1
さて、どう始めたらいいのだろう。
先生との思い出を引き合いにだしては、これまで我が物顔のように語り部を務めてきた私ではある。そのツケが回ってきたとそう思わざるを得ない。
というのも、これ以上遡った場合、先生との思い出なんてものはないのだ。
よくよく考えてほしいのだが、たかが一年前の出来事であってもよっぽど印象的な出来事があった時しか、人間の脳なんて覚えていない。すくなくとも、私の場合はそうである。細やかな会話の内容などメモでも取っていなければ思い出すことも出来ないし、その場面は一体どういう立ち位置で行ったものかなんてのは写真でもなければ判別できそうもない。そのよっぽど印象的な出来事も時間がたてば風化して、脆く、儚く散っていく。
私にとっての一年、つまりは高校一年の時、担任であった先生の印象なんてちっぽけなもので、記憶の片隅に残っているかも怪しい。あぁ、そういえば一年の時の担任はあの先生だったか、と思い返すくらいの印象しかない。先生とどんな会話をしたかなんてものは、私の記憶からはもう消去されている。
こんな風に言ってしまうと、なんだ、悲しい話かと思われてしまうか、そんなもんだよなと、共感を得られるかは定かではないが、私にとってその忘れるという行為は、どうしようもなく尊いものなのだ。
綺麗で、儚くて、美しい。
忘れることが出来た思い出は、きっと自分の中ではどうとでもいいと思っている記憶。つまりは、自分の中で消化して、完結した記憶。これからの自分には不要だとばかりに、後へと置き去りに、前へと進む。忘れてしまっても、問題がないものだ。それはきっと美しい。だって、未来の自分が、その出来事を些細なことだと思えるほど、今を生きているのだから。悲観も、楽観もそこにはない。いずれ、忘れてしまったことさえ忘れる。
そんな事を考え始めると、何故私はこのような感情を抱くのか、結局はそこに行き当たって、行き詰る。ようは、この記憶が忘れられないから、そのように思うのだ。
記憶、忘れたい記憶、忘れたくない記憶。背反するようなこの記憶は、私の罪で、彼の罪で、やっぱり私の罪なのだ。消化出来ず、それを不要だと思えない自分が今の私だ。そして皮肉なことに、この一切合切の記憶を、私は寸分違わず、書き起こすことも、諳んじることも出来る。先生との会話はもう忘れたと言った、同じ高校一年の出来事にも関わらず。
だから、いずれは向き合う時が来るのではないかと、そう思っていた。予期していたことで、特に驚くことではない。
世界は酷く、こんな人が嫌がることには協力的だから。それを私は、この記憶から痛いほど学んでいるのだから。どうしようもなく、痛切しているのだから。
覚悟を持って、進まなければいけない。
私の目の前にあるのは過去だ。過ぎ去ったはずの過去が、まだだ、まだだとばかりに正面へと立ちふさがる。
敬語を使い始めて、どうしようもない世辞も覚えたこの口が語るのは、烏滸がましいとは分かっている。許されないことだとは分かっている。
でも、語らなければいけない。そうでなければ、私が凛さんを助けることなど、許されない。懺悔なしに人を救ってはいけない。いや、それでもきっと傲慢だ。人が人を救うことなど許されない。
私が初めて人を救ったと慢心した、高校一年の時以降、私は誰かを助けたことなんてない。手助けもしたことはない。徹底的に自分だけを救って、それ以外は救えないものだと行動してきた。
だからこそ、堂島さんが屋上から飛び降りるのも止めなかった。
はっきり言うなら、事前に止められた。堂島さんがケガをしないよう、マットがある位置まで追い込んだのは、そうしなければ自分が助からないから。
白銀さんの件もそうだ。
彼の隣に座らなければ、それで全ては終わっていた話。自分の為に動いて、自分に被害が出ないようにだけした。その証拠に、あの時録音した音声を未だに私は消去できていない。彼の復讐が怖くて手放せない。
生徒会長の件なんて、思い出すだけで笑ってしまう。
あの時、クラスメートのグラスも差し替えたのは、別に助けると思ってやったわけじゃない。二度と生徒会長がこちらに害を出さぬよう、徹底的に叩いただけの話。怒ったのだって、クラスメートの為に起こった訳ではないのが余計に滑稽だ。
ああ、嘘つきゲームはあまりにも酷い。
全部利用して、ゲーム自体も潰して、壊して、残ったのはあまりにも儚いものだった。堂島さん、御剣さんに対して、私はどれ程の業を背負っているのだろう。贖罪は出来るのだろうか。
万城目さんの件は、繕うことさえ出来ない。
気づいた時点でさっさと帰ってしまえばよかったのだ。何かを求めようとしてこと自体が間違いなのか。
結果として、今まであった様々な出来事が、残痕とも言えない残りかすが、こうして私に突き付けてくる。どうしようもない、ろくでもない人物と、私に指を向け、腹を抱えて笑っている。
万城目さんはこんな人物のことを嘘つきだと言った。
なるほど、言い得て妙だ。ぐぅの音もでないほど、正論だ。
私は嘘つきだ、認める。きっと、認めなければいけない。それを認めないということ自体が、どうしようもなく嘘を吐いているということに他ならない。
