二
青年、芥川龍馬(PN)は小説家を志す若者だった。
歳は二十歳と三ヶ月、背格好は中肉中背に黒い短髪。伸びてきた青髭は今朝剃ったので、今はさっぱりとしていた。彼はアパート近辺の大学に通う学生で、平日の昼間は自転車でキャンパスへ通い、講義を聞いている。
彼が小説家を志したのはざっと五年前、高校に入学したての頃だ。荒波に揉まれた受験期を経て、無事志望した大学に通うことになってからも拙い文章を何度も繰り返し新人賞に送り続けた結果、つい先日、見事に賞を獲得した。新聞の記事にもならない程度の賞ではあったが、彼は素直に嬉しかったし、素直に喜んだ。長年芽が出ないと悩みに悩んだ結果がやっと芽吹いたのだと、そして自分の腕をもっと磨きたいと、そんなふうに思っていた。
そんな折、彼は大学からの帰り道、たまたま通りかかった古びたアパートの壁に、こんな文字を見つける。
「入居条件 小説家志望」
短い文言に彼は目を丸くしたが、続いてその下に書かれた言葉を見て、思わずあっ、と声を上げそうになった。
「小説家ヲ志ス人、支援シマス。朝晩飯付キ、風呂共同、ワンルームトイレ付キ。アナタノ希望ニ合ッタ出版社ゴ紹介イタシマス。」
これが、小説家の卵、芥川龍馬の本格的な始動だった。
* * * * *
朝食を終えた龍馬は部屋に戻って、また机の前に座り込んだ。
座り続けて腰に痛みがあるのか、片方の手で尻をさすりながらもう片方の手で座布団を引っ張ってきて、尻の下に敷いた。
そこで、廊下に通じる出入り口の扉が、こん、こん、とノックされた。
「入りますねー」
「はーい」
声をかけて入ってきたのは、今朝この部屋で目を覚ました女性だった。
女性はシルエットが全体的にほっそりとしていて、大きな栗色の瞳と肩まで伸びたやかな黒髪が印象的だった。女性はゆったりとした白地のチュニックブラウスに、下は青のパンツを穿いていた。ぴったりと肌になじむパンツの裾を足首のところで曲げていて、その下にベリーショートのソックスが覗いている。
朝、鏡を見たので身嗜みは整えたのだろうが、別段化粧を施しているふうには見えなかった。
特別美人というわけではないが、素朴というか落ち着いているというか、壁を感じさせない純な雰囲気が、女性の魅力であった。
「ごめんね、片付け任せちゃって」
「いいえ。昨日は龍馬くんがしてくれたので、今日はあたしとハルくんで済ませただけですよ」
そう言って微笑む女性につられて、龍馬も小さく笑みをこぼした。
彼女の名は花澤メイ(PN)といって、龍馬のルームメイトだ。
彼女と龍馬は同じ出版社の新人賞でいっしょに入賞を果たし、そこから交流が始まった。龍馬にとってはアパートの先輩であり、貴重な女友達だ。
男女でルームシェアをしている、というのは当然奇妙な話で、誰に言っても困惑まじりの怪訝な顔をされてしまう。別段交際しているという実情もないし、事実、当人たちもそれが特殊な事態であるのを正しく認識していた。
にも拘らず、二人が同じ部屋に仕切りを設けてまで暮らしているのにはそれなりの訳があった。
時はひと月ほど前に遡る。
龍馬が白樺荘に越してきてしばらく経ったある日の夜、隣の部屋から劈くようなソプラノの悲鳴がアパート中に響き渡った。アパートの壁は薄いので、アパート内のほとんどの住人にそれが聞こえていた。その時も例によって〆切に頭を悩ませていた龍馬は、驚いて万年筆をこぼして原稿用紙にひょろ長い髭をいてしまった。
何事かと戸惑う反面、迷惑な隣人に腹が立った龍馬は、すっくと立ちあがると部屋を出ようと扉に手をかけた。すると、
「いやあっ」
龍馬がノブを捻るほんの手前で、勢いよくドアが外側に開いて、何かが龍馬の身体めがけて突進してきた。扉を開けるタイミングを失って前のめりになった龍馬に対し、見事に虚をいたそのタックルは攻撃としては目を見張るものがあったが、助けを求める行動としては間違いなく下の下であった。
ともあれ、その際に龍馬にぶつかった隣人というのが、現在のルームメイトである花澤メイその人だったのだ。
同じ間取りの隣室に住んでいたメイは、夜間突如として現れた昆虫綱類の黒光りする人家生活型害虫に驚いて悲鳴を上げたらしい。そして助けを求めようと隣の部屋へ突入したところ、部屋を出ようとした龍馬とぶつかったのだとか。
ここまでならよくある笑い話だが、問題はそのあとだった。
