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「粉雪」

作者: さわいつき

 一ヶ月ぶりに見るその顔に、思わずあんぐりと開けた口が塞がらない。

「なんだ、その、珍しい物でも見るような顔は」

「いや、実際珍しいし。ていうか、なにそれ」

 びしりと右手の人差指で、真っ直ぐに彼の顔をさす。

「人を指さしちゃいけませんって、親から教わらなかったのか」

 親からも先生からも教わった記憶はあるけれど、思わず指さしてしまうくらいに珍しくて見慣れない物がそこにあるのだから仕方がない。

「なに、その不精髭! ってーかもう、不精髭って呼ぶのもおこがましいその熊面!」

 そう。目の前にいる彼の顔の下半分が、髭で覆われているのだ。これは昨日今日伸ばし始めたなんて可愛いものじゃない。その程度の不精髭なら、父で見慣れている。

 恐らく二週間以上。下手をすると会わなかった約三週間、伸ばしっぱなしだったのであろうと思われる、熊のような顔。

「そんな顔で、会社に行っていたの、もしかして」

「いや。ちょっとばかり海外にいたからな」

「海外って、なにそれ聞いてない」

「言っていないからな」

 可愛い彼女にひと言の断りもなく海外って何事ですかと、襟首掴んで詰め寄った。仕事が忙しくて会えないのだろうとは思っていたけれど、まさか海外だなんて、予想もしていなかった。

「仕方がないだろう。急に決まって、着替えを取りに来る暇もなかったんだ」

 とりあえず、洗面用具は空港で、下着類は現地で調達したらしい。寝泊まりしたのは工場の仮眠室で、当然の事ながらアメニティグッズなどが置かれているはずもなく。結果、髭は伸ばしっぱなしになったそうなのだけれど。

「で? いつ、帰って来たの」

「昨日」

「じゃあ、なんでどうして剃らないの、それ」

「いや、ここまで伸ばしたのは初めてなんだが、これもなかなかいいと思ってな」

 やっぱり、開いた口が塞がらない。

「どうせ、月曜日には剃らなくちゃならないんでしょ。だったら今すぐさっぱりしちゃったら」

「まあまあ。これはこれでいい物があるんだ」

 そう言うなり腕を掴まれて引き寄せられ、危うく前のめりになったところを、がっしりと両手で捕獲された。

「ほれ。今日と明日限定だ」

「う、うぎゃーっ!」

 すりすりと頬ずりをされ、当然の事ながら頬に熊のような髭が擦れる。ぞぞぞぞぞ、と背筋を寒気が走り抜け、条件反射のように両手で力いっぱい彼の顔を押しのけた。ぐきりと音が鳴ったような気がするけれど、気付かなかった事にする。

「なにするのよ! 見てよこのサブイボ!」

 両腕には、見事に鳥肌が立っている。

「お前、髭は平気じゃなかったのか」

「不精髭くらいなら許せるけれど、ここまでになるとダメ! 生理的に受け付けない!」

 実際、父や彼の不精髭なんて見慣れているし、今更どうとも思わない。父はともかく彼の髭は、どこか色気があってそれなりに好きかもしれない。とはいえ、ここまで来ると不精髭の域を超えている。

「そこまで言うか」

「そこまで言ってやる! ってわけだから、放してちょうだい」

 全身で拒否の意思を示すと、さすがに腕の力が緩んだ。その隙に彼から離れ、再びその顔を指差した。

「その髭を剃るまで、キスさせないからね」

「キス以上の事ならいいのか」

「挙げ足を取るなーっ! それ以上もそれ以下も、だめに決まっているでしょうっ!」

 一気に叫んだら、さすがに息が切れた。

 しばらくそのまま膠着状態が続き、やがて彼が盛大な溜息を吐きだした。よっこらしょとオヤジ臭い掛け声とともに、座っていたソファから立ち上がる。

 こちらに向かって来る彼に、思わず臨戦態勢を取ると、今度はふふんと鼻で笑われた。

「な、なによ」

「剃ってくれば、キスもそれ以上もそれ以下もOKという事だな」

「え?」

「自分で言った言葉には、責任を持てよ」

 ぽかんと口を開いているわたしの肩を軽くたたき、鼻歌混じりに洗面所に消えていく彼は、なぜだかやたらと機嫌がいい。

 そしてそれを見送ったわたしの額と背中には、先ほどとは違う種類の汗が、じわりと滲んで来ていた。

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