ただ、ほんの少し、私の言い分、言い訳をさせて欲しい。この世界に嘘を吐いていない人間なんているのか。いや、違う。これでは正確ではない。こんなどこぞの悪役のような台詞を宣いたいわけではないのだ。
そう、きっとこういう言い方が適切だ。
嘘を吐く資格のない人間なんているのだろうか。
嘘を吐くには、対象が必要なんだ。嘘を吐いた対象がそこには存在する。取り繕っても隠せない、誤魔化そうとした対象がいるのだ。なら、少なかれ、人間関係がある人物ならその資格はあると思うのだ。それがどんなに小さな人間関係でさえ、そこには一定の資格が存在する。友だちであれ、先輩であれ、後輩であれ、先生であれ、家族であれ、構いはしない。初対面の人間にでさえ、話さえ通じれば嘘をつける。嘘を吐ける環境にある、そういう話。それは酷く贅沢な話だと私は思うのだ。
私が本気で嘘を吐ける対象なんて、自分以外に居なかった。
友だちはおらず、初対面の人間とは意味のある会話も出来ず、家族にも中途半端な歩みよりしか出来ない私にはそれ以外の選択肢はなかった。
万城目さんが言った言葉は、嘘をついている人物を指してのことではないのだろう。恐らく、あの嘘つきという言葉の真意は、嘘がついてまわっている人物のことを指して言っている。嘘つきくん、嘘憑きくん。酷い言葉遊びだ。そしてどうしようもない正論だ。
大学一年で発生した事実さえ、虚飾でいっぱいなんだ。人なんて助けることは出来はしないと、そう心の底から思う、嘘つきの私の事実。
そう宣っていたかった。
そう感じていたかった、嘘をついていたかった、人を助けるつもりなんて一切なかった。
それでも、6月の凛さんの事件はこれを否定する。たまたま、突っ立って手を掲げていた場所にボールが落ちてきた、そんな事件だった。偶々、凛さんを助けてしまった事件。
助けるつもりなんてなかった。助けられないと思っていたから、助ける必要なんてないと思っていたから、あの日、私は年端のいかない少女が痴漢されているのを見ても、動いたりはしなかった。
満員というほどでもないが、立っている人が散見される車内で、その事件は起こっていた。つり革に捕まっていた私は、隣で肩を縮こませ、震えている少女を一瞥した後、後ろに立つ人物に目がいった。
その人物は、傍目にみても痴漢をするような人物に思えず、清潔感溢れる、出来る上司の人物像を体現したかのような人物だった。そんな人物の手が少女に伸びていた。
ここからは、私の主観にもなるのだが、これは、一種のそういうプレイかもしれないと思ったのだ。なぜなら、少女は痴漢されている手を押し返したりはせず、それどころかその事実をランドセルを使って隠そうとしていた。
都会には変な人たちがいるものだと思った。関わらない方が自分の為だと言い訳をし視線を逸らして何事もなかったかのようにふるまった。私は関係ありません、見ていませんとばかりに大学進学とともに買い替えてもらったスマホを取り出した後のことだ。
慣れないスマホの操作に四苦八苦していると、不意に電車が大きく揺れた。
揺れた拍子に、私の指はカメラを起動してしまっていた。
カシャ、っというシャッター音を無理やり電子音に詰め込んだその音は案外、大きな音をたてながら走行している車内の中でもはっきりと響き渡った。画面に映り込んでいたのは、視界に納めないようにしていた二人。その二人がこちらに視線を向けているのが、カメラを起動しているスマホの画面が教えてくれた。
慌てた、それはもう慌てた。関わりたくないと思っていたことだったから。
そんな私を嘲笑うかのように電車はもう一度大きく揺れ、焦っていた私はそれはもう、面白い具合にバランスを崩して、男性のほうへと倒れこんだ。
私を見上げる少女、私から逃げていく男性。顛末はこんなところだった。
これが私と凛さんの出会い、6月に起こった、地方新聞にも載らないような小さな事件。
人は人を助けることなど出来ないと、そう信じ切っていた私を、あっさり裏切った小さな事件。
この出来事を、よかった、人としていいことが出来た、とは考えられない。正直、私という救いが凛さんのもとに行かないで欲しかった。苦しんでいる人は、そのまま苦しんでいて欲しかった。
だって、こんなにあっさり人が助かってしまうなら、高校一年の出来事は一体なんだったんだ。全部否定されてしまうじゃないか。人を助けるのは簡単だと、こんな偶然で馬鹿みたいな出来事で人を救えてしまうんだ、そんな事実が許容できるはずがない。
許容してしまったら、高校一年の出来事はなんだったんだ。
そんな事実を私に突き付けてくるなら、何故あの時、こんな馬鹿みたいな偶然は起こらなかったんだ。それだったら、何であの時、彼を。
弓弦 翔を救うことが出来なかったんだ。
長らく話してしまったが、つまりは、これが今回の問題提起である。
その答えを、私はおよそ3年越しに答え合わせをすることになる。
そして、その答え合わせが、私とラフィーさんのどうしようもなく滑稽な物語に幕をひく、序章になったのだった。