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「せめぇなここ、犬小屋か?」
「開口一番で人を殴りたくなったのは初めてです」
「あぁ、すまねぇ。ほんとのこと言っちまって悪かった」
翌日、今日は日曜日だったので、大学もなく、あっという間に19時になり、鍋を始める時間になった。19時をちょっと過ぎたあたりで、うちのインターフォンが控えめに鳴らされ、扉を開けると御剣さんが。高そうな革のコートと、これまた高そうな革の手袋を装着し、銀髪を引っ提げているその姿を見ると、どこぞの勇者かと突っ込みたくなる。顔が綺麗すぎてコスプレみたいになってることにこの人は気づいてないのだろうか。
御剣さんは手にもった紙袋の中身を確認しながら、私の首の辺りを執拗にみる。私の首には、現在、勝手に動き回らないようにと、凛さんが首輪を嵌め、鎖で繋ぎ、部屋から出れないようにしていた。これでは、本当に犬である。犬小屋とは本当に気が利いた皮肉である。
「助けてください」
私は目の前の御剣さんに懇願した。人間という尊厳を奪われつつある私は、乾いた笑みで涙を滂沱させ、静かに祈る。聞いてください御剣さん、この鎖、本物なんです。重いんですよ。なんなら持ってみますか。
「諦めろ」
彼は短く言うと、高そうなブーツを脱ぎながら、私のアパートに入ってくる。ひたすら興味が無さそうな目は、冷徹で、極寒だった。
「あ、透くん! いらっしゃい!」
「よう、凛。元気してたか? 風邪引いてないか? あいつに変なことされてないか?」
「もう! 透くんは心配症なんだから! 私はだいじょーぶだよ!」
「んならよかった。これ、日山本店の肉な。使ってくれ」
「わ! すっごい良いお肉! ありがとう透くん!」
ちょっと待ってほしい。首に首輪を付けられた私がいるこの異空間で、そんな和やかなムードは可笑しいと思うんです。二口コンロが設置されているその場所で、親戚同士の会話は今はちょっと違うと思うんです。
鍋の担当は、凛さんが進んでやっている為、二口コンロの前に立っているのは凛さんだ。そこに御剣さんが並びたって、持ってきた食材をコンロの横に置き始める。もう別にとやかく言うつもりはないんだが、御剣一族は私のアパートを我が物顔で使いすぎである。
そこに並ばれていく食材を横目に、私は、今では炬燵になっている勉強机の上に、ジャラジャラと鎖の音を立てながら食器を並べていく。食材は見目麗しいものばかりで、私は先ほど聞いた肉屋の名前を思い出す。あれ、そこって高級店では。となると、今日の鍋は途轍もない高級な鍋になりそうだ。
鎖に繋がれている我が身ではあるが、少し世界が私に対して優しくなったような気がする。やはり日ごろの行いがいいと、巡り巡って私の元にも幸福が舞い降りるようだ。思わぬ幸福とは正に今の状況を指す言葉かもしれない。
お肉に羨望の眼差しを向けていると、他のお肉が横に別積みされていることに気づく。それは安っぽい白い発泡スチロールのトレーに乗せられたもので、所謂、そこらへんのスーパーで売られているお肉だ。
「凛、こっちの肉はお前のペットの分な」
本当にやってくれるあのロリコンめ。
わざわざ二か所で買ってきたのか。そんな気遣いは無用なのに。だが、その企みは不発に終わるだろう。あのロリコンと違って、凛さんは常識を弁えている。一人違うお肉は可哀想だと言って、私にも高級なお肉が分けられるのは想像に容易い。
「ペットだなんてそんな! もう!透くんのバカ!」
違った。一番常識がないのは凛さんだった。顔を真っ赤にさせ、そのちっちゃな身体をくねくねさせて恥ずかしがっている凛さんを見て、戦慄する。鎖の重さが、心なしか増した気さえする。そうだ、常識を弁えているなら、鎖に人は繋がない。当たり前の結論なのに、現実から目を背けた結果がこれだ。
「ちょっと待ってください!御剣さん!」
「あん? なんだよポチ」
「人の名前を勝手に変えないでください! 私もその高そうなお肉ご相伴に預かりたいです!」
「でもよ、これ人の食べ物だぜ?」
「私も立派な人ですよ! 身なりはこんな事になってますけど!」
「なぁ、ポチ」
少しトーンを落とした御剣さんは、えらく真剣な表情になった。
「お前の言いたいことは、まぁ分かるぜ。誰だっていいものが食べたい。それは仕方ねぇことだ。痛いほど分かる。なんたって、三大欲求のうちの一つだ。そう抗えるものじゃねぇ。だがな、料理の価値、いや言い換えようか、料理の美味しさってのは一体何で決まる? 値段か? そんなの当たり前にノーだ。そんなことじゃねぇんだよ料理ってのは。必要なのは、愛情だ。愛情が料理を何倍にも上手くするんだ。凛、お前にも経験は無いか? ポチにご飯を作った時、そんないい料理じゃなくても喜んでいるなんて具合にな」
「んー、確かにあったかも!」
やばい! この会話の流れは私にとって不利だ!
「聞いちゃダメです! 凛さん!」
「え?」
「いや、凛。よく聞け。これはお前への試練でもあんだ。確かに俺が今日持ってきた肉は両極端だ。一方はグラム単位が馬鹿みてぇにたけぇ肉。もう一方は、グラムと円が釣り合ってるような肉。普通に食ったら上手いのはたけぇ肉に決まってる。だが、もし。もしもだ。安い肉が高級な肉を上回ることがあったのなら、それはもう、一重にこういうしかねぇ。愛が勝ったってな」
「愛が勝つ・・・?」
「凛さん! ダメです! その言葉は何の証明にもなっていません! もっともらしい事を言って話題を誘導しているだけです!」
プライミング効果。予め経験した刺激によって、後の判断が左右される現象を表す心理学用語だ。話題で経験済みの行動を擽り、その後の行動を特に制約も設けていないのに、人の判断を操る。詐欺師が多用し、悪用する典型的な手口だ。いや、アフォーダンス理論の方が適切だろうか。
「そうだ。凛、愛情でこの肉を、いや、この原石を、宝石にしてみねぇか? そうすれば、きっと喜ぶぞ、お前のペットは」
「―――うんっ! 私頑張ってお兄さんのお肉作るね!」
「凛さん!? 考えなおしてください! その理論で行けば美味しいお肉を貴方が調理してくれれば私はそれに勝る幸福を得られるはずなんです!」
「ううん! それじゃ私の運命の証明にならないから! 待っててねお兄さん! 美味しいお肉作るから!」
張り切って包丁を握る凛さんは、もう話を聞いてくれる状態ではなかった。涙が止まらない。どうして、一体どうして。
「いやぁ、よかったな。ポチ」
そう言って嗤う御剣さんは、これでもかと言うほど悪役が極まっていた。こちらを見下す瞳に、私は抗いの目をもって睨み返す。まだだ、まだ私が高級なお肉を食べられる算段はある筈だ。
今は時を待つ。この流れが変わるその時を。
ピンポーン
不意に鳴らされたインターフォン。来た。
私は流れを変えるチャンスの到来を肌で感じた。鎖をジャラジャラと鳴らしながら、玄関まで駆け寄り、扉を開く。
「お邪魔しま、って何そのカッコ? え、何!? どういう状況!? アンタ大丈夫なの!?」
扉の前には、漆黒のかつらを被った堂島さんがおり、目をぐるぐるしながら私の姿を見てテンパる。そんな堂島さんを見て私は結論に至った。
この空間で、一番常識を弁えているのは、この人だ。