靴
桜はすっかり葉を濃くしていた。
待ち合わせの場所まで歩いて十五分だが、
五月下旬並の陽気と待たせては悪いという理由で、
伊沙子は車を出した。
昨夜電話をよこした父親とは、幼い頃に生き別れた。
会いたいという思いはあったが、女手一つで育ててくれた母親に対し、
多少の遠慮と、会う切欠もないまま時が過ぎた。
10年前、縁談が決まったのを口実に、
伊佐子は、父親に会いたいと思い切って母に告げた。
「会いたければ、会えばいいじゃない」
母は意外にあっさり答えた。
けれど、後にあの時どれだけ悔しくて、
情けなかったかと、事あるごとに口にした。
その母とも伊佐子が離婚してからは、
疎遠になっている。
父親とはその時に会って以来、
年に一、二度、電話だけのやり取りが続いていた。
実際に会うのは今日で二度目になる。
父は母と別れた後、間もなく再婚した。
相手には連れ子がいた。
伊佐子より五つほど下だと聞いているから、
32、3歳くらいだろうか。
その連れ子、つまり義理の娘が、
現在保険会社に勤めていて、
保険に入ってやりたいと思うが、
自分達の年齢では掛け金が高い。
どうしたものかと考えていたところ、
「義姉さんは?」と、娘が口にした。
なるほど、伊佐子の歳なら払えない金額ではない。
今まで何もしてやれなかった償いとして、
保険料はこちらが払う。書類だけ書けば、
満期金は全て受け取ってくれ。
という、なんとも父親らしい現実味のない、
身勝手な話だった。
何かして欲しいなど、思ったことはない。
と、一度は断わったが、なかなか引き下がらず、
終いには再婚相手が電話に出て、
娘のために是非そうしてやって欲しいと懇願する。
断わりきれなかったというよりは、
頑なに断って、向かうの家族に悪く思われたくなかった。
そして、何よりも自分にとってはどうでもいいそんな話を
早く終わらせたかった。
「分かりました。では、お言葉に甘えます」
伊佐子は、会う場所と時間を告げ、電話を切った。
信号に差し掛かる手前で車が動かなくなった。
新しく出来たスーパーの駐車場に停めきれない車が、
路上に駐車するせいだ。
主に業務用だが、一般客も買える。
日曜になると路肩に停める車の普段より列が長くなる。
伊沙子も開店当初、一度だけ行ったことはあるが、
やたらと量が多い。いくら安くても一袋に胡瓜十本は、
一人暮らしには多すぎた。
それっきり、二度とその店へは行っていない。
買い物袋を幾つも下げた家族連れが、
渋滞する車の前を横切って行く。
そのうちの二つには林檎がぎっしりと詰まっていた。
自分なら、あれだけ食べればもう二度と食べたくなくなる…と、
伊沙子は有り難味の薄れる量の林檎を見送りながら、
車をじりじりと動かした。
空は雲一つなく、初夏の日差しが存分に
フロントガラスを照りつけた。
伊佐子は車内の温度に耐え切れなくなり、
エアコンのスイッチを押した。
嫌な匂いと、さっきの袋一杯の林檎が
思い出されて吐き気がした。
「今更、何が保険だ」 そう呟くと、
父親と会うのが急に億劫になった。
何もしてやれなかった償いというよりは、
義理の娘が可愛いのだろう、という思いが沸いてくる。
父親の家族に悪く思われたくないから
保険に入ることを承諾したが、
本当は、どこかで拗ねたり僻んだりしているから、
そう思うのではないか。あるいは、父親に会えることを
心の底でいつも期待しているからではないか。
もしそうだとしたら、伊佐子にとって、
どちらも好ましくなかった。
苛立っているのは、渋滞と陽気のせいではない気がした。
信号が変わり国道に出た。
や っと渋滞を抜けた。
しばらく走ると、待ち合わせのレストランが先に見えた。
約束の時間は過ぎていた。
父と自分にとっては、赤の他人の女が、
既に待っているだろう。
はぁ…
伊佐子は、ため息で覚悟を決めると、
走る車のハンドルを左に切った。
駐車場に入ると、年老いた男が立っていた。
それが紛れもなく、以前よりも一回り小さくなった
父あることを、伊佐子は瞬時に確認した。
時の流れを感じながら、会わなければ良かったという思いと、
