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ちゃんと栄養摂ってるか?

作者: 沙猫対流

 家のドアを開けた時、見慣れない黒い革靴があって驚いた。丁寧に磨かれ、使いこまれた大きな靴は、一目で父のものだと判った。

「お帰り、冬美。久しぶりだね」

 居間からは久々に聞く父の声。続いて、

「貴方、話を聞いてるの?」

 母の厳しい声が飛んできた。

「今日、お父さん来てたんだ。私が塾行ってる間に」

「連絡も碌によこさないでね。今日電話かけてきて、こっちに出張だから泊めてくれって」

 母は溜息をつき、甲高い声で説教を始めた。来るなら来るって何で言っておいてくれなかったのよ。向こうへ行ってから、ずっとそうなんだから!

 父の単身赴任が決まったのは、私がちょうど小学校に上がる頃。赴任先では結構忙しくしているようだが、偶に帰ってきてくれるのはやっぱり嬉しい。

「ご飯はもう食べたの? もう九時半だよ。私は食べてから塾行ったけど」

「駅前にラーメン屋があってさ。遅く着きそうだと思って、簡単に済ませてきた」

 良いだろ。父は悪戯っぽく笑う。私があそこの野菜湯麺好きなの知ってて。

 塾の鞄を自室へ運びこんだ後も、まだ母の小言は止まる気配が無かった。


 次の日起きると、時計はもう十時十分。アナログ時計が最も美しく見える時。平日よりずっと朝寝坊だ。

 母の姿はなかった。食卓に置かれていた手紙によると、予約してたヨガ教室に行かなきゃいけないそうだ。折角父が来て、私も塾が休みだというのに。

「お、もう起きたのか」

 父がよれよれのパジャマ姿で、二階の階段を降りてくる。

「母さんは?」

「ヨガ習いに行っちゃった。ご飯は昨日のおかずで適当に済ませておけって」

 私は台拭きを絞って、テーブルを拭きはじめた。水滴が手からぽたぽた垂れた。

「ヨガなんて行ってたのか」

「前話してたじゃん。聞いてなかった?」

 あぁそんな事言ってたなぁ。父はぽんと手を打った。何度か言ってたと思ったけど、心の中だけに押し留めておく。

 残り物だけじゃ寂しいし、汁物を何か作ろう。冷蔵庫の野菜室を開けると、使いかけの人参が目についた。白菜に玉ねぎもまな板の上に出した。

「野菜スープ作れるけど、いる?」

「貰おうかな。よかったら、手伝うよ」

「じゃあ、玉ねぎ剥いて。それだけで良い。昨日遅かったんだから」

 白菜を笊に放り込み、ざぶざぶ洗う。父もゴミ箱の前に立って、茶色い薄皮を剥がしていた。

 オーブントースターからは、パンの焼ける美味しそうな匂いが漂ってきた。


「随分手際よくできたじゃないか。味も悪くない」

 父が褒めてくれた。お椀から立ち上る湯気で、黒縁の眼鏡は曇っている。

「将来は独り暮らししたいから。その予行演習」

 私はちょっと目を逸らして、スープをお匙でひらりと口に運んだ。熱くて舌が痺れる。

「独り暮らし、か。そういや隣に住んでた、葉山の息子さんもそうだったな」

「そう。だから私もいつか、と思って」

 窓の外には隣の家が、いつもと変わらぬ様子で佇んでいる。前はよく葉山先輩が玄関先で、掃き掃除やらゴミ出しやらしてたものだが、去年進学の為に大きな街に行ってしまった。ゴミ捨場で世間話に花を咲かせるのも楽しかったが、仕方ない。

「高校の先輩だったんだろ。淋しくないか?」

「まぁね」

 曖昧な返事だ。父も会社の人達とは上手くやってるようだし、御給金も悪くないと言った。

「でも平気。高校、楽しいよ。授業は少し難しいけど、面白い。特に世界史」

 元気な所を見せようと笑顔を作った。父は目玉焼きの黄身を、箸で器用にくり抜いて口に入れた。

「……冬美、何でお父さんが、毎月忘れず帰ってくるか解るか」

 言って、髭についた黄身を拭う。

「私とお母さんがいるからでしょ」何の疑問も抱かず答えた。家族は本来一緒に過ごすものだし。それが至極当たり前の事で、普通の事。

「独り暮らしって、結構気楽なもんだって思ってるだろ。そうでも無いんだよ。嘘だらけの大人社会に独りで立ってるとさ、ずっとずっと疲れる」

 父は手元の新聞をちらりと見た。ぼけっとした顔の政治家がトップを飾っている。不正をやらかして吊し上げられたのだ。

「昨日母さんから聞いたぞ。数学のテスト、微妙な出来だったんだってな」

 私は何も言わなかった。言えなかった。

 大正解だよ、お父さん。でも今言わなくて良いじゃない。一緒のブランチの時じゃなくても。

「昨日の塾でも数学やった。全然できてなかったの。最悪だよ。一度死んで生まれ変わりたい」

 何でこうなるの。この仕打ちは酷いよ。先輩いなくてただでさえ心スカスカなのに。あれこれ考えていると目の奥が熱くなってくる。

 母にはあまりこうやって愚痴は言わない。どうせ、貴女まずいんじゃないの、もっと頑張りなさい、で終わるのは判っているからだ。勿論話を聞いてくれた事に感謝はしているけど。

 父は目を閉じ頷いていた。お疲れさん、と静かに労ってくれた。私は強く目を瞑る。

「誰かと一緒のご飯ってのは良いぞ。一人だとつい栄養が偏っちゃうけど、他に見てくれる人がいる。それに心の栄養は一人じゃ絶対摂れないからな」

 ちょっと臭い台詞だったかとからから笑って、マグの珈琲を飲む。

「珈琲にも栄養ってあるのかな」

「お父さんは好きだけどな。落ち着くし、特に家族が入れたやつは、真心が伝わるんだ」

 真心。例えば缶コーヒーでも、仲良しの誰かとなら伝わるものか。余計美味しくするものか。少なくとも、目の前の霧を払うのには役立ったみたいだけど。

 私はおもむろに丸パンをちぎって、スープに浸し、口に入れた。胸がほかほかと温かかった。


 〈おしまい〉

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