第4話
ガシャンッという派手な音の次に、たくさんの悲鳴が飛び交う。
咄嗟に腕の中に守った人の無事を確かめるため、華弥はすぐに身を起こした。
「大丈夫ですか。しっかりしてくださいっ。目を開けて!」
押し倒す勢いで庇ったせいか、見たところ照明が当たった様子はないのに恭也が苦しそうに唸っている。唸っていることに、華弥はまず安堵した。息をしていることが何よりもほっとしたからだ。
「きょ――佐野さん、大丈夫ですか、返事できますか?」
「恭也!」
「大丈夫か、佐野くん」
だんだんと周囲に人が集まりだす。
ようやく恭也が瞼を上げた。
「……っ、すみません、大丈夫です」
身体を起こした彼と目が合って、ついぱっと逸らしてしまう。でも意識がはっきりしていることも確認できて、心の底から安堵した。
共演者や監督たちに次々と声を掛けられる恭也を横目に、華弥はその場からこっそりと離れる。
恭也が無事だとわかったからか、監督が割れた照明を片付けるようスタッフたちに指示を出していた。当然だが、撮影はいったんストップするようだ。
恭也は救急箱らしきものを持ったスタッフに連れられていくところだった。
「華弥、腕」
「大丈夫」
織に怪我を指摘されるが、小声で問題ないと返す。照明のガラス片が掠っただけだ。かなり渋い顔をされたものの、これくらいの痛みは慣れっこだった。
「それより、ねぇ織、恭くんが怪我してないか念のため見てきてくれない?」
「おまえ……こんなときでもあの小僧か」
「私が行くと気分を悪くさせちゃうみたいだから。ね、お願い。織なら視えないし、バレずに済むでしょ?」
「なんで俺様が……」
ぶつぶつと文句をこぼす式神を宥めていたら、視界の端にこちらへ向かってくる誰かが映る。なんだろうと思って焦点を合わせると、なんと恭也が怖い顔をしてこちらに近づいてくるではないか。
「ね、恭くんがこっち来る。なんでっ?」
「知るか。それより逃げなくていいのか?」
「今逃げたらあからさま? 怒らせちゃうかな。どうしよう、どれが正解だと思う、織っ」
「だから俺が知るか。いっそ捕まってみたらどうだ? 邪魔者はいったん消えてやるから」
「あ、織っ」
面白がって本当にどこかへ行ってしまった式神を恨む。やっぱり恭也は華弥に用事があるのか、困惑するスタッフを置いてあっという間に目の前にやってきた。
緊張と恐怖で心臓が嫌な鼓動を刻み始める。やはりあからさまだろうと関係ない、逃げよう。そう思って身体を反転したけれど、時はすでに遅かった。
「逃げるな」
「す、すみませんっ」
思いきりガンを飛ばされて、反射的に謝ってしまう。
「動くな」
「はいっ」
困惑と混乱で言われるがままじっとしていたら、左腕を取られた。引っ張られるままついていくと、救急箱を持ったスタッフの許まで連行される。
「佐野くん、いきなりどっか行かないでよ~」
「すみません。その救急箱、借りてもいいですか? 手当ては自分でできるので、皆さんのところに戻ってあげてください」
「えー、本当に大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
恭也が清々しいくらい綺麗な笑顔を浮かべる。テレビでよく見る顔だ、と華弥はちょっと嬉しくなったけれど、意図せずぶつかってしまったあの日からずっと、残念ながら自分に向けられたことがないことに気づいて地味に落ち込んだ。
スタッフが片付けの手伝いに向かうのを見送ると、恭也が華弥の肩を掴んで押さえてきた。抵抗することなく膝を折ると、ちょうど後ろにあったダイニングチェアに座らされる。
「右はこっちか」
「え、あの?」
「いいからじっとしてろ」
袖を捲られて、そこで初めて抵抗する。それ以上袖を捲られないよう阻止した。
「おい、手」
どけろ、と言われなくても彼がそう言いたいのがわかる。
「いえ、でも、平気ですので」
「どこがだ。思いっきり服が破れて血が出てんだろ」
「そ、それはたぶん、きょ――佐野さんの気のせいじゃ……」
「なわけないよな?」
「……ですよね」
どうやら彼は相当怒っているらしい。普通に怖かった。この恐怖は、彼に会うことを怖がっていたときとは違う恐怖だ。まるでヤクザに恐喝されている気分になる。
でも、と手当てをしてくれる彼を見て思う。
(私のこと怒ってるのに、手当てしてくれるんだ)
彼の根っこの部分が変わっていないことが、こんなにも嬉しい。嬉しくて、勝手に頬が緩んでしまう。
綺麗に巻かれた包帯を見て、つい懐かしくなってしまった。
「上手なんですね」
「まあな。なんでか知らねぇけど、手当てだけは昔から得意だったから」
うんうんと頷く。
そこでじっと見つめられていることに気づいて我に返った。
「手当て、ありがとうございました。佐野さんは大丈夫ですか? 必要ならさっきのスタッフの方を呼んできますが」
自分の手先の不器用さを自覚している華弥は、「私がやります」とは言わない。
それに、あまり長く彼と一緒にいるのは……と考えて、ハッと気づいた。
(あれ。そういえば恭くん、私と話してても、特になんともない……?)