会えた喜びとが入り混じって、少し離れた位置に車を停めた。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
伊佐子はゆっくりと父親の方に歩きながら言った。
「・・・伊沙子?」
男は目を凝らし彼女を見た。
そして、八年前と同じく、申し訳なさそうに瞼を瞬かせた。
「昨日話した、保険会社に勤めている子でね・・・わざわざすまないな」
そう言いながら、父親は、傍に立つ義理の娘の肩に手を置いた。
「こんにちは、はじめまして」
伊沙子はなるべく湿っぽくならないよう、
かと言って、明るすぎないよう挨拶をした。
「眞澄です。今日は本当にすみません」
彼女は、そう名乗ると頭を下げた。それから、
「お父さん、ここではなんだから・・」
とレストランを指した。
「そうだね。伊沙子、中でゆっくり話そう」
そう言うと、父親は義理の娘と先に歩き出した。
血の繋がらないはずの親子の歩調が、
自然に合っていた。
今日は、絶対に父さんと呼ばないようにしよう、
それが初めて会う眞澄への礼儀だと、
伊佐子は、ほんの少しだけ、自分でも気づかないほど
わずかに、歩く速度を落とした。
日曜日の午後にもかかわらず、
待たずにテーブルに案内された。
伊佐子は素直に有り難いと思いながら、
二人の向かい側に座った。
「お姉さん、何か食べてください。私達は済ませて来ましたから」
眞澄は店員が置いたメニューを差し出して、
アイスコーヒーを注文した。
「そうだよ、伊佐子。食事まだだろ?何か食べるといい」
父親は驚いたように頷いて、
「アイスコーヒー、もう一つ」と、店員に人差し指を向けた。
「ありがとう。けど、朝食が遅かったから」
そう言って、伊佐子は二人と同じものを注文した。
休日の昼時だというのに、店内には家族連れらしい3組だけだった。
他人から見れば自分達も家族に見えるだろうか。
血の繋がりもない、初対面の人間をさっきから
お姉さんと呼ぶ眞澄の顔を伊沙子は盗み見た。
当たり前のことながら、父親とも自分とも似ていない。
なぜか、その事に伊佐子は安堵した。
「で、まだ一人か?再婚する気はないのか?」
煙草に火を点けると父親は言った。
伊沙子は灰皿に手を伸ばそうとして引っ込めた。
眞澄の方が先に灰皿の位置をずらせたからだ。
「だって・・離婚してそれほど経っていないのに、」
再婚なんてと、思わず言いかけて、
慌てて言葉を飲み込んだ。
「…そうか」
それほど経たずに再婚した父が目を伏せながら
つぶやいた。眞澄が伊沙子にすまなさそうに微笑んだ。
どう返せばいいのか分からなくて、
とにかく、自分もそれらしく笑った。
「今まで伊沙子には、何もしてやれなかった」
父親は灰皿にタバコを置き、両手を膝についた。
「だから、せめてもの罪滅ぼしと言うか、大した額ではないが、
満期になった時は何かの足しにと思ってな」
「電話でも言ったけど、そんなの別にいいの。
何もしてやれないのは、お互い様でしょ?」
伊佐子は心からそう思った。
「いいえ、今回の事は、私も助かるんです。
それに、お姉さんに会える切欠ができて、とても嬉しい」
眞澄は身を乗り出すようにして言った。
途端に、父親が顔をほころばせた。
「あんたも一服しなさいよ」
そう言って、義理の娘に煙草を差し出した。
「はいはい。けどその前に仕事が先」
眞澄はいそいそと鞄から見積書を取り出すと説明を始めた。
まるで、出来の悪い芝居のようだと、
伊沙子は自分の煙草を出すと火を点けた。
そして、誰でも知っている終身保険の説明を黙って聞いた。
言われた通りに書類も書き終えた。
書類に不備がないか丹念に確かめると、
眞澄は父親の煙草を一本抜き取り、
美味そうに煙を吐いた。
その一連の仕草に、強い嫌悪と妬みが伊沙子に湧いた。
「お姉さん、どうかこれからも末永くお付き合いしてくださいね」
何をどう末永くなのだろうと思いながら、
眞澄が吐き出す煙越しに伊沙子は頷いた。
「しかし、客が来ない店だなあ、ま、この味では無理もないか」
アイスコーヒーをかき混ぜながら、父親が店内を見渡した。
「お父さん向けじゃないのよ、こういう店は。
若者にはいいのかもね?」
眞澄がクスクス笑いながら、ねぇ、と伊沙子に同意を求めた。
「それはそうと、吸いすぎなんじゃない?
