の重さを変えることで、量り売りの物をごまかしたり、重さの変化で起動するトラップを外したりすることができる。
建物を破壊する鉄球の重さまで対象物の重さを増やしたりするには、相当な《SP》を消費する。
・《アルティメット・テイザー》
『攻撃力は低いが、高確率で相手を気絶状態にできる特殊な装備。思いっきり世界観に反したような、露骨にスタンガンにしか見えないヴィジュアルだが、設定上一応魔法の道具らしい。露骨にスタンガンにしか見えないが、雷属性ではないという謎のアイテム』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第二十話 亡霊と後始末 用語解説より)
・《隠蓑》
『《隠身》の上位スキル。《暗殺者》が《隠身》を一定レベルまで上げると取得可能。姿を隠したまま移動できる』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 序章 ゴースト・アンド・リリィ 第二話 亡霊と隠蓑 用語解説より)
・《《影分身》》
『単体敵に対して、複数の分身体を生み出し、高速の連続攻撃を見舞う物理属性の《技能》』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第六章 秋の日のヸオロン 第七話 亡霊と釣り道楽 用語解説より)
・《蒸留水》
『製薬や、一部アイテムと組み合わせて使用したりする清潔な水。これ自体には回復効果などは全くない』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第三話 亡霊と洗い物 用語解説より)
・《布の服+28》
『装備品は鍛冶屋や特殊なアイテムで強化することで攻撃力や防御力を上げることができる。とはいえ元の性能が低ければいくら強化しても大したことはない。この《布の服+28》はまさしくそんな大したことがない存在の筆頭だろう。初期装備である《布の服》をなぜこんなレベルにまで強化したのかは不明である』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第三話 亡霊と洗い物 用語解説より)
・《コンバット・ジャージ》
『《布の服》よりは良い品であるが、所詮は数売りの安い装備。ただしどこの店でも手に入り、加工がしやすく、装備の耐久を削る敵や環境のある地域では捨てることを前提に装備するプレイヤーも多い』
(異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ 第一章 冒険屋 第四話 白百合と魔法の布団 用語解説より)