騒ぎを聞きつけた大家の伊月がメイの部屋に入ったところ、部屋の隅、タンスの真裏に、害虫のコミュニティが形成されているのを発見してしまった。大家も大家で害虫に耐性はなかったらしく、後日駆除の業者を呼ぶことにはなったものの、それまで同じ部屋で害虫と同衾することは、どうしてもメイにはできなかった。
そこで、仮住まい、という形で、メイは偶然飛び込んだ隣室──つまり龍馬の部屋でしばらく暮らすことになった。
当時アパートにいたのは帰省していた住人を除けば男性ばかりで、メイにとって歳の近い(そして見るからに女性に対して免疫のなさそうな)龍馬の部屋に転がり込んだのは、僥倖といって差し支えなかったろう。
そんな経緯で同室で暮らすことになった女性、メイがコーヒーを淹れてくれる後ろ姿を、龍馬は頬杖をついてぼんやりと眺めていた。
ちなみに、小説家らしい後日談として、駆除が完全にはできなかった旧メイ部屋の後釜に、田舎育ちで這い回る害虫を物ともしない天才文学肌女子高生が入居した、というのはアパート住人周知の事実だ。
メイは龍馬の部屋に越してきて、かなり献身的に家事を担当してくれるようになった。比較的ずぼらな龍馬に代わって、彼女の持ち前のしっかりとした部分が顔を出したのだろうが、やはり急な共同生活に申し訳ないという気持ちがあったのも手伝っているのだろう。
「はい、どうぞ」
メイは自分の分も合わせて二つ、湯気の立つコーヒーカップを部屋の真ん中にある机の上に置いた。
「ども」
気恥ずかしそうにして、龍馬はコーヒーを軽く啜った。
「今度の賞、大変みたいですね」
「え? ああ、うん」
話しかけられて、龍馬はカップを机の上に置きながら苦笑で答えた。
「《芥川龍之介追悼祈念文学賞》って名前を見つけたときは、これだ! って思ったんだけどね」
「そういえば、私たちが初めて会った新人賞のときからそのPNでしたよね」
「そうだね。メイさんは、あの頃はなんだっけ。えーと……」
「中野です。簡単に本名をっただけだったので、あのあと変えましたけど」
そうだそうだ、そんなのだったと笑って、龍馬はもう一度コーヒーカップに手を付けた。
「メイさんは、〆切うまくいったの? 女性向けライトノベルの雑誌だっけ」
「はい、なんとか。一週間前に提出できました」
「すごいなあ」
「雑誌といっても、ただのコラム欄ですよ。そこに、期限つきの契約でちょこっと連載してるだけ」
メイは謙遜して首を振ったが、その顔は随分綻んで見えた。
龍馬はその表情を、愛しさと、羨ましさの入り混じった心持ちで眺めていた。
* * * * *
昼になるまえに、メイは部屋を出て行った。
いま連載中のものとはまた別の雑誌の編集者と打ち合わせがあるとのことで、龍馬はまた複雑な気持ちでそれを見送り、机に張り付いて自身の小説の続きについて悩んでいた。
カーテンの隙間から部屋に差す光の角度と量が変わって、龍馬は唐突に空腹を覚えた。このまま書いても大したアイデアは浮かびそうにないと思ったので、渋々下に下りて、カップ麺に注ぐ湯を貰いに行った。
下のキッチンには、基本的に大家の伊月がいる。伊月は白樺荘にいるあいだは、大抵自室で本を読んでいるか、キッチンのあるリビングでテレビを見ているかである。
リビングのドアを開くと、案の定伊月はそこにいた。
「龍馬。お湯かい?」
「はい。いただきます」
割烹着の伊月はよし、と頷くと、キッチンへと入り、そこに繋いであったポットを確かめた。龍馬もキッチンに入って、ちょうどよい温度だったポットを受け取りカップの中に並々いだ。
「どうも、ありがとうございます」
礼を言って踵を返そうとしたとき、
「ちょっと待った」
後ろから伊月に呼び止められた。龍馬が振り向くと、
「上に行くついでに、華厳坂さんのとこにこれ持ってってくれない?」
伊月から渡されたのは、昼食の載ったお盆だった。
誰のかと問われれば、二階の隅に住む華厳坂(PN)のもの、と答えるしかない。
華厳坂は白樺荘でも最古参の住人の一人で、四十代後半の小父さんだ。
昔はそこそこ売れた小説家だったらしいが、バブル時代に入った印税をギャンブルで使い果たし、一時は文字通り一文無しになったという怪しい噂を聞いたことがある。最近も専ら篭りきりで、龍馬も白樺荘に入居してから引っ越しの挨拶と全員の集まるご飯のときに会ったことはあるが、一貫して「ダメなおっさん」という印象しかないのが本音のところだ。
