第6話
ずっと、求めているものがある。
絶対に手に入らないと知っていたから。
だからずっと、それが欲しかった。
誰にも秘密。
誰にも内緒。
だってそれが、〝条件〟だったから――。
【新章 今の君に、触れるとき】
東の空から、闇を明ける光が顔を出し始めた。
春になったばかりの今の季節、まだ朝方は冷えることが多い。だからといっていつまでも温かい布団の中にはいられない。
枕元に置いたスマホのアラームが、しつこく起きろと急かしてくる。手慣れた動きでその音を止めた。
「……起きなきゃ」
眠たい目を擦って、なんとか布団から脱出する。大きく体を伸ばせば、少しだけ眠気が吹き飛ぶような気がした。
華弥の朝は早い。
というのも、一人暮らしをしているうえ、住んでいる場所が神社だからだ。掃除はもちろんのこと、朝拝もしなければならない。
剥がれた朱色の鳥居がひっそりと建つ、あまり目立たない小さな神社とはいえ、近所の人には愛着をもって訪れられている場所である。
ちなみにご祭神は人神で、遥か昔、この地で多くの人々に救いの手を差し伸べた人物だという。
それゆえ彼女の死を悼んだ人々が、ここに社を構えて神として祀ったのだとか。
しかしあまりに昔のことだからか詳しい文献は残っておらず、祀られている神の名が菖蒲大神ということだけしか解明できなかった。
華弥がそんな榊神社に住んでいるのは、ここが亡くなった母の生家だからである。父も鬼籍に入っている華弥は、いろいろあって三年前からここで暮らすようになった。
つまりこの神社は、華弥にとって親の形見も同然なのである。
「織、朝ごはんできたよ~」
掃除も朝拝も終えて朝食をつくった華弥は、宙に向かって適当に声をかけた。そうすれば己の式神が寝ぼけ眼でやってくることを知っている。
「腹減ったぁ。おっ、今日は焼き魚か。魚はいい、大好きだ」
いつも俺は猫じゃないと怒るわりには、そういうところが猫っぽい。と思わないでもない華弥だったが、あえて口にはしない。
愛らしい姿に忍び笑いを浮かべていたとき、織が不思議そうに訊ねてきた。
「今日は予定でもあるのか?」
「学校はまだ春休みだし特にないけど、どうして?」
「そうかそうか。じゃあ今日はのんびりできるな。にしてもよかったなぁ、学校が長い休みで」
もぐもぐ口の中で魚を頬張りながら、織がしきりに頷いてみせる。それには一緒にご飯を食べていた華弥も頷きながら苦笑を漏らしてしまう。
もうあれから、どれくらいが経っただろう。
芸能事務所から依頼が来て、RAINの佐野恭也と出逢ってから。
おそらくひと月弱が経ったのではないかと思う。時が流れるのは案外早いなぁと変に感心した。
あれはちょうど、春休みに入るか入らないかの頃だった。彼を守って怪我をした華弥だったが、学校が長期休みだったおかげで、クラスメイトたちに怪我を見せる事態を免れた。それに、もし治るまで休んでいたら、自分は確実に留年していただろう。
「もう怪我もだいぶよくなったし、痛むこともほとんどないわ。これで佐野さんも気にしないでくれるといいんだけど……」
ぴたりと、食事をしていた織の手が止まる。
「ああ、あれは意外だったな。まさかあいつがここに来るなんて」
「私もびっくりしちゃった」
「あのときは本当に笑ったな。あいつ、霊的なものは信じないとかなんとか言っておきながら、木花咲耶姫に案内されておったわ。そのときの引きつった顔といったら」
――傑作だった、と豪快に笑う織に、華弥はそのときの様子を思い出して眉尻を下げる。
確かにあれには驚いた。
普段は自由気儘で姿を見せることもあれば見せないこともある、大変気まぐれで話しかけてくることなんてもっと珍しいあの女神が、どういう風の吹き回しか、恭也を華弥の元までわざわざ案内したのだ。
華弥が神気を感じて振り向けば、なんだか疲れた顔をした、いるなんて夢にも思わなかった人物がそこにいた。
おかげで一瞬思考が停止したが、我に返ってどうしたのかと訊ねれば、恭也は少し不機嫌そうに口ごもった。いや、今思うともしかしたら、あれは気まずかっただけなのかもしれない。
が、とにかくあのときの自分は、恭也の放つ空気にビクビクしながら返事を待った。
そうしてようやく「怪我は」というぶっきらぼうな言葉を聞き出せたのだ。
「ふふ、やっぱり変わってなかったなぁ、佐野さん。なんだか安心しちゃった」
恭也はあの事件のとき、華弥が負った怪我に対してきちんと謝ってくれた。だというのに、それからも暇を見つけてはこの榊神社を訪れ、華弥の怪我の様子を確認していく。
神社の中で常人には視えないはずのモノが視えたときにはあからさまに苦い顔をしているのに、それでも彼はやって来た。
彼にとっては嫌いな相手のために。
嫌いなモノを視てしまうことも覚悟の上で。
学生とアイドルを両立させている彼に暇な日などほとんどないだろうに、それでも傷の様子を見て、日によっては本当に見るだけでひと言も話さず帰っていくときもある。
素直じゃない恭也の、そんな不器用な優しさに触れるたび、胸の奥底にしまったはずのものが溢れそうになるから困ってしまう。
でもそれも、もうお終いだ。
怪我はもう、ほとんど痛みはない。包帯も外れた。
恭也に辛そうな顔をさせずに済むと思うとほっとしたけれど、もう会えなくなるのかと思うと寂しい気持ちも込み上げてくる。
「でももともと、会えるはずの人じゃなかったものね」
こぼれた呟きは、空気に溶けて消えていく。
織もどこか寂しそうに押し黙る。
それは、彼が人気アイドルだからとか、そういう理由ではなく。
もちろんそれも理由の一つではあるけれど、恭也がアイドルであろうとなかろうと、自分がまた彼に関わることができる日が来るなんてあのときの華弥は想像すらしていなかった。
それに本当は、あまり彼に関わってもいけなかった。
関わって、もし万が一にでも恭也の記憶が戻ったら――確実に彼を不幸にする。
だから華弥は、今までずっとテレビの向こう側にいる恭也を影ながら応援してきた。会うことができなくても、姿を見ることはできたから。
恭也がアイドルとしてテレビに映るようになったとき、もしかすると誰よりも華弥が喜んだかもしれない。
「……さて、いつまでも感傷に浸ってる場合じゃないわね。今日は暇だし、そろそろ先生のところにでも行こうかな」
その言葉に、織が少しだけ目を丸くした。
「あいつのところに? ふむ、まあ久々すぎて、あいつの雷が落ちないといいけどな?」
織がニヤリと笑う。
せっかく気持ちを切り替えようとしたというのに、意地の悪い式神である。




