5
目が覚めたら体が縮んでしまっていた、なんてことは勿論なかったのだが、それよりももっと非現実的なことが私の目の前で繰り広げられていた。
鍋がもう、始まっていたのである。というか、既に消費された飲み物から察するに、ほぼ終わっていた。信じられない、気絶した人を差し置いて鍋を始めるなんて。いや、正直それも衝撃ではあったのだが、それよりも衝撃的な事が目の前で起こっていた。
炬燵に入っている堂島さんの膝の上に、凛さんが座っていたのである。それはもう、傍から見れば姉妹のようで、もっと言えば酷く仲良しな家族のようだった。
一体何があったんだろうか。二人の直前の出来事を身を持って体験した私としては、俄かに信じがたい光景である。まだ、目が覚めたら体が縮んでいる方が現実味があった。
「よぉ、起きたか」
聞こえてきた声を確認すると、ベッドに浅く腰掛けた御剣さんがいた。その手には私の所有物である小説が。些か、寛ぎすぎではないだろうかと思ったが、どうやら御剣さんは私が起きるのを待ってくれていたらしい。
「すみません御剣さん、今、どんな状況ですか?」
「鍋はうまかった」
酷すぎる。酷すぎる状況報告だった。というより結果報告だった。既に事後である。
「心配すんな、ちゃんと残してる。さっさと行って食って来い」
「そんな気遣い出来るなら、あの時助けて下さいよ。大変だったんですから」
彼はぺらぺらとページを捲る。
「無駄骨ってやつだけどな」
「無駄骨?」
「俺はな、あいつらだったら直ぐに打ち解けると思ってたぜ。それなのに慌てふためいてるお前は正しく無駄骨だったって言いてぇんだよ」
そう、だったのか。
小説を読む彼は、上品にページをめくる。その音と、会話のリズムが重なりあい、折り合い、紡ぐ。
会話が一旦途切れたことを面映ゆく感じた私は、なんとなしに首に手を回す。先ほどまで武骨な存在を醸し出していた首輪が無くなっていた。御剣さんが取ってくれたのか、堂島さんが取ってくれたのか、凛さんが外したのか。目を覚ましたばかりの私には判断がつかなったが、多分御剣さんが取ってくれたんだろうなと結論付ける。
御剣さんに視線を移すと、既に手に持っている小説を読み終え、次巻へと手を伸ばしていた。私のお気に入りでもあるその小説は、ローマ建国から西ローマ帝国の滅亡までを書いているもので、文庫本では43巻に綴られた歴史書であり、歴史小説である。その小説から目を離さずに御剣さんは続けた。
「今日のお前は少し、人間関係に過剰だ。過剰も行き過ぎているが、行きあたってはいねぇ。行き詰っていねぇ。人間関係に行き詰っていねぇ。それは、お前の進歩なんだろうがな。少しほっとけよ、そうすりゃ、良くなることもあんだ」
御剣さんから言われた、アドバイスだった。今日の鍋を成功させる為に奔走した、私に向けての言葉だった。端的に言えば、余計な気を回さなくてもいい、そういう言葉だろう。それは私にとっては突き刺さる言葉で、含蓄のある言葉だった。
そう言われると、確かに私らしくない気がした。無理に鍋を成功させようと片意地張っていたとも思える。そもそも、人との関わり合いが苦手な私が、慣れないセッティングをしたり、他人の関係に慌てふためくのはお門違いである。それは少し、歪んでいる。気を回して、自分を見ていない。肩の力を抜かれた、そんな気分だ。
「・・・すみません」
「謝るなよ、めんどくせぇ。今日の催しは、どっちかってぇと俺の我儘だ。俺がお前に頼んだ訳だしな」
今日の鍋。凛さんに対して、隠し事がある。それは、この御剣さんがどうしても隠し通したかった事。昨日、凛さんに私の嘘は暴かれたが、御剣さんの意図までは暴かれなかったということである。凛さんは何故か私に特化して勘がいいのだ。
「まぁ、お前にとっては今からが大変だろうしな」
「どういう意味ですか?」
「女は二人集まっただけでも姦しいってことだ。姦しい、って漢字を考えた奴は、ほんとに女のこと分かっちゃいねぇ。」
「はぁ、御剣さんは趣深いですね」
勿論、世辞だった。むしろ、ロリコンに女性のことを語られる漢字の製作者のことを不憫に思った。少女は神、と宣う人物が女性を分かっているとは大言壮語も甚だしい。
そんなつまらない世辞を言っていると、お腹が空腹を自己主張するように音を立てた。純粋にお腹が空いた。時計を見ればもう20時手前である。私は鍋を食べる為、身体を起こし、御剣さんに問う。
「御剣さんはもう食べないんですか?」
「いらねぇ、これ読んでる。腹も一杯だしな」
「そうですか」
そう言って、私はベッドから離れると、炬燵へと入った。
鍋に視線を向ければ、御剣さんが言っていたように私一人分くらいの具材が残っており、手付かずのままだった。ちゃんと残していてくれたらしい。どうやら高級なお肉も残っているようだった。御剣さんは変な所で義理堅いというか、律儀というか。
突然、炬燵に入ってきた異物を見るように、四つの瞳が私を貫く。それは堂島さんと凛さんで、不躾な視線を憚らず向けてくる。
それに対して私は、もう知るか、と思いながら、まだ綺麗な深皿とさえ箸を手に取る。御剣さんとの会話で、すこし肩の荷が下りたし、この二人が暴走した為、気絶する事になった私の心は少しささくれだっていた。こんな私にも礼儀は必要である。いくら凛さんが怖かろうが、堂島さんが暴力的だろうが、食べ物の恨みは怖ろしいのだ。私の中の恨みが二人の恐怖に打ち勝った瞬間である。
しかし、それをよしとはしなかったようで、私のさえ箸を堂島さんが掴んで止めた。
「アンタさ、鍋食べるのはちょっと後」
その行動を咎めたのは、凛さん。
「いいんです! 美音ちゃん!」
凛さんが堂島さんの名前を呼んだのを察するに、どうやらほんとに二人は打ち解けているみたいだった。私は少しゲンナリしながら二人に目線を送る。
「人の食事を邪魔してはいけないと思います」
呆れが来るのも仕方ない。二人に振り回されて、挙句、蹴落とされてまでいるのだ。気を回した私の気も知らないで、二人が勝手に仲良くなっているのは面白くない。
「真剣な話」
私の剣呑な雰囲気にも関わらず、堂島さんは言う。言わなければいけないと、瞳に意思を伴ったその言葉に、私も少し面食らう。改まって、という雰囲気だった。いや、改めて、という雰囲気だった。
「どんな話ですか?」
「アンタさ、残酷だね」
短い言葉だった。