白樺荘では昼食は各自好きなようにする約束だが、
「ほんとはみんな平等がいいんだけどね。最近朝ごはんのときにも降りてこないことが多いし、あんまり心配だから。残り物の有り合わせだけどね」
という伊月の慈悲の一声で、ご飯、味噌汁、おかず二品と揃った立派な昼食が龍馬の手でデリバリーされることになった。龍馬としては早く自分の昼食を済ませたいところだが、アパートに住む以上は人付き合いも大切な仕事の一つだ。
龍馬は階段を上がって自室へ向かうのとは反対へ廊下を進み、一番端にある扉を、持っているお盆を一旦下に置いてゴンゴンと叩いた。
一度目は返事がなかったが、二度、三度とノックを続けると、もにょもにょと低い声が聞こえた。返答の意味がわからず龍馬は少し悩んでから、ノブを捻った。
「華厳坂さん、伊月さんに頼まれてお昼ごはん持ってきました。入りますよ」
聞こえるように大きく声をかけて、龍馬はお盆を持って部屋の中へ。
龍馬の部屋と間取りはそんなに変わらないはずだが、掃除が行き届いていないとか、紙片やごみがその辺に散らかっているとか幾つかの要因が重なって、部屋は比べようのないくらい薄汚くなっていた。
龍馬はなんとなく、足音を立てないようにそろりそろりと歩いた。
短い廊下を進んですぐ、奥にある部屋の真ん中に、華厳坂は寝転がっていた。
華厳坂と思しき背中の向こうにはテレビが点いていて、スポーツかなにかの実況者が喧しく叫ぶのが聞こえた。図体の大きな華厳坂の周りを、新聞紙や本、空いたビールの缶に、なぜか麻雀牌がばらばらと無造作に取り囲んでいる。
「……あの、華厳坂さん。ここ、置いときますね」
あまり積極的に関わりたいとも思えず、龍馬は小さな声で、奥の部屋の入り口のところにお盆を置こうとした。が、
「おい、大変だ。ちょっと来てくれっ!」
突然、背中を向けて横になっていた華厳坂が声を張り上げた。
「えっ?」
驚いて、龍馬は手に持ったお盆を乱雑に床に置き去ってその後ろ姿に駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか? 具合でもわる」
「見ろ! 当たったぞ、2‐3‐4! 大穴だ、二十万だぞ!」
しゃがみこんで華厳坂の顔を覗き込もうとした龍馬が言い終えるまえに、華厳坂は嬉しそうに一枚のチケットを目の前でひらひらと振ってみせた。
龍馬の後ろのテレビでは、先ほどのうるさい実況が今まで勝ち星のなかったガゼルジャナイヨとかいう名前の牝馬が初めて一位を取った、という内容を大々的に放送していた。
「……華厳坂さん。なにやってるんですか」
「なにって、馬だよ。馬」
悪びれもしない華厳坂に、龍馬ははあっと溜め息をいた。
「ご飯、持ってきました」
「悪いな。いま手が離せんからそこに置いといてくれ」
そこ、と指差された場所にそれらしい空間が見当たらなかったので、龍馬は軽くそこにある物をどけてから部屋の入り口に置いたお盆を持ってきた。
「……ほら、華厳坂さんが大声出すから、味噌汁こぼれちゃってるじゃないですか」
「知らん知らん。大家の奴に、礼だけ言っといてくれ」
そう言うと、華厳坂はまたテレビに向き直って、横になってしまった。
「……はい、かしこまりました」
はあ、ともう一度溜め息を吐いて、龍馬が立ち上がろうとすると、
「なあ龍馬」
「はい?」
またしても呼び止められた。
中腰なのもなんなので完全に立ち上がり、顔だけ華厳坂に向けると、彼は龍馬に背を向けたままで言葉だけ投げかけた。
「〆切には間に合いそうか?」
「へ?」
龍馬の口から、間の抜けた声がこぼれた。
誰から聞いたのか、華厳坂はどうやら龍馬がここ数日〆切に悪戦苦闘しているのを知っているようだった。
「まあ、ぼちぼちです。そういう華厳坂さんはどうなんです?」
龍馬が訊ねると、
「ここ数年、〆切守るどころかまともに書いてすらいねえよ」
華厳坂は、とんでもないことを言ってのけた。
「え?」
「最後に編集から連絡があったのは、ありゃ五年くらい前か。懐かしいもんだ」
「それって、だめじゃないですか!」
「なにが?」
「いや、だって白樺荘の入居条件は《小説家として働いているか、小説家になるために創作、応募等活動していること》ですよ?」
龍馬は声を荒げたが、
「じゃあ、書いてる。応募もしてる。これで文句ないだろ」
そんなふうに素っ気なく返されてしまって、二の句は続かなかった。




