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あの日は高校2年生の真夏だった。夏がとめどなく押し寄せ、それに伴い、暑さを容赦なく下々の私たちに降り注ぐ、そんな日だった。
「正直に話せ」
うだるような暑さに、体は抵抗することが出来ず、だらだらと滝のように汗を流しながら、西洋美術館に置いてあるような彫刻像と向き合っていた。思えば、この時から彫刻像に呼ばれる頻度が多くなっていた。そして、覚えている。この時までは、彫刻像が呼び出す内容が真っ当なものだったことを。
「何を話せばいいですか?」
答えた私は、唇を切ったせいで血を流し、頬には青痣を作っていた。
「誰にやられた?」
彫刻像は真剣な表情で見つめていた。昨今、生徒のいじめを隠蔽したりするニュースが流れる中でも、こんな彫刻像もいるんだなと、私は口に出さないで心に留めた。
「安心してください、先生。こんなこと、もうないですから」
私は抑揚のない声で紡いだ。これ以上は問題が起こらない、だから安心して欲しいと。もう面倒なことになんてなりませんと。そういう意味を含んだ文言だった。事実、私はこれ以上はもう殴れる心配がないのも確かだった。
「誤魔化すな。もう一度聞くぞ、誰にやられた?」
それに私は面倒くさいと思いながら、生徒指導室の外に視線をやった。不快だった。いちいちこちらのことを気にかけてくるこの彫刻像が、鬱陶しくて邪魔だった。私は、もう目の前の彫刻像を像という人間を模したものとは認識せず、置物か何かだと思うことにした。置物相手に話す必要は一切感じられず、視線はずっと窓に向けていた。
「言うまで帰さん」
この置物は、どうやら音声認証でドアをロックしているようだった。本当に邪魔な置物だなと思いつつ、結局、早く帰りたい私は声を紡いだ。
「友達、だった人に」
殴ってきた元友人は、私に最後まで付き合っていた馬鹿だった。どうしようもない馬鹿だった。不快で、気味が悪くて、怖かった。敬語を使い始めてから、私の周りの人物は、私を「遅れてやってきた厨二病」と揶揄したり、馬鹿にしたり、気味悪がって離れていった。それでも今まで根気強く話しかけてきたのが、殴ってきた元友人だった。
「どうしても辞めさせたかったみたいです、私の話し方。私は辞められそうにはなかったので、素直に言ったら絶交されました」
だから、私程度の人間に構ってくる人などもういない。手が届く距離に人が居ないなら、誰が殴ってくるのか。私の周りには誰もいはしない。なら、もうこんな事は起こりようがなかった。
「人と関わる必要がないなら、話さないっていう選択肢もあったんですかね」
吐露しながら、それは無理だと決めつけていた自分がいた。置物に呼び出されれば、こうやって話さざるを得ないし、連絡事項が生徒から言われた時も、それに対して返事はしないといけなかった。話さない、ということは出来そうになかったから、私は敬語を使うというあぜ道を選んだ。
「わかった。よーく、わかった」
置物は、そんな言語を発信していたと思う。その時の私は、さっさと帰してくれと思いながら、置物を見ていたはずだ。
置物は、不意に正面から私の後頭部を掴み、思いっきり自身の額へと私の額を誘った。
バキャっ、という名状しがたい音が双方から鳴り響いた。
「―――あぁ!クッソめっちゃいてぇ!」
思わず呻く置物を尻目に、私は私で額を抑えた。それくらい、痛かった。今でもあの痛みを思い出す度、頭が勝手に反応して、額にたんこぶを作ってしまいそうな。
「っ、なにするんですか? 体罰ですよ?」
平静を装った。本当は痛かったのだ。でも、不思議とその痛みは、頭じゃなく、ずっとずっと深い、胸の辺りを思いっきり押し込むような痛さだった。
「違う、体罰じゃない。これは愛情表現だ。I IOVE YOUっていうジェスチャーで、もっというなら、LOVE&PEACEってやつだ」
「そんな旧日本軍みたいな愛情表現あってたまりますか」
「いいか、よく聞け屁理屈ヤロー」
置物は、こちらの音声を認識しない不良品で、暴言を吐く粗悪品だった。
「俺はお前に何があったかなんて知らねぇ。ただ、何となくは察しがつく。弓弦が転校したことと関係してんだろ」
「――――答える義務がありますか?」
「あぁ、ねぇよ。だが、言っておく、言わなきゃ気がすまねぇ」
さっさと帰りたかった。帰って、誰とも話さなくてもいい空間に居たかった。会話をするのは酷く億劫だった。
「俺はお前を絶対に一人にしない。どんだけ嫌がっても、どんだけ嫌われても、絶対に一人にはしない」
早く帰りたいんだ。友だちが一人も居なくなって、それでも生き方は変えられなくて、そんな馬鹿を、真っすぐ見つめられていると思うと泣いてしまいそうだったから。
嫌なんだ、もう。人と話すのも、人と関わるのも、誰かに気にかけてもらうのも、誰かを気に掛けるのも、もうたくさんだった。
友だちが居なくなって、よかった。そう思いたかった。関わる人間が一人減って嬉しい。そう思いたかったんだ。
それでも、土足で思いっきり人の心にずかずかと入り込んで、お茶を啜るような置物に、全て見透かされていたのだろう。本当は、そう思い込みたかっただけなんだって。
誰かに傍にいて欲しい。そう思っていることなんて。
「俺はお前の担任だ。お前が拒否しようが、それは絶対に変わらん。お前が一人の人間として成長するまで付き纏うぞ、俺は自分のクラスの評価が下がるのが嫌だからな。問題を起こすような生徒は、ずっと監視する」
結局、この置物が、私にとっての先生になるのは時間の問題だったのだ。
所謂、根気負けってやつで。
これは高校2年の真夏の思い出だ。少し、ほろ苦い思い出だ。