ここに来てから、もう5本よ?」
「そうだね、あんたの言うとおりだ。少し控えないとね」
「一日、二箱くらい吸うでしょ?」
「うん…そうだな」
「なんてたって、健康が一番。いくら、お金があっても
病気してたらつまんないから…そうだ、お姉さんからも言ってやってくださいよ」
「はいはい。あんたの仰る通り」
そう言いながら、照れた顔でミルクを足そうとした
父親の手元が滑って、残り少ないミルクが零れた。
「もう、耳だけじゃなく、手もダメなんじゃない?
お姉さん、聞いて。実はね、私が会社から電話すると、
一体、何処の年寄りと話ているんですか?
って周りの人がいうくらい、大きな声でないと聞き取れなくて」
眞澄は溢れたミルクを紙ナプキンで拭きながら言った。
「そうなんだよ。最近、耳が遠くなったみたいで。
俺ももう歳だな」
使わなかった自分のミルクを足してやりながら、
また眞澄がクスクスと笑った。父親が声をあげて笑った。二人にしか分からない空気が流れてい
父親がとても大切にされていることに伊佐子は安心した。
そして、さっき自分と眞澄の間に共通するものがないのを見て取ったが、
父親との間にもないことを思い知った。
血の繋がりなど何の意味もない。
事実、この義理の親子がこれほどにも微笑ましい。
家族として時間を重ねてきた分、そこに絆とも呼ぶべきものができるのだろう。
そう思えただけでも今日のことは、悪くなかったし、
何よりも、そうやって冷静に二人を見ている自分に満足していた。
「・・そろそろ行こうか?」
頃合の良いところで父親が言った。
会計を済ませている二人を待つ伊佐子の目が、
動かなくなった。
幼い頃、父親が好んで履いていた靴だった。
一瞬、父親の足元が滲んだ。
「その靴は、毎朝私が磨いた。毎朝、私が磨いた」
父親に寄り添う眞澄に向かって、伊佐子の心が繰り返した。
「お姉さん、今日はわざわざ、ありがとうございました。会えて嬉しかったです」
何も知らない眞澄が、最初から最後まで同じ笑顔で言った。
お姉さん?とんでもない。
あんたみたいに鈍感な女から、
姉さんなんて呼ばれたくはない。
大体、私に会いたいだなんて口実に決まっている。
保険が一つ取れてよかったくらいの話だ。
そんなことは最初からわかっている。
伊沙子は、丁寧に頭を下げながら
「この馬鹿女」と呟いた。
涙はすっかり乾いていた。
「こちらこそ、ありがとう」そう言って、
「今でもその靴なんですね」
と、もう一度視線を落とした。
ん?一瞬、きょとんとして伊佐子を見ると、
「ああ、履き易くてね。昔からずっとこの
靴しか履かないね」と言いながら、
眞澄に手を差し出すと、車な鍵を受け取った。
ずっと昔から・・・
店内の空調で冷えた伊佐子の
手足がさらに冷たくなっていく。
それだけですか?お父さん。
もう忘れたのですか?お父さん。
実の娘より義理の娘って訳ですか?お父さん。
何もしてやれなかったって、
靴を磨かせてくれたじゃないですか?お父さん。
その靴が突然なくなって、
どれだけ途方にくれたか分かりますか?お父さん。
そんなはした金でチャラにしようというのですか?お父さん。
今日、一度もお父さんと呼ばなかったことに
気づいていますか?
お父さん。
伊佐子は、意識が遠退くほど心で叫ぶと、
「保険の事、お言葉に甘えさせていただきます。
どうか、奥様にも申し訳ありませんとお伝えください」
と、父に告げた。
眞澄の顔からはじめて笑みが消えた。
父親は白髪混じりの睫毛を湿らせ、
歯を食い縛り何度も頷いた。
「またな。伊沙子、元気でな・・・」
最後まで下手な芝居だ。と思いながら、
「じゃ、行きます」
そう言ったきり、一度も振り向かず、
車に乗りこんだ。交差点でバックミラーを覗くと、
眞澄と父親の乗った車が後方に見えた。
何を話しているのか、眞澄はしきりと口を動かしている。
信号が青に変わり、右折車線に入った彼女の車を追い越す際に、
父親が振りかえり手を挙げた。
もう二度と会うことはない。
白く小さく紛れる親子の車に、
伊佐子はそう呟いた。