8
「エトムント・フッサール、ですか?」
私は、恐らく人名であろうその言葉をオウムのように繰り返した。人名ということは分かったが、それ以上のことは全く分からず、途中で言葉が止まる。教授は、気にせず続けた。
「少し、講義をしよう」
教授は、私を見て、腕を組む。自らの本分を果たすため、言葉を重ねる。
「エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール。彼も私と同じ研究者で、現象学、という全く新しい対象へのアプローチ方法を提唱した人物だ。これが、後に現象学的社会学に派生するのだが、今は置いておこう。青年に教授すべき言葉はこの考えの一つだ」
教授は短く、切り出した。
「エポケー」
そこで一旦、区切る。今のが重要な単語だと、そう言わんばかりの間があった。
「人々は、世界や自己の存在に対する疑念を停止している。
このような概念的な言葉では想像は難しいな。例を出そう。
私たちは、例えば、明日世界が滅ぶのではないか、例えば、今乗っている電車が脱線するのではないか、そういった余計な思考を封じ込めている。思考を停止させている。
深く考えるまでもなく、そこには自然的態度が介在する。自明な領域、つまりは考えなくてもいい当たり前のことを確保せねば、日々を過ごせないのだ、人間は。
この思考停止を、エポケーと呼ぶ」
エポケー。教授の話を聞きながら思ったのは、意外と可愛い呼び名だなとか、そんなことだった。学問の中にある言葉なのに、ごつごつとしていないというか。そんな呑気なことを考えていた私は、次の教授の言葉を聞いて、真意が伝わった。
「青年は、私から見た限り、エポケーが喪失、いや闕如しているな」
医者の診断のようだった。ただ淡々と言われるその言葉は、私の症状を読み上げているに過ぎない。
それなのに、喉が渇く、汗が出る。
「物事を考えすぎる。しかも、常人ならまず考えない出来事が、常に頭にちらついているのではないか?」
そんなことはない、常に空が落ちてきたらどうしようか、隕石が降ってきたらどうしようか、そのような考えても仕方のないことを頭に想定している訳じゃない。それは人として、人間としてどうしようもなく終わっている。
これ以上、この講義を受けるのは危険だと思った。声を上げようと、私は教授を見る。
「いや、これは私が教授として因果関係を求めているだけかもしれんな。だが、青年自身、愚考だと思っても考えてしまう事があったはずだ。それは恐らく、人間に対する根源的な、あるいは全面的な信頼感の闕如の現れだ」
それは、堂島さんのとき、白銀さんのとき、生徒会長のとき。私の思考は常に最悪を向く。他人なら恐らく、嗤ってしまうような出来事を生真面目に考える。
声が出ない。汗が止まらない。頭痛がする、吐き気がする。この教授から言われ、悩むと決めた時から発症し始めた頭痛。普段なら、十秒もかからず収まるそれは、過去最大の秒数と痛みを更新していた。
思わず、教授から目を背けた。しかし、逃げられない。
何時のまにか、壮年の顔を悪役のように歪ませた教授は、話を終わらせる気などなかった。
「逃げるな、青年。青年は歪んでいる、認めろ。歪んでいて、素晴らしい」
歪んでいる。漢字をバラせば、不正。不正していて、素晴らしい。
不正を認めろ。
片手で頭を支える。支えた際に、指の間からすり抜ける髪を思いっ切り掴んだ。頭から火花が出そうだ。内側をピッケルかなにかで叩きつけられている気分になる。
教授は私を酷く愉快そうに見た。その口角が上がるのを、視界の隅で視認する。
「青年、これは単純な興味なのだが」
やめろ。それ以上は言うな。
「過去に思考停止を放棄するような、いや、人間を信頼出来なくなった最悪な出来事でもあったか?」
頭をかきむしる。頭痛も吐き気も今はいい。どうでもいい。引っ込んでろ。目の前の問題だけが邪魔だ。鬱陶しい。それを排除するために口を動かせ。
「―――貴方に」
何故、お前にそんなことを言われなきゃならない。詮索されなきゃならない。心の奥まで見透かすな。見透かして、納得すんじゃねぇ。
「何が分かるっ・・・!」
息が吸えない、上手く呼吸が出来なかった。喘ぐように呼吸を求めて、肺が脈動する。
「ふむ、どうやら怒らせてしまったようだな。すまない、慰謝料だ」
教授は、私が机に置いた封筒を差し出した。挑発にも程がある。舐めているにも程がある。
私はそれには反応せず、火照った頭を冷まそうと、お茶を飲んだ。
「足らないか。なら、色をつけよう」
私の行動を間違って理解したのか、教授はこの金銭だけでは不足だと考えたようで、財布を取り出し、額を増やそうとする。新たに金銭が追加される前に、私は待ったを掛けた。
「要りません。貴方からは、何も要りません」
自分でも分かるくらい、眉間に皺が出来ている。こんな私でも意地はある。ここまでされて、何も思わない程、心は死んでいない。
「青年。人との関わり合いは、時に助けで、武器でもある。前に話したか。それを拒絶するのは、愚策だ」
「それでも、関わる人くらいは選んでもいいはずです」
「なるほどな、ではお帰りはあちらだ」
教授は綺麗な仕草で、研究室の扉を示す。
もう限界だった。私は席を立ち、教授を見て、手早く頭を下げた。
「老婆心ながら、一つ青年にはなむけだ。天才という言葉の定義は簡単だが、平凡の定義づけは難しい。それでも、青年が自分は平凡だと宣うなら、自分を愛せるように努力することだ」
「余計なお世話です」
「自分を愛せるようになったら、もう一度来ることだ。歓迎しよう」
「二度と来ません」
「これは予言だ。青年は、必ずここに来る」
付き合いきれない。そう思った私は、教授の言葉も、封筒も置き去りにして研究室の扉へ向かい、扉を開けて退出した。
研究室を出て、目についたアクリルの長い廊下。どこまでも続いているようで、どこにも続いていないように見える廊下は、私の気分を酷く害するものだった。
※注意
既に感想でご指摘いただいたので、追記します。
エポケーについては再度、章の後半で説明します。この話数でのエポケーについて鵜呑みはしないで下さい。