五
芥川龍之介。
偉大な小説家の本名だ。
僕は小学生の頃、図書室に入り浸っていろんな本を読んでいた。
自分の背よりも大きな棚を気ままに見て回って、目についた本を片っ端から借りていく。そして貸し出し期間の半分も過ぎないうちに全て読み切って、返却してまた借りる。その読書癖は三年生の読書の秋から卒業するまで続いた。
その中に、あの本はあった。
『河童』。芥川龍之介が晩年発表した小説の、漫画版。
児童文学や歴史漫画が列並むあの図書室で、僕は初めて、文豪芥川龍之介と邂逅した。
『河童』は、幼い僕を魅了した。
あの恐ろしげな倫理観、不可思議な地下世界に蟠る確かな清潔さ、人間の旧習を打破する彼らの思考と会話、そして河童の国へ迷い込んだ第二十三号の見てきた世界の正誤と、正邪。
どれもが、それまでに読んできた児童文学とは一線を画する衝撃を僕に与えた。幼い僕は物語の意味や内容なんてまるでわかっていなかったけれど、読み終えて本を返却してからも、物語が残した薄ら寒い陰鬱に僕はずっと囚われていた。
──芥川龍之介の命日は、「河童忌」と呼ばれる。
僕は彼ほど立派な作家ではないけれど、それでもなんとなく、思うところがある。
あの『河童』は彼にとって、自ら命を絶つまでに彼を追い込んだ世界を風刺する〝剣〟であり、同時に、彼自身の鬱屈とした世界を反映する〝鏡〟でもあったのでは──と。
少なくとも、いまの僕にとっては、あの作品はそういう存在に近い。
僕を小説家に駆り立てる獣が、いまもあの短編小説のなかに潜んでいるのだ。
机の上には、《芥川龍之介追悼祈念文学賞》に応募する、彼に因んだ題材で書き進める小説の原稿が散らばっている。
原稿の始まりには、『水洟』と銘打って題を書き入れた。
それはあの日、僕の目と鼻腔から流れ出た陰鬱だ。
誰も知らない、僕だけの河童。
スタンドの光に照らされる原稿から、僕は右の手首に残る小さな切り傷に目を移した。
それは小さい頃からの夢を諦めようとして付けた、そしてそんな勇気すらなかった僕の、浅く深い古傷。
「……龍馬くん?」
龍馬は、はっと我に返った。
時計の針は、いつの間にか二時過ぎを指していた。考え込むうちに、時間を忘れてしまったらしい。
目を覚ましたらしいメイが、カーテンの向こうから声をかけていた。
「………ごめん。起こしちゃった?」
「ううん。大丈夫」
メイは寝起きの、穏やかな口調で言った。
「つらいときは、いつでも言ってくれていいからね。だから、書き続けて」
「…………うん。大丈夫、ありがとう。おやすみ」
おやすみ、と返して、メイはまた眠りに就いたようだった。
すうすうと規則的に聞こえてくる寝息に、龍馬はゆっくりと心を落ち着けた。
深呼吸を繰り返して、頭に溜まった痼りを吐き出す。右手を握って、開いて、また握る。長く書き続けて少し痺れてはいるが、指先は十分に動いた。
龍馬は低い天井を仰いで、北にある本棚へ目をやって、一度ぐるりと部屋の中を見渡してから、短い嘆息と共に原稿へ目を落とした。
左手に握った万年筆を、いつもの右手に持ち替える。
この右手で、僕は今日も自分の小説を書いている。
僕は芥川龍馬。芥川龍之介の遺志を継ぐ、新進気鋭の新人作家だ。
どうもこんにちは。
桜雫あもるです。
ストーリー中盤でgdgdしましたが、これにて完結です。
そして活動報告のほうにも書きましたが、自分が応募しようとしていた「文学フリマ」は、実は開催されていませんでした。ぬんぬん。
肩透かしを食らった気分ですが、まあそこは自分の確認ミス。
これからは意識を切り替えて、次の、そして今までの未完結の小説を、順次仕上げていきたいと思っております。
そういえば今春、一週間程度ですが、オーストラリア西海岸のほうへ短期研修に行けることが確定しました。
オーストラリアへ行くのはこれで二度目なのですが、前回は東海岸で、しかもまだ中学生時分だったので、今回の研修ではたくさんの新しい経験ができるよう期待しています。
また更新速度は落ちると思います。なにせ、一章一章長いものですから。
なるべく早く皆さんに小説をお届けできるよう、これからも尽力していく所存です。
それでは、またどこかでお会いしましょう。
ご一読ありがとうございました。