上:エピローグ
漣さんと別れた後、私は自分が住む二階建てのアパートの前へとついていた。
まだ日は高いが、日の強さも会い重なってアパート自体は暗い影で覆われている。ちょうど、玄関側とは真反対に日がのぼっているせいだろう。その影は何者も通さないと主張しているように思え、二階へと続く階段を昇る足は非常に重い。
階段を昇り切って、少しだけ立ち止まる。
先程の漣さんとの会話。あれがどうしようもなく、私を重くする。結局、彼女の思惑は分からない、私を退学させたがっている理由も、何もかも。
大体、私が向き合っている問題とは一体なんなのか。私はどんな問題に対して解答を出したがっているのだ。この大学に来た意味か、先生からの宿題か、ラフィーさんとの人間関係か。
とりとめのない思考が、私にかかる重力に手をかしているようにさえ感じる。それとも。
悩むことが本当に正解へと辿り着く道なのだろうか。
ただ、この疑問の羅列には凛さんが含まれないような気がした。
恐らく、今の時間は、学校を終えて、私の部屋で宿題をやっている頃だ。
我が物顔で私のアパートを占拠する、困った人物ではあるのだが、実は特に問題としてないのが実情だ。対処しても、しきれないので諦めていると言ってもいい。
そして、恥ずかしいことなのだが、家に帰って誰か居てくれるというのは、嬉しいことでもある。前はこのような事は考えられなかった。人が家に居るというだけで、怖かった。なのに、凛さんが笑顔で私を迎え入れてくれることを、私は今は嫌だとは思っていない。
そういう意味で言うなら、私は彼女に救われてしまっているのかもしれない。こんな情けない男が、小学生の女の子に救われるとは、ロリコンを馬鹿にすることなど出来ないなと、心の中で諫めた。
部屋の前へと、辿りつく。
部屋のドアノブがめちゃくちゃに破壊されていた。
「え?」
思わず、声が漏れた。
嫌な予感が全身を駆け巡り、鳥肌が立つ。なんだこれ、いや、なんだこれ。
その扉のあり様は、私の先ほどの考えを正すように、ずたずたになっていた。人が人を救うなんてことがどれだけ傲慢で、困難なことか。人に人なんて救えないと、直接訴えかけてきているようで。
身体が弾けるように動いた。
「凛さん!!」
扉を開け、部屋にいるだろう人物の名を呼んでも返答はなかった。
代わりとばかりに私の目に飛び込んできたのは、すっかり荒れ果てた部屋の光景。
壁紙が引きはがされ、身に覚えのない無数の監視カメラがむき出しとなって壊れており、
窓ガラスは粉々に割れており、
冷蔵庫の中身はぶちまけられ、
棚という棚をひっくり返され、
机の上には、実際に見たことはない、映画でしかお目にかかったことのない、一発の銃弾が転がっていた。
いや、なんだこれは。出来の悪いB級映画じゃないんだ。視界に映り込む全てが虚像のようで仕方がない。
「と、と!」
言葉が痞えて、出てこない。可笑しいだろう、可笑しいだろう、こんな事。この無数にある監視カメラも、銃弾も、なにもかもが可笑しい。知らない、身に覚えがない。
「とりあえず、警察!!」
ようやく吐き出した言葉は、自分がすべきことを再確認する意味も込められていた。
ポケットに手を伸ばし、スマホを手に取ると同時、着信音が響きわたった。
どこか場違いな音を出す、そのスマホに表示されていたのは、非通知の三文字。
取らなければいけない気がした。取れ、という無言の圧力がスマホから伝わってくる。
震える指で、応答の表記にタップをする。
『玄関前まで出てこい』
明らかに、こちらの事情も、居場所も知っている口ぶりだった。
「誰なんですか!? どうしてこんな事を!?」
『誰、なぁ。てめぇからそんな言葉を聞くとは思ってもなかった、が、質問は一切なしだ。さっさと出てこい。これ以上、口を開くなら切る』
不味い、それは不味い。
その事を、視界の隅に映った、無造作に転がった凛さんのランドセルが雄弁に語り掛けてくる。
急いで玄関へといき、そこで自分が土足のまま部屋に入っていたことを今更になって知りながら、扉を開けて、玄関先へと出る。
『こっちだ』
どっちだ、と思う暇はなかった。
アパート前の路上に携帯電話を片耳当てたまま話す男性の姿が見える。
「―――なんで」
背が高く、ちょっと猫背で、くすんだ色をした髪の毛を持つその姿には、見覚えがあった。たかが三年だ。人なんてそう変わるわけがない。
『久しぶりだな、ミヤ』
「なんでそこにいるんですか!? 弓弦さん!!」
弓弦 翔。
私の高校一年を語るには、この人物を語らずにはいられない。私の過去で、私の後悔。
久しぶりの再会は、顔を見合わせながら、電話で会話をするという、不出来な再会だった。
『質問には答えない、が、お前のポストの中に資料が入っている』
「答えて下さい!! 部屋をめちゃくちゃにしたのは貴方ですか!?」
『その資料は手がかりだ。ある場所に行き着くようになっている。俺はそこで待つ』
「どうして!!」
『警察に言うなよ、言ったら不味いことになる。まぁ、お前なら言われなくても察しはついてるだろ』
懐かしいその声に一旦、言葉が詰まった。懐かしい言葉で紡がれる、荒々しい内容は、チープな刑事ものを無理やり見せられている気分だった。
「―――凛さんをどうしましたか?」
一呼吸の間があって、ゆっくりと紡がれたその言葉は、私を貫く。
『誘拐した』
これが序章。ラフィーさんと私のどうしようもない物語の終わりへの序章。
全てが狂ったように、歯車が音を鳴らしていた。