どういうことだろうと思案していたせいで、恭也の言葉に一瞬だけ反応が遅れる。
「必要ない。あんたのおかげで怪我なんてないし。だから……その……助かった」
ぽかーんと口を開けたまま彼を凝視してしまう。
そんな華弥の反応が良くなかったのか、またすごい形相で睨まれる。
「けど、それと今日の件は別だから。俺は幽霊だのなんだのは信じちゃいないし、お祓いと称して弱者から金を毟り取る奴も大っ嫌いだ」
「あ、はい」
「『はい』じゃない。俺が言うのもなんだけど、少しは反論しろ」
「でも、実際にそういう人がいるのも確かですから。佐野さんの立場から見れば、私も同じに見えるのは理解できます」
それよりも、こんなに普通に恭也と話せていることのほうが驚きで、頬が緩むどころの話ではなくなった。
彼に会ってはいけないと止められていたから、会ったらすぐに取り戻してはならない彼の記憶が蘇ってしまうのかと思っていた。けれど、それは勘違いだったのだろうか。
しかも、自分がしたことに彼が「助かった」と返してくれたのだ。こんなに幸せなこともない。こんなの、喜ぶなというほうが無理な話だ。
「なんつーか……あんた変わってんな」
「そうですか?」
「ああ。嫌いって言われてニヤける奴、初めて見た」
恭也が若干呆れたように言う。それさえ華弥を喜ばせる。見ているだけでは知れなかった彼がそこにいるのが、華弥にとっては心が浮き立つくらい嬉しかった。
「ちょっと恭也~、もしかしてまた華弥ちゃんのこと虐めてるの?」
「春樹。いや、どう見ても虐められてる顔じゃねぇだろ、こいつ」
「う~ん? 確かに? ってか、恭也が素を出してるの珍しいね。さっきも思ったけど」
「!」
すると、今気づいた、みたいな顔で恭也が固まった。
華弥としては自分の知っている彼はこんな感じだったので、特に何を思うこともなかったけれど、どうやらこの態度の彼は珍しい部類に入るらしい。
(確かにテレビで見る恭――じゃない。間違って呼ばないためにも、「佐野さん」で統一しておいたほうがいいよね)
テレビの画面越しに見る彼は、確かにもっと柔らかい口調と表情だった。と思ったけれど、それより自分は呼び方に気をつけなければと気を引き締める。
これまでは直接話せる機会がなかったから好きなように呼んでいたが、こうして直接話すなら間違っても名前で呼ばないように気をつけなければ。
なぜなら彼と自分は、廊下の曲がり角でぶつかったあの日が初対面であるべきなのだから。
(佐野さん佐野さん佐野さん! よし、大丈夫、間違えない)
そうやって内心で呼び方の練習をしていたせいで、
「ふ~ん。まさか俺の知らないところで恭也に春が来てたなんてね~」
「ばっ、違う! こいつがおまえを食いものにしないか警戒してただけで……!」
そうだろ!? みたいな視線を寄越されて「はい、佐野さん!」と元気よく返事をしてしまった。
おかげで春樹には爆笑され、恭也にはちょっと引かれる。
「ふふっ。華弥ちゃんって面白いね。そこ全力で頷くんだ。ところで、恭也とはどこで知り合ったの?」
「えーと、実は打ち合わせの日に、廊下の角でぶつかってしまいまして……」
「え! 何それ少女漫画の導入みたい! 運命の恋が始まるやつじゃん」
「始まらない。いいから春樹は黙れ」
「え~、いいじゃん。華弥ちゃんかわいいし、面白いし。俺はいいと思うな~」
「マジでおまえ黙れ」
二人の気安いやりとりに、寂しいような、心が温かくなるような、そんな複雑な気持ちが生まれる。
もうあの頃とは違うのだと、まざまざと見せられているような気分にもなる。
(そうよね。佐野さんはもう、一人じゃないから)
今の彼は、キラキラと輝かしい世界で、たくさんの仲間やファンに囲まれて、きっと充実した毎日を送っているのだろう。
それは華弥自身も願ったことだ。彼がそうあるようにと願い、見守ってきた。
だから、寂しくなるのは違うと言い聞かせて、これ以上自分の存在が邪魔にならないよう「すみません」と断りを入れる。
「私、そろそろ仕事に戻らないといけないので」
「あ、ごめんね、そうだよね。じゃあ一つだけいいかな。華弥ちゃん、さっきは恭也を助けてくれてありがとう。本当はこれを言いに来たんだ」
優しい微笑みを向けられて、華弥も自然と笑顔になる。恭也の隣にこんなに優しい人がいてくれることに、心がじんわりと温かくなった。
「気にしないでください。私が勝手にやったことですから」
それだけ言って、二人の許を離れる。
(大丈夫)
彼の〝今〟を喜べる。
(大丈夫)
彼の〝今〟を守ることができる。
(だから、大丈夫)
この〝今〟を、後悔なんてしていない。
「じゃあ、撮影再開しまーす」
その声を背後に聞きながら、華弥はリビングを